Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。

ノンフィクションノベル
ハーフ・アンド・ハーフ ある日系人の20世紀            スピアーズ洋子著
日米の狭間で時代の嵐を生きた日系家族の物語

ノンフィクション・ノベル


ハーフ・アンド・ハーフ


ある日系人の20世紀



日露戦争停戦の年から平成にかけて、日米の狭間で20世紀の時代の嵐を生きた日系家族の物語。

         スピアーズ洋子著



目次




プロローグ
出会い

第1話 アイ・シャル・リターン
マニラ空襲
軍属か死守部隊配属か
フィリピン人の復讐
米軍捕虜となる
オールド・ビリビット捕虜収容所
モリと名のる新来者
POWメール

第2話 明治時代に移民した両親
父の渡米
ピクチャー・ブライド
両親の新生活

第3話 ポートランドの幼少年時代
再出発
アジア人移民法成立
ジャッキーとの出会い
アメリカの家族
世界恐慌
農場生活
初めての里帰り
日本語学校
禁酒時代(1920年から1933年まで)
13歳で取った運転免許

第4話 ポートランドの日系人社会
日系少年の夏休み
母と椿油と大日本婦人会
母とゴルフと藤原義江
「もし日米戦争が起きたとしたら?」松岡洋石外務大臣への質問
日系家族の親子の対立
アラスカの鮭缶工場

第5話 シカゴ(1930年代後半)
将来の選択 オプトメトリスト(検眼医)
日系名士上杉氏、カレッジを譲渡される
シカゴへ
シカゴの上杉氏とコンタクトレンズ
アーミッシュ村訪問
ユダヤ人の同室生
第二次世界大戦勃発
卒業

第6話 軍国日本
特高に睨まれて
痛恨の講演会
徴兵検査
太平洋戦争突入
徴兵を逃れて

第7話 ナウル島侵略
まずはトラック島へ
ナウル島
日本軍の虐待
宴の終わり

第8話 フィリピンの捕虜生活
捕虜になった日本兵たち
敗戦 帰還

第9話  戦後の日本
母のいる長野へ
モリとの再会
マッカーサーの眼鏡
米兵たちと眼鏡の枠
運命のいたずら
母の就職、結婚、父との再会
日本縦断講演
オプトメトリストとして
アメリカン・オプティカル
ヘッドハンティング

エピローグ
別れ

あとがき

参考文献&図書                       










プロローグ


出会い


 メルボルンに住む友人のホームパーティで、私は一人の老人に出会った。20世紀も終わりに近いある晩のことだった。
 居間にあるダイニングテーブルに大きな鮨皿がドンと置いてあった。周りに人がたくさん集まっていたので、少し我慢して人数が減ってからテーブルに行った。サーモンの握りをつまもうとしていた小柄で恰幅のいい老紳士と目が合った。
「タスマニアのサーモンは旨いですね。若い頃、サーモンは見るのも嫌だったが、メルボルンに来てから、こうしてサーモンの鮨を食べるなんて、人生、面白いものです」
「あらっ、どうしてサーモンが見るのも嫌に?」
「アラスカの鮭缶詰工場で働いていたことがありましてね。夏の二ヵ月ほどですが、毎日毎日鮭ばかり食べていた。それからは一時期、鮭は見るのも嫌でした」
そう言いながらも、老紳士はサーモンの鮨を口に放り込んで旨そうに食べた。背は低いが堂々としていて自然態、磊落な感じであった。
「アラスカ? ずいぶん遠い所に行かれたのですね」
「いや、若い頃はアメリカに住んでいたのでアラスカは遠くなかった。日本人ですが二十一才までアメリカで育ちました。血は日本人、精神形成はアメリカ。ハーフ・アンド・ハーフです」
 互いに自己紹介をした。老紳士はトミー・マツウラと名乗った。彼はアメリカでの想い出や第二次世界大戦中のエピソードなどを話しはじめた。興味深い話ばかりだった。好奇心にかられて一つ質問をすると、尋ねた以上の返事が返ってきた。パーティではなるべく多くの人と話をするのがマナーとされているが、私はずっと彼のそばを離れず話に聞き入った。
「こんなに興味深い貴重なお話、その場に居た人たちだけが聞いて、それで終わってしまうなんて本当にもったいない。書き溜めて本にでもなさればいいのに」
「実はよくそう言われるのですよ。だけど私は、話したり読んだりはできますが、日本語を書くのは苦手です」
「だったら、誰かに書いてもらえばいいのに。よろしかったら私が代りに書きましょうか?」言ってしまってからハッとした。
「すみません。初対面で唐突にこんなこと言ってしまって、失礼しました」
彼は目を細めて私の顔を眺めてから、
「いやいや、謝ることはありません。考えて見ましょう」と言った。
 それ以来、しばらくトミー・マツウラに会う機会はなかったが、頭の中では彼から聞いた様々なエピソードが反響していた。あの日の出会いを憶えていてくれるかどうか気になったが、一月ほどして思い切って電話を入れてみた。
「パーティでお会いしたスピアーズ洋子です。あの時の本を書くお話、どう思われますか?」
「そうですね。私はリタイヤーして暇ですから時間はいくらでもありますが・・・・。一度遊びに来ませんか? お昼をごちそうしましょう」
「テープレコーダーを持って伺ってもいいですか?」
「・・・・・・・・・」
 短い沈黙があった。
「そうですね・・・・いいでしょう。それでは来週にでも来ますか? 私の方もいろいろと考えてみましょう」
 電話の向こうの声が弾んでいるのが感じ取れた。
 私が旧式のテープレコーダーを片手に初めて松浦家を訪ねたのは、南半球の秋、メルボルンでは黄葉が盛りの4月25日のアンザックデーだった。
 アンザックとは、第一次世界大戦の時のオーストラリアとニュージーランド連合軍のコードネーム。イギリスの要請に応じて多くのオーストラリアとニュージーランドの若者が、祖国の危機を救おうとヨーロッパに馳せ参じた。4月25日はこの大戦中、オーストラリア軍がトルコのガリポリ海岸で悲惨な上陸作戦を敢行した日である。結果は無残な敗北であった。以来4月25日は第一次世界大戦に限らず、戦死者を弔うオーストラリアの戦争記念日となった。
 ドアのベルを押して中に入ると、意外なことに広い日本風の玄関のたたきがあって、上がり口にスリッパが一足揃えてあった。
「やあ、よく来てくれました」と松浦さんは、パーティで出会った時と変わらぬ磊落な態度で迎えてくれた。
「迷いませんでしたか? 高速道路はどうでした?」
「休日ですから空いていました。軍人たちの追悼パレードがあるシティ周辺はどうか知りませんけれど」
「そうそう、今日はアンザックデーですね。以前、日本人はこの日は外出を控えて家に閉じこもっていたと聞きましたが、本当ですか?」
「ええ、1970年代くらいまではそのようでした。反日感情がまだかなり強かったようで」
「そうでしょうな。日本軍は東南アジアでかなりきわどいことをやってましたからね。オーストラリア兵を大勢捕虜にしたし。まあ、どうぞ」
そういって書斎風の庭に面した部屋に通してくれた。庭には数本の桜の葉が黄色く色づいていた。
「すごく日本風なお宅ですね。松浦さんが設計されたのですか?」
「いや、この家はオーストラリア人のものでした。何でも日本に10年近く住んで日本がすごく気に入り、オーストラリアに戻ってきてから日本趣味の家を建てたのがこれです。風呂も洋式、和式と両方あります。この家を建てて2年もしない内にヨーロッパに転勤になりました。いつ戻れるか解らないので売ることにしたらしいです。だけど余りに日本的な家なのでなかなか買い手がつかなかったらしい」
この時、奥様が盆にのったお茶を入れてきてくれた。
「おじゃまさせていただいています」
「主人は本当に話好きですから、どうぞ、ごゆっくり。あとでお昼をご一緒しましょう」と言って盆をテーブルに置いていった。若い時はさぞ美しかっただろうと思われる控えめでしとやかな雰囲気が漂よっていた。
「お庭も日本風ですね」
「世の中、変われば変わるものですな。オーストラリア人が日本風な家を建てる。それを日本人が買って、こうして住むなんて夢にも思いませんでした」
「本当に。今ではアンザックデーに外出しても心配ないですが、以前は必ずと言っていいほど、この日には東南アジアの捕虜収容所にいたオーストラリア兵の写真がマスコミに出ていました。骨と皮だけのようなフンドシ姿のオーストラリア兵が空き缶を持ってスープをもらうために行列している姿とか。アンザックデーに新聞やテレビを見ると気が重くなりました。でも、今では日本ひいきの人がたくさんいます。海苔巻きはオーストラリア人の好物ですし。メルボルンには250軒以上のすし店があるそうです」
「そうですか、一昔前までは信じがたいことですね。ところで、洋子さんは戦後生まれでしょう」
「いいえ、生まれたのは戦争中です。太平洋の洋をとって戦勝祈願の意味も含めて洋子と名づけたと聞いています」
「そうですか。でも戦争の記憶はないでしょう」
「ところが、逃げる母の背中に負ぶわれていたようなおぼろげな記憶があります。焼夷弾が落ちる時、空が明るくなってきれいだとか。実は、母は初め広島に疎開していたのですが、親戚と折り合いが悪くなって山口県に移ったんです。それで広島の原爆は免れて、私もこうしてこの世に居るわけですが。山口県の光市には軍事工場があったので、空襲は多かったそうです。そのたびに母は私を負ぶって山の中に逃げたとか。B29という爆撃機の飛ぶ音とか空襲警報の音など、かすかな記憶があります」
「そうですか、あなたにも空襲の記憶があるのですね。それでは、今日がアンザックデーということもありますから、私の戦争体験から話を始めましょうか」
そう言って松浦さんは椅子に座りなおし、少し改まった口調になった。
 それから、週に一度二ヶ月ほどの間、旧式のテープレコーダーを持って、彼の家を訪ねた。
 あれから10年以上経ってしまった。
 現在私の机の中には11本のテープが大切にしまってある。
 テープ起こしはしたものの、11本のテープが本になる機会はなかった。原因は私の力不足といっていい。テープ起こしはしたものの話をまとめるために必要な歴史的背景、その時代、社会に関する知識、理解が足りないのを痛感した。当時の私は明治維新後の日本と世界の関わり、太平洋戦争についての知識が乏しかった。メルボルンに住んでいながらの資料集めは困難で遅々として進まなかった。インターネットはまだ一般に普及しておらず、年月一つを確かめるのも、本を1冊取り寄せるのも時間と日数がかかった。半ばあきらめの形で、11本のテープは私の机の引き出しの奥にしまわれたままだった。
 しかし時代は変わった。海外に住んでいてもインターネットのおかげで、年代などの確認や調査手段は以前とは格段の差がある。日本から本を取り寄せるのもアマゾンのおかげで簡単になった。インターネットで「日本の古本屋」というサイトを開けば、日本へ行かなくても、以前に発行された本や資料的な本がどこにあるか、取り寄せが可能かがわかる。
 歴史の証言ともなりうるトミー松浦の貴重な体験を、私の机の引き出しに埋もれさせてしまってはならない。彼との約束を果たすべく、もう一度チャレンジしてみることにした。それは、日米の狭間で20世紀の時代の嵐を生きた、ある日系人家族の生涯をたどることでもあった。
1


第1話 アイ・シャル・リターン


マニラ空襲

 
あれは1944年9月、私がマニラにある日本の水産会社のオフィスで働いていた時でした。その水産会社は、英語でミルクフィッシュと呼ばれる魚の稚魚を獲って来てマニラ湾岸の養水池で養殖し、日本軍に提供していました。
オフィスはマニラ市街の中心に近いビルの二階で、日本人は数人、他はフィリピン人でした。そのフィリピン人たちは英語を話しましたが、日本語はほとんど解りませんでした。そこでの私の主な仕事は通訳でした。
 その日は空襲警報も鳴らないのに、遠くに爆撃機の姿が見えました。たくさん飛んでいるな、と思いながらオフィスの窓から見ているうちに数がどんどん増えてきました。まるで空を一面覆い尽くすかのようでした。
「すごいな、上に行って見てみよう」
と言って、同僚たちみんなで屋上にあがって見ていました。銀色の機体が太陽の光を反射して、キラキラと光って、とてもきれいでした。
「きれいだなあ、それにしてもすごい数だね」と言いながら感心して見ていた時でした。爆撃機がマニラ湾で日本の軍艦が停泊しているあたりに爆弾を落とし始めました。
「あれっ! 日本の軍艦に爆弾を落としているぞ! あれはアメリカの飛行機だ!」
「わっ! 大変だ!」
そう叫んで、みんな転がるようにあわてて屋上から下りました。外に出てみると、日本軍は高射砲を空に向けて応戦していました。そのうちに街にも爆弾が落ちてきました。ほんの一瞬の間に爆弾は落ちてくるし、日本軍は高射砲を撃ちまくっているし、その間をフィリピン人は右往左往しながら走りまわっている、という大混乱になりました。
 それがアメリカ軍によるマニラで初めての空襲でした。第一波が去って、しばらくすると次が押し寄せて来ました。その日は何度も空襲がありました。フィリピン人と一緒に爆弾が落ちてくるなかを逃げまどって、その時が戦争の本当の恐ろしさの初体験でした。その時、日本軍はどうしていたのか知りませんが、マニラでは空中戦など一度も見ませんでした。爆弾は、もういいように落とされっぱなし。会社の人たちも「航空隊は、いったいどうしたのだろうか」と不思議がっていました。この日から、戦況はたちまち悪化していきました。
私は、この頃、日本軍の実情を知りませんでしたが、戦後になって書かれた本などによると、当時、マニラにはゼロ戦が30機しかなかった。しかしアメリカ側は、航空母艦17隻、護衛空母18隻もあって、空軍には1100機もの飛行機があった。だから空を埋め尽くすような米軍の爆撃機の襲来があっても、日本軍は高射砲で応戦するしかなかったのでしょう。
 マニラの日本軍の形勢不利は誰の目にも明らかになって、住民への統制力もすぐに失ってしまいました。街は無政府状態になり、配給制度の下で貧しい生活を強いられていたフィリピン人は倉庫やぶりを始めました。倉庫を襲って中の物をかってに持ち出しても、止める人が誰もいませんでした。マニラには中国人もたくさん住んでいましたが、彼らはそういうことはしなかった。しかし、なかには抜け目のない中国人がいて、彼らはフィリピン人が倉庫破りをしている現場にトラックで乗り付けていました。自分たちは、倉庫破りはしないが倉庫の入り口にトラックを止めて、中から米や粉、砂糖や塩などを運び出しているフィリピン人に「それ、いくらだ」と訊いていました。訊かれたフィリピン人はとっさに「何ペソ」とか答えます。無断で人の物を運び出してきたばかりだし、まだ中にたくさんあるので、あまり高いことはいえません。中国人は「よし、買った」といって、金を払って品物をトラックに載せます。手ぶらになったフィリピン人は、また倉庫に戻って運び出してきます。それをまた中国人が買う、という具合で、一人で運べる量は限られているから、フィリピン人は倉庫とトラックの間を行ったり来たりします。なんのことはない、中国人はフィリピン人に運び賃だけ払って、品物をただで手に入れているようなものです。トラックが満杯になると、すっとどこかへ行ってしまい、また戻ってくる、というようなことをしていました。中国人は、どこかで倉庫破りが始まった、という情報を聞きつけると、トラックで乗り付けて札束をかかえて入り口に立っているというわけです。 
開戦まもなくマニラから米比軍が撤退して、日本軍が占領したわずかの間にも似たようなことが起こったということでした。しかし、倉庫破りから買い取った物資は直ぐには市場に出ません。半年くらい経ってやっと市場に少しずつ姿を現しますが、その時は普段の十倍以上の値段がついています。私がマニラに着いたのは、そういったアメリカの物資が出回り始めた頃だったので、コカコーラ、ビール、煙草、缶詰など、アメリカの物は買おうと思えば買えました。ただし、値段は普段の十倍から二十倍でした。その上、日本軍占領下のフィリピンの経済政策はことごとく失敗していたので、ものすごいインフレになりました。飲食店などでは毎日値段が変わっていました。同じメニューの物を食べるのに、「今日は、これ、いくら?」と、毎日値段を訊かなければなりません。米軍の空襲が始まってからは、朝と晩でも値段が違うようになりました。厚い札束を持って歩かないと、小さな日用品も買えなくなりました。その札束も百ペソずつ紐で束ねて、「いくら?」と訊かないで、「何束?」と訊くと、「三束」なんて返事をしていました。もう、札を数える人など誰もいませんでした。街角には、何の価値も無くなって捨てられた日本の軍票が、紙屑と一緒に風にふきよせられて溜まっていました。

 ここでフィリピンについて少し説明しておきましょう。
 フィリピンには、ルソン島、ミンダナオ島の二大島と、その間に大小7000以上の島があります。1521年にマゼランが太平洋を横断しセブ島に到着。その後、300年以上もスペインの植民地でした。1898年のアメリカ・スペイン戦争で、アメリカ軍がマニラを占領。停戦後にフィリピンは戦勝国アメリカに割譲され、以来フィリピンはアメリカの統治下となりました。そして1941年12月に太平洋戦争勃発。翌年の1942年1月に日本軍がマニラを占領。戦争中の約3年間は日本が占領。終戦後1946年に独立しました。フィリピンは第二次世界大戦が終わって独立するまで400年以上も外国に支配されていました。
 太平洋戦争開戦当時、フィリピンの首都ともいえるマニラには、アメリカ軍が駐屯していて米比混成軍が防衛していました。当時、マッカーサーはフィリピン駐在のアメリカ極東軍の司令官でした。
 日本軍は真珠湾に少し遅れただけの、ほぼ同時期に空軍がルソン島、マニラの北西約60キロにあるクラーク飛行場とマニラ湾の軍港を空爆し、制空権と制海権を確保しました。そして陸軍はリンガエン湾とラモン湾から上陸、マニラに向かって南北から進撃しました。
 これに対しマッカーサー司令官は12月24日にマニラ市の無防備都市宣言をしてマニラから撤退し、米比軍隊をバターン半島へ移動させました。そのため日本軍はマニラ市に無血入城することができました。マニラでは一戦も交えず、日本軍は翌年1942年1月2日にマニラを占領しました。
 しかし、マッカーサーが軍隊を移動させたバターン半島の先端には、コレヒドールという島があり、スペイン植民地時代からマニラ湾をにらむ重要な要塞となっていました。この要塞にたてこもったアメリカ軍の頑強な抵抗のため、日本軍はマニラを占領していながら4ヶ月以上もマニラ湾を利用することができませんでした。この要塞に総攻撃をかけて、コレヒドール島を陥落させた時は、マッカーサーはすでに脱出した後でした。
 マッカーサーは奇跡的な逃避行を果たし、オーストラリアの北部ダーウィンにたどり着いて、その時の記者会見で「アイ・シャル・リターン(私は必ず戻る)」と言ったのが打電され、後に世界で有名なセリフとなりました。
 一方、コレヒドール島に残された米比軍の捕虜は日本軍の予想を3倍も上回る7万6千人もいました。捕虜たちは4ヵ月にわたる戦闘で衰弱し、食料もほとんど尽き果てていました。日本軍はこの捕虜たちを60キロ離れた収容所に、食料も水も不十分の状態で炎天下を徒歩で移動させました。途中で落伍するものには制裁が加えられました。後に連合国軍側で「バターン死の行進」と名づけられ、日本軍の捕虜虐待、残虐性を象徴するものとして扱われました。

 1943年、私の乗った輸送船がマニラに着いた時は、日本占領が始まってからほぼ2年近く経っていました。フィリピンは日本軍政下のもとで、日本帝国議会が認めたラウレルを大統領として一応独立体制をとっていました。しかし、ラウレル大統領もフィリピンの議会も日本軍の意に叛くことはできないので、事実上は日本の傀儡政権といっていいものでした。
 私がマニラにいた一年ほどの間、街は完全に日本軍政下にありました。日本軍は日本国内と同じ隣組制度を実施させ、食料は配給制度、勤労奉仕もありました。治安はマニラ市内に限っては、ゲリラ活動もなく比較的落ち着いていました。フィリピン人が同じアジアの日本人に軍事制圧されていることに対して、なんと思っているかは明らかでしたが、長いスペインの植民地時代、次にアメリカ、そして日本と占領され統治されることを経験してきたフィリピン人は、それをあからさまに表に出すようなことは決してしませんでした。マニラ市の上空にはいつも日本空軍の飛行機が飛んでいました。時々空襲警報が鳴っていましたが、それは演習のためでした。
 マニラの秩序はアメリカ軍の空爆が始まるまでは、日本軍の武力によって保たれていました。

軍属か死守部隊配属か


 1945年が明けて間もない朝、いつものように会社に行くと、軍から通達がきている、といわれました。
 アメリカ軍が上陸したら、マニラに入る前に日本軍は山へ逃げて持久戦に入るので民間人も行動を共にするように、という通達が出ているということでした。その二、三日後に、同じ水産会社で働いていた議員さんが事務所に来ました。お茶を飲みながらみんなと話をしていて、私がアメリカ育ちの二世だと気づいたようでした。そばに来て、
「ここだけの話ですが近い内に召集がありますよ。民間人も召集されることになっています」と耳打ちしてくれました。
「しかしね、あなたは英語ができるでしょう」
「はい、できます」
「だったら、わたしのように軍属になったらどうですか。そうしたら召集されないですみますよ。その方がいいでしょう。ここで戦ってみたところで、どうなるものでもないですからね」
「軍属になるには、どうしたらいいのですか」
「軍属になりたかったら、わたしがそのように手配してあげましょう。次の通達がある時に、あなたを軍属にするように手続きをしてあげますから、二週間ほど待ってください」
「ぜひ、よろしくお願いします」
 こういうやりとりがあって、その時に軍属になる決心をしました。
 軍属とは軍のために働くが、兵隊と違って軍隊には所属しません。ようするにスパイのようなものでしょう。どうして、その時軍属になる決心をしたかというと、軍属にならなかったら召集されて、日本軍と一緒に山の中へ逃げなければならなかったからです。しかし山に逃げてもマニラの近辺の山には食料になるものがありません。南洋だから野生の果物とか、いっぱいありそうに思えますが、そんなことはありません。せいぜいネズミかヘビがいるくらいだ、と聞いていました。そんなところへ入って行っても何もできません。栄養失調になるかマラリヤにかかるぐらいのことです。山に入って反対側に出て脱出するとでもいうのなら別ですが、何の計画もなしに、ただ山に入って行くなんて嫌だ、と思いました。 
 それからしばらくして町外れにある部隊から呼び出しがありました。直ぐに行くと、
「あなたは、軍属として私の部隊に配属されることになりました」といわれました。
 軍属になった後で今度は召集令状が出ました。私にも令状が来たので、会社の人たちと一緒に指定された会場へ行きました。そこでは身体検査をしていました。といっても形式だけで全員合格、済んだ人から順番に一兵卒の階級書を渡されました。そして、その場で銃を渡され「外に行って練習しろ」と言われていました。「練習しろ」といわれても、その時召集されたのはみんな民間人ばかりで、それまで銃などさわったこともないような人たちばかりでした。
 この時に召集されたのは日本の民間人だけでなく、台湾人、朝鮮人も含まれていました。私は呼ばれて一兵卒の階級書を渡された時に、軍属になった時の書面を見せました。それを見て、
「これはまずいな、私が受けた命令では、マニラにいるものは今日全員召集することになっているのだが」
「でも、僕はこの少佐のところで働くようにといわれています」
 階級書を渡そうとした人は少佐より下の人で、
「しょうがない、とにかく、今、昼になったから昼飯食って戻ってこい」
といいました。私は昼を取らないで町外れの少佐の部隊に行きました。
「ぼくは今、召集されそうになっています」
「それはまずい、私が一緒に行って話そう」といって、少佐は一緒にきてくれました。
「この人は私の下で働くことになっているので、召集されると困るんだ。」
「そうですか。では、一応召集してから、あなたの部隊に所属させます」
「いや、兵隊になっていない方がいいのだ」
「それは、こまったな」と言って、どうしたらいいのか解らない様子でした。決断が出ないうちに少佐と私は外に出てしまいました。
 それで結局、命拾いをしたことになりました。この時召集された日本の民間人、台湾人、朝鮮人は、マニラ防衛死守部隊に配属されて、ほとんど全員死亡しました。急に銃を渡されたところで戦えるわけがありません。せいぜい弾よけになるぐらいのことです。
 この時マニラ日本陸軍の山下奉文司令官は、マニラを放棄して無防備都市宣言をしてから山岳部に退却するつもりだった、ということです。実際、陸軍はすでに山地へ退却していました。しかし、東京の大本営の陸軍部はこの案に同意せず、マニラの空軍、海軍も死守徹底抗戦を主張してマニラ死守部隊を編成したため、マニラの無防備都市宣言は実現しなかったということですが、どこまでが真実なのか、私にはわかりません。
 戦前、マニラは「東洋の真珠」といわれたほど美しい町並みのある都でしたが、アメリカ空軍によって徹底的に破壊されました。もし、無防備都市宣言がされていたら、と思うと残念ですが、大本営は、アメリカ軍の日本本土上陸を一日でも引き伸ばすためには、フィリピンの日本軍、現地の日本人を捨石にして、いかなる犠牲も払う、という方針だったようです。
 翌日、私は町外れの日本軍の車の修理工場のような所へ連れていかれました。
 辺りには民家が数件ありました。修理工場のガレージの向かいにあるその中の一軒に入っていくと、将校が一人と兵隊が二人いました。そこで一緒に寝泊まりをするようにいわれました。空襲は日を追って激しくなっていました。私は短波放送が入るラジオを持っていたのですが、アメリカの放送は聞いてはいけないことになっていました。それで、将校がいないときに時々隠れて「ボイス オブ アメリカ」という放送を聞いていました。その時の放送では、マッカーサーの部隊がルソン島のリンガエン湾に上陸してマニラへ向かって南下している、といっていました。ところが、街で発行している日本語の新聞は、米軍は上陸したものの日本軍は一歩も引かずに、これをせき止めている、と書いていました。私は日本語の新聞ではなく「ボイス オブ アメリカ」の方を信用することにしました。他の三人は、私がラジオを聞いて状況を把握していることは知りませんでした。なぜ日本の将校は、英語の解る私にラジオを聞かせて情報を得ようとしないのか、不思議でなりませんでした。
 米軍がマニラに入って来たとき、この日本軍の三人と一緒にいたら、この三人と一緒に殺されるか、この三人に弾よけにされて殺されるだろうと思いました。日本の兵隊はみんな軍服を着て頭を坊主刈りにしていましたが、私は私服で髪も普通の人と同じ髪型だから中国人のふりをして、なんとか生き延びる手だてがみつかるかも知れない。けれど、ここにこうしていてはだめだと思いました。なぜこの将校と二人の兵隊が、ここにいなければならないのか理由がわかりませんでしたが、将校は、いつも窓のそばに私を見張りに立てていました。私が坊主刈りでなかったので、外から見られても日本人がいるようには見えなかったからです。
 二月も半ばになったある日、夜になっていつものように窓の外を見ていると、真っ暗な空に照明弾のようなものが赤々とあがっていきました。「あれは、何だろう」と話し合ったのですが、わからないままで、そのうち外が明るくなってきました。
 いつも朝になると、あたりがざわざわして人通りがありますが、その日に限って表には人一人見えませんでした。
 修理工場に毎朝来るはずの従業員も来ませんでした。
「おかしいな、どうも様子が変だ。いったいどうしたんだろう」
「ここにいたら危険だから逃げた方がいいんじゃないですか」と私。
「四人一緒だとめだつから、みんなバラバラに逃げましょう」と言ったら、
「いや、だめだ。絶対に離れてはいかん」といわれました。
 私はピストルを渡されて、窓際でいつでも撃てるようにかまえて、ずっと見張っていたのですが、何事も起こりませんでした。そのうちに将校が、
「どうもおかしい。様子が掴めないから、お前、小使いのフィリピン人と一緒に外へ行って様子をみてこい」と命じました。
言われたように、小使いのフィリピン人と一緒に外にでました。その時、私はもう戻ってくる気はありませんでした。

フィリピン人の復讐


 小使いのフィリピン人と一緒に街の方に向かって歩いていきました。通りには人影もなく、いつもと様子が全く違うのが肌にピリピリと感じられました。
 しばらく歩くと海岸に出ました。すると、そこにアメリカ軍のトラックが四台止まっているのが見えました。一台のトラックの助手席の人は窓にもたれ、運転台の人はハンドルにつっぷしていました。
「動かないけれど寝ているのかな、それとも死んでいるのかね」といって、小使いのフィリピン人と一緒にそばに行こうとしたら、突然後ろの方から、
「ゴーバック! ゴーバック!」
という怒鳴り声が聞こえました。日本語のアクセントでした。振り返ってみると、トーチカがあって銃の先がのぞいていました。声からして中にいるのは日本人で、私のことをフィリピン人だと思って、英語でトラックのそばに寄るなと怒鳴っていたのでしょう。
「あれは、アメリカのトラックだね。」
「いよいよ、アメリカ軍が戻ってきたんだ」
そういって一緒にいたフィリピン人と話しながら歩きだした時でした。街の方角から大勢のフィリピン人が、どっと走ってくるのが見えました。その群衆に巻き込まれて気がついた時には、みんなと一緒に走っていました。
 すると、前方に十数台の戦車がゆっくりとこちらに向かって進んで来るのが見えました。戦車の上にはフィリピン人のゲリラが銃を持って腰掛けていました。戦車の窓からはアメリカの兵隊が顔を出して、みんなに手を振っていました。フィリピン人の群集は戦車をとりかこんで、戦車と一緒に町に向かって歩き始めました。
 同伴のフィリピン人の小使いさんも私も群衆と一緒に、戦車と並んで歩いていきました。同伴のフィリピン人は小使いのようなことをさせられていましたが、エンジンに詳しく修理工場で働いていた人なので、戦車の下を覗き込んで「このエンジンは〇〇式だ」などと言っていました。
 戦車が市中に入って来た時でした。ビルの陰から「ダッダッダー」と機関銃が撃ち込まれました。戦車の上に腰掛けていたゲリラは、飛び降りて戦車の陰に隠れました。みんなとっさに地面に伏せました。しかし、距離が遠すぎて機関銃の弾が届かなかったので、戦車のなかからアメリカの兵隊が一人飛び出してきてビルの方を指しながら、私の直ぐそばで、
「あそこのジャップを引っ捕らえろ!」と怒鳴りました。それを聞いて、一緒にいたフィリピン人の小使いが、
「ここにいたら危ない。私の家に行こう」といってくれたので、彼の家に行きました。
 彼の家に着いて、しばらくしてからフィリピンの隣組の人たちがやってきました。日本軍が占領した時につくらせた隣組の人たちで、そのうちの一人が私の顔を見て、
「この人、日本人でしょ」と言いました。
「ああ、そうだが、この人はとてもいい人だ」
「良いも悪いも関係ないよ。今、ゲリラが一軒一軒、しらみつぶしに日本人を探していて、見つけしだい撃ち殺しているよ。日本人を匿って一緒に殺された人もいるよ」
「この人を匿っていると、あんたも殺されるよ」
 そんな風に言われているのを聞いていたら、もう、そこには居られません。その人には奥さんや子供がいます。
「あんたに迷惑はかけたくないから、ぼくは行くよ」
「行くといっても、どこへ行くのですか」
「川向こうの日本軍の所にでも行ってみるよ」
 マニラは街の真ん中に川が流れていますが、日本軍の本体はその川にかかる橋を爆破して、川の向こうに退却していました。 
「向こうに行けるかどうか、わからないけれど、ここにいるわけにはいかないから、とにかく川のそばまで行ってみる」
「では、川のそばまで付いて行ってあげる」そう言って、彼は私から少し離れて付いてきてくれました。
 外は、それはもうすさまじい光景でした。
 フィリピン人に捕まえられた日本人が両手を縛られて、トラックの後ろにくくられて、街の中を引きずり廻されていました。電信柱に括りつけられて、顔や体にナイフを突き刺されたまま死んでいる人もいました。そんな風にして殺されている日本人がたくさんいました。目を覆いたくなるような光景でした。この有様をみて、日本人はこれほどまでにフィリピン人に恨まれていたのかと思い、背筋が凍りつくようで足がすくんでしまいました。 
 私が以前にマニラで感じた限りでは、マニラの日本軍とフィリピン人の間は平静だったように見えました。もっとも私がマニラに着いたのは、日本軍がマニラを占領してから一年経っていました。私は民間の会社で働いていて軍の通訳をしていたわけではないので、軍が何をしていたか知るはずもありませんでした。
 ただ、占領初期にかなり大きな事件があったことは聞きました。
 日本軍は占領直後に、アメリカ側についていたフィリピンゲリラを大勢処刑しました。その場所の一つは大学の校庭で、見せしめのための公開斬殺刑だったそうです。死体も直ぐに埋葬されずに、しばらく放置されたということでした。フィリピンはカソリックの国ですから、その見せしめの効果は強烈だったでしょう。それまでマニラは日本軍歓迎ムードだったのが、それを機にいっぺんに反日に変わった、ということでした。
 フィリピンは三百年もの長い間スペインの植民地でした。スペインの次がアメリカで、ずっと西洋人に占領統治されていたので、それを日本人が解放してくれる、という期待が初めはあったようですが、最後に来た日本軍が一番酷いことをして嫌われました。日本軍は、隣組や相互監視、連帯責任、勤労奉仕などをフィリピン人に押し付けました。それだけでなく、おじぎも強制しました。日本軍司令部の門の前には、常時銃剣を持った兵隊が立っていました。その前を通る時に、深いお辞儀をする事をフィリピン人に強要しました。ついうっかり忘れでもしたら、ぶん殴られて、ひどい目にあわされました。おじぎというのは日本人にとっては何でもないことですが、それを習慣としていない他の国の人にとって、上半身を曲げて頭を下げることは屈辱感を伴うのでしょう。そういうことを知ろうともしないで、礼儀を教えてやる、みたいな感覚でお辞儀を強制したから、ますます反発が強くなりました。
 それと、日本の男性は人前で裸になるということをあまり気にしませんね。一昔前までは、みんな銭湯に行って見ず知らずの人の前で素っ裸になっていたし、長屋などで、子供たちは夏に家の前の道で行水をしたりしていたので無理もないのでしょう。フィリピンは暑いところなので、日本軍の人たちは人目があっても、すぐフンドシ一枚になったり、女、子供の目があるのにシャワーを浴びたりしました。そういう姿をみて、以前の統治者のスペイン人やアメリカ人に比べて、なんと野蛮な日本人、とフィリピン人は思っていたようです。ただ、どれほど心で反発していても、日本軍の力の統制が効いている限り絶対に表にはあらわしません。それはもう長年植民地支配下で生きてきた人たちですから、そういうことは心得ています。その代わり、力による統制が崩れた時は容赦なくやられます。
 ただ、マニラがアメリカ軍によって日本の占領から解放された時の、フィリピン人による日本人への残虐行為は、日本人に対する恨みだけではなく、フィリピン人のアメリカ軍に対するデモンストレーションでもあった、と私は思います。
 再び戻ってきたアメリカ人に、我々は、これほどまでに日本人を嫌い憎んでいるのだ、決して日本人に協力したりはしなかった、ということを日本人への残虐行為でアメリカ軍に示そうとしたのでしょう。過去に長い間外国の支配下にあったので、こういう場合にどうすればいいか、彼らはちゃんと心得ています。コラボレーター(協力者)といわれることを何よりも恐れるわけです。実際に彼らは日本軍に協力してきたので(協力しなかったら生き残れなかったわけですが)、なおさら、そう思われるのを恐れていたのでしょう。それはもう酷いものでした。日本軍は赤ん坊を放り投げて銃剣で突きさしたとか、レイプしたとか、みんな口々にそういうことをアメリカ兵に訴えていました。アメリカ兵はもともと日本兵を敵として憎んでいるので、彼らのいうことを鵜呑みにしました。
 
 私は川の方へ歩いて行きました。しかし、そばまで行かないうちに、すでにゲリラたちが川を背に二十メートルおきくらいに銃をかまえて立っているのが見えました。川には近づくこともできませんでした。途方に暮れていると、一緒に来てくれたフィリピン人の小使いさんが、とにかくもう一度家に戻ろう、といってくれました。
 一緒に戻ってみたものの、ここは直ぐに出なければならない、とそればかり考えていた時でした。また隣組の人が戻ってきて、
「印刷屋の裏庭で日本の民間人が十人ほど捕まえられている。アメリカ軍に引き渡すことになっているので、あんたも一緒に行ったらどうか。フィリピン人に捕まえられるより、その方が安全なんじゃないか」と、その隣組のフィリピン人がいいました。
 フィリピン人がそんなことを言うなんておかしな話ですが、その時は、そんなことを思うゆとりもありませんでした。私のことを心配して、なんとか助けようとしてくれているのも、日本人に危害を加えているのも同じフィリピン人なのでした。
 私はそこに行くことにしました。
 この時、フィリピン人の、日本人への殺害や残虐行為があまりにも激しかったので、そのまま野放しにしておくと、後に占領したアメリカ軍の責任問題になる、ということで、それを止めさせる有効な手段として、「日本人の捕虜一人に対し一ドルで引き取る」という通達が米軍から出たということでした。

米軍捕虜となる


 小使いだったフィリピン人が、また印刷所まで一緒に来てくれました。
「アメリカ軍に引き渡す、と言っているそうですから、たぶん、あなたはもうだいじょうぶですよ」
 行く途中、そういって慰めてくれましたが、監視しているのはフィリピン人なので、なにをされるかわからない、という不安がありました。
 印刷所の前に行くと、フィリピンのゲリラが浅いヘルメットをかぶって銃をかまえて立っていました。私を見て、
「何か用か」と英語で聞きました。中国人と間違えたのでしょう。黙って中を覗こうとすると、
「お前は、日本人だな!」と叫んで、腕をむんずとひっつかんで、内に引っ張りこみました。そして奥に向かって大声で、
「オーイ、また、日本人を一人捕まえたぞ!」と叫びました。奥に入っていくと大佐のバッジをつけた若いゲリラが立っていました。彼が何も言わない内に、今度は私の方から英語で、
「あなたが、この場の責任者ですか」と聞きました。
「はい、そうです」と返事が返ってきました。部屋には十人ほどの日本人が椅子に縛り付けられていました。
「彼らは捕虜ですか」
「はい、そうです」
「彼らをどうするつもりですか」
「アメリカの兵隊が引き取りにくることになっています」
 私と彼は、まるで立場が逆なやりとりをしていました。私は恐ろしかったので必死で話し続けました。そのうちに相手はなんだかおかしい、と思ったようで、
「あなたはどこから来た人ですか」と訊いてきました。とっさに、
「アメリカのポートランドだ」と答えると、私の英語が完全に米語のアクセントなので、アメリカ側の人間だと勘違いしたようでした。
 後ろを見ると、ゲリラたちは椅子に縛り付けられている日本人の頭や顔をこづいたり、叩いたりしていました。そのうちの一人は日本人の胸にスパイとナイフで刻みつけていました。血がポタポタと流れていました。
「捕虜にあんなことをしていいのかい? アメリカの上官に見つかったら、あんたが問題にされるぞ」そう言うと、彼はタガログ語(フィリピンの公用語の一つ)で何か叫んで、それを止めさせました。そうこうしているうちにアメリカ兵が二人入ってきました。
 フィリピン人のゲリラたちに手伝わせて、十人の日本人を後ろ手に縛って、数珠つなぎにしました。最後に私も縛って先頭につけたので、ゲリラの大佐はあっけにとられていました。
 アメリカ兵の一人が銃を持って先にたって、「ついて来い」と言って走り出しました。数珠繋ぎにされたまま彼らの後を走って行きました。アメリカ兵は本部へ連行するつもりなのでしょう。空爆で崩壊した建物や、燃え残りがくすぶっている家の間をジグザグに走るのですが、時々まだ抵抗している日本兵がどこからか機関銃を撃ってきますが、繋がれているので速くは走れません。最後の人はころんだまま引きずられ、頭を打ったのか意識を失っていました。後ろについていたアメリカ兵が、その人の前で綱を切って置き去りにしてまた走り出しました。ビルとビルとの間の道の十字路に出た時でした。このままでは走れないからといって、繋いである綱の間を切りました。手はまだ後ろで縛られたままですが、一人一人がバラバラになりました。アメリカ兵は銃を抱えて私たちを見ながら、
「これから、どうしようか。このあたりはまだ日本兵が残っていて危なくてしょうがない。こんな連中を連れて走っていたら、こっちの方が撃たれてしまうぞ」
ともう一人の方に話しかけました。
「そうですね。じゃあ、ここで撃っちゃいますか」
と彼らは、私が、英語がわかるとは知らないで、こんなことを話していました。
 冗談じゃない。せっかくここまで生き延びてきたのに、一番安全だと思っていたアメリカ兵に、こんなことで撃たれて死んでしまうのか、と思うと無念でなりませんでした。 他の日本人に「彼らはぼくらを撃つと言っているぞ。撃たれる前に、いっせいにバラバラの方角に走ったら、誰か助かるかも知れない」と言いました。一番初めに私が撃たれるかもしれないけれど、黙って撃たれるよりは、例え1パーセントの確率でも賭けてみたいと思いました。その時、表の広い通りにジープが止まって、アメリカの軍服を着た将校が下りてこちらにやってきました。
「君たちはこんなところで何をしているのだ。この人たちはどうしたのだ?」
「彼らは捕虜です」
「捕虜とこんな所にいたら危ないじゃないか。両方とも撃たれてしまうぞ。速くこの人たちを収容所に連れて行きなさい」
「はい、そうします」
 この将校のおかげで危ういところで命拾いをしました。
 表通りに出るように言われて、将校の後について表に出ると、フィリピンの民間のトラックが通りかかりました。将校はそのトラックを止めて運転手と話した後、アメリカ兵に捕虜をトラックに乗せて収容所へ運ぶように命じました。アメリカ兵はトラックに乗るように、と言ったのですが、後ろ手に縛られていて掴まるところが無いので乗ることができません。まわりにいたフィリピン人たちに手を貸すようにいったら、彼らは脇の下に手をいれて、乱暴にまるで荷物のように荷台に放り込みました。私は頭から斜めに投げ込まれて、荷台の底に顔をもろにぶつけてしまいました。全員トラックに乗せられて、出発しようとしたらエンジンがかかりません。その間にトラックの荷台に横たわったり、座ったりしている私たちを見て、フィリピン人たちがまわりにたくさん寄ってきて、棒きれなどで小突き始めました。荷台に銃をかまえて立っていたアメリカ兵がそれを見て、彼らに銃を向けて追い払っていました。そうしている間に、殴られたのかケガをして半分死にかけているような日本人を、フィリピン人がどこからか連れてきて荷台に投げ込み始めました。トラックのエンジンはなかなか掛からなかったのですが、別のジープがやってきて、トラックを引いて走り出して、やっとその場を離れることができました。

 この時、捕虜になってトラックに乗せられたのは、ほとんどが年輩の日本人でした。何らかの理由で現地召集をまぬがれた日本人がまだ残っていたのでしょう。
 山下大将の作戦で日本軍は山岳地帯に逃げ込むことになり、民間人も軍と行動を共にするようにいわれていたのですが、長くマニラにいて現地の状況をよく知っている人は、従わなかったのでしょう。フィリピンの山の中には食料になるものがありません。生き物はねずみ、へび、さる、コウモリぐらいです。どれもなかなか捕まえられません。熱帯のジャングルというと、バナナやパパイヤなど野生の果物や食べ物がありそうですが、あれはハリウッドのターザン映画の中のことであって、フィリピンのジャングルに入ったら、待っているものは飢えと病気だけです。そういうことを知っている人は山には行きませんでした。それともう一つ別の理由は、マニラに長くいた民間の日本人は、フィリピン人とはうまくいっていると思っていたのですね。いい関係を築いていて彼らとは友達だと思っていたのです。だから状況が変わっても民間人だし、まさか自分たちに危害を加えるようなことはあるまい、と思ったのでしょう。しかしこれは、やはり非常に甘い考えだった、と思い知らされることになりました。
 まあ、いずれにしろ選択は五十歩百歩だったのです。山に入れば飢えと病気で死ぬことになるし、マニラに残ればフィリピン人に捕まって殺されるか、アメリカの捕虜になるしか道はありませんでした。私としては、マニラにいたら何が起こるかわからないけれど、山へ逃げてマラリヤになって、蛭に血をすわれながら飢え死にするよりは、死ぬのならひと思いに死にたい、アメリカの捕虜になれば、もしかして生き延びるチャンスがあるかもしれないと、マニラにいることに賭けました。

 私は両手を後ろで縛られたまま、小石やガラスの破片のあるトラックの荷台の底に頬を押しつけられ、その上、後からトラックに投げ込まれた人が上になっていて、身動きができませんでした。どこをどう走ったのかしりませんが、米軍のキャンプに着きました。すると、
「この中で、英語のできる人はいますか」という声が聞こえてきました。
「はい、できます」と英語で叫ぶと、
「降りて、私についてきてください」と言って、トラックから降りるのを手伝ってくれました。米軍の軍服を着たその人は日本人二世のように見えました。その人の後について小さなテントの中に入って行くと、中には小さなデスクがあって、将校が座っていました。
 将校は、どこで英語を習ったか、なぜフィリピンにいるのか、どうして捕虜になったか、と訊きました。かいつまんで今まで自分に起こったことを説明しました。
 するとその将校はふと気がついたように、
「あなたは疲れていますか」とふいに訊ねました。
「はい、とても疲れています」と答えると、立ち上がってそばに来るとポケットからナイフを出して、後ろ手に縛っている縄を切ってくれました。その時、自分の顔がどのようになっていたか知りませんが、トラックの荷台の底にぶつかって腫れ上がって、おまけに底にあったガラスの破片や石ころで切ったところから出血していたようです。
「兵隊にこんなにされたのですか?」と将校が訊きました。
「いいえ、後ろ手に縛ったのは兵隊ですが、顔はトラックに乗ったときです」
「トラックに乗るときに兵隊が殴ったのですか」
「いいえ、後ろ手に縛られていたので、自分で乗ることができず、フィリピン人にトラックに放り込まれました。その時、荷台の底で顔を打ちました」
「タバコは吸いますか?」そう言って、将校はタバコを一本つけてくれました。でも、その日はたった一日のうちに、あまりに色々なことがあって、心身共に疲労困ぱいしていました。その時はタバコをもらっても、手が震えて指の間にうまく挟むことができないくらいでした。
「日本軍は山へ逃げる前に橋を爆破していきましたが、我々の到着が早過ぎて時間がなかったのか、まだ橋がいくつか残っていますが、爆弾は仕掛けてありますか?」
「私は軍隊にいたわけではないので、そういうことはまったく知りません。橋のそばは、フィリピンのゲリラが立っていて近づくことができません」
 将校は話していて、私が何も知らないことが解ったのでしょう。一緒に来た他の人たちのいるところに戻りなさい、といいました。外に出てみると、そこには誰もいませんでした。他の人たちはすでにどこかへ連れて行かれた後でした。別の兵隊がやってきて、他の人たちが行った所へ連れて行くよう手配しようとしていたのですが、もうあたりは暗くなっていました。まだ戦闘は続いていて、キャンプの外では撃ち合いをしているので、車はライトをつけて走るわけにはいきません。どうするか話し合っているうちに、さっきの将校が出てきました。
「暗くてジープを運転するのは危険だから、明日の朝連れていけばいい。丁度夕食時だから食事をしなさい」
といって、私にも一緒に食事をしていいから、ついてくるようにと言いました。
「逃げてはだめだぞ」といわれたので、
「外に出たらかえって危ないです。フィリピン人に見つかったら殺されるかもしれないから、ここの方が安全です。逃げる心配は無用です」といいました。
 この将校と一緒に、アメリカ兵に混じって外のテーブルで食事をしました。まだ撃ち合いが続いていて明かりを使うことができないので、みんな真っ暗なところで食べていました。私の隣のアメリカ兵が食事を終えて、タバコを吸おうとしてライターをつけました。その時、ライターの炎で、腫れ上がって血のりがついたままの私の顔が見えたのでしょう。その兵隊は椅子から飛び上がって、
「うわっ、ジャップだ! ジャップが俺の隣で飯食っている!」と叫んだので、一瞬その場が騒然となりました。
「静かに、静かにしなさい。この人は私の捕虜だから心配はいらない。落ち着いて食事を続けなさい」と将校がいったので、やっと騒ぎがおさまりました。
「明日、他の捕虜がいるところへ連れて行くから、今晩はひとまず私の捕虜としてここで寝なさい」といわれて、連れて行かれた所は教会でした。その夜は一人で教会の床で寝ました。
 翌朝連れて行かれた所は、大きなスペイン風の邸宅のようでした。米軍が接収して、そのうちの二階の部屋を捕虜のために当てていたようでした。連れて来られた時には、すでに日本の民間人の捕虜が何人かいました。部屋には家具はなく、みんな床に座ったりゴロゴロ横になったりしていました。日に二回食事がありました。フィリピン兵が、バケツのようなものにお粥のようなスープのような、得体の知れないドローッとしたものを入れて運んできました。それだけで、食器というものがいっさいありませんでした。両手をお椀のようにして、そこにひしゃくで入れてもらい、犬か猫のようにして舌で食べる以外方法がありませんでした。飢えるよりはましですが、なんともひどいものでした。
 その家はスペイン風というのか、階段を上がっていくと中央にかなり広いホールがあり、放射線状に部屋が並んでいました。ホールの真ん中にはソファーが置いてあって、その傍らに大きな木箱があって、アメリカ兵が一人銃を持って腰掛けていました。番をしていたのでしょう。部屋の扉が半開きになっていたので、部屋から彼の姿が見えました。何もすることがないので、部屋から彼の様子をみていると、その兵隊はどうもユダヤ人のように見えました。私は部屋の入り口の扉のところまで行って、英語で話しかけてみました。兵隊はびっくりして、どこで英語を習ったのか、と訊きました。アメリカのポートランドで育ったこと、シカゴでオプトメトリーを学んだことなど、身の上話をすると、その兵隊はニューヨーク出身のユダヤ人だといいました。話しながら互いにだんだんと近づいていって、一緒に床に座って、いろいろな話をしました。
 シカゴでカレッジにいた時は、ルームメイトがユダヤ人だったので、言葉も少しは覚えていました。ユダヤ人の習慣や食べ物のことなども知っていたので、そんな話をしていると、その兵隊はホームシックになった様子で、
「軍隊はぼくらユダヤ人の食べ物など用意してはくれないから、そういうものはずーっと食べていないな。なつかしいなあ」と言いました。そして、ふいに、
「腹、減ってるか?」と訊きました。
「もちろん、ぺこぺこだ。ここ二、三日、まともなものは食っていない」
「下にケイラション(K号携帯食:弁当箱のようなものに缶詰や乾パンなどの非常食、タバコ、チューインガム、サイダーのような飲み物がセットになって入っている)があるけど、ほしいかい?」
「そりゃ、欲しいよ。だけどぼくだけ食べるわけにはいかない。他の連中も腹ペコなんだ」
「何個、欲しい?」
「八人いるけど、大丈夫かい?」
「オーケイ。下に行って取ってこよう。ちょっと、これ、持っててくれ」
そういって、兵隊は私に銃を預けて、トットットと階段を降りて下に行ってしまいました。驚いたのは私の方です。あっけにとられて、渡された銃を思わず眺めてしまいました。しかし、この銃を持っているところを誰かに見られたら、大変なことになると思いました。フィリピンのゲリラ兵にでも見られたら即座に撃たれかねません。アメリカ兵でも同じことでしょう。ひとまず銃を床に置きました。このままこうして立っているのは危険だから、ひとまず部屋に戻ろうと思いましたが、さっきの兵隊が戻って来たとき、私の姿が見えなかったら、ケイラションズを下に持っていってしまうかもしれません。ほんの二分か三分の間だったと思いますが、一時間くらいに感じられました。部屋に戻ることにして一歩踏み出したとき、階段を上がってくる足音が聞こえました。思わず目を閉じて、さっきの兵隊でありますように、と祈りました。幸い上がってきたのは、さっきのユダヤ人の兵隊でした。胸にケイラションズを八個、抱えるようにして持っていました。
「サンキュー、サンキュウー、ベリマッチ」とひとまず礼を言ってから、
「君、銃をぼくに預けたりして、他の人に見つかったら大変なことになるよ。軍法会議にかけられるぞ。君の銃を持って立っているところを見られたら、ぼくは撃ち殺されていたかもしれない」そう言うと、彼は真っ青になっていました。
 彼は、私と話しているうちに、私が日本人であることや捕虜であること、敵同士の立場なのだ、ということをすっかり忘れてしまったようでした。戻ってきて私に言われるまで気がつかなかったのです。あまり年も違わない若い兵隊でした。部屋に戻って、ごろ寝をしている連中を起こして、みんなでケイラションを開けました。
 翌日またトラックに乗せられて、こんどはオールド・ビリビット・プリズンというところに連れていかれました。そこはスペインの植民地時代に建てられた刑務所でした。平時は主にフィリピン人の犯罪者が入れられていました。日本軍がマニラを占領してからは、アメリカ人など連合国側の捕虜を収容するのに使われ、その後、日本軍が撤退して再びアメリカ軍がマニラを占領したので、今度は我々日本人がそこに入れられることになったわけです。

オールド・ビリビット捕虜収容所


 捕虜収容所の周囲は鉄条網が張りめぐらされていて、入り口には鉄カブトをかぶったMPが銃を持って立っていました。トラックが中に入っていくと、鉄カブトをかぶって銃を持った兵隊が出てきてトラックから降りるように命じました。全員トラックから降りて立っていると、白い紙切れを手に持った将校が建物から出てきました。その将校は私たちの前にやってきて、
「あなた方は、今からこの収容所の捕虜です。我々はあなた方を国際法で決められたジュネーブ協定に従って取り扱います。だからこの収容所内で不当に危害を加えられ、拷問や生命の危険を感じることはありません。規律に従い、与えられた仕事をきちんとこなしてトラブルを起こさないようにしてください。アメリカ兵はあなた方を殴ってはいけないことになっています。けれど、もし殴られても決して殴り返してはいけません。そのかわりに我々に報告してください。その兵隊に対する処分は我々がします。戦争はじきに終わるでしょう。戦争が終われば、あなた方は国に帰って元の普通の生活に戻れます。それまで、この収容所の規則を守り、与えられた仕事をこなし、トラブルを起こさないでください」
 将校はそう言って、ジュネーブ協定を知っているか、と訊いたので、詳しいことは知らない、と返事をしました。すると将校は手にしていた白い紙を渡して、後でよく読んでおくように、と言いました。そして彼が今言ったことを通訳するように命じました。通訳をしながら、助かった!これでたぶん生き延びることができる、と思いました。
 収容所の中にはビルディングや仮テントの他に、木造の小屋がいくつも建っていました。一緒のトラックで来た人たちは、その小屋の一つに入れられました。普通、刑務所などの建物のドアは鉄でできていると思うのですが、その小屋は床も壁もドアも木で出来ていて、外に角材のかんぬきがかかっていました。床は高めにできていて、部屋の隅に便所がありました。便所といっても何もないのです。長方形の小さな床蓋が上がるようになっているだけ。もちろんベッドも椅子もありません。その中にいるときは、床に座って脚を投げ出し、上半身を壁にもたせかけていました。寝るときもそうしていました。それが一番体に楽な姿勢でした。
 外ではまだ日本軍の抵抗が続いていて、昼夜を問わず砲弾の飛び交う音がさかんに聞こえていました。
「もし、あの砲弾の一つがこの小屋に当たったら、木で出来ているからよく燃えるだろうな」と誰かが言いました。
「外からかんぬきが掛かっているから逃げられないし、わたしらは丸焦げですかね」
「なあに、木で出来た扉だから、もし火事になったら、みんなで体当たりして扉を壊して逃げればいいんですよ」
 そんな話をしていたら、それを聞いていた一人が、
「無駄だよ。それくらいのことじゃあ、あの戸は壊れやしない。鉄木で出来ているのだ。体当たりくらいじゃ、無理だ」
「どうして、そんなことを知っているんですか」
「俺が作ったからさ。作った本人がいうんだ。間違いない」
「あんたが?」
「俺と日本人の大工たちが、日本の刑務所のブタ箱をまねて作ったのさ。日本軍がマニラを占領した後、アメリカの捕虜たちを入れる場所が足りなくなって、俺たち職人は日本のブタ箱と同じように作らされたんだ」
「ほう、日本のブタ箱って、こういう作りになっているのですか」となんだか妙なところで感心している人もいました。
「日本にいたら縁のない場所ですね」
「このブタ箱を作っているとき、まさかてめえがブチ込まれるとは思わなかった。そうとわかってりゃ、壁に抜け出る細工の一つもしとくんだった」そう言って、その大工はぼやいていました。 
ここでは、週に一度シャワーを浴びて体を洗うことができました。その時に見張りをしているアメリカ兵と話をするようになりました。
 そのアメリカ兵が話をしたのかどうかしりませんが、ある日将校がきて英語ができるのならキッチンで働いてみないか、といいました。私はすぐに「オーケー」といって、翌朝からキッチンで働き始めました。
 朝四時に起こされて、キッチンに行って、大きな入れ物に何百人分ものコーヒーをつくりました。六時には兵隊たちが食堂に入ってくるので、それまでに朝食をテーブルに運んで、食事が終わると食器をさげて洗うのが仕事でした。朝、昼、夜と同じ仕事をしました。キッチンで働く者は兵隊たちが来る前に、食事を済ませておくことになっていました。久しく食べていなかった卵やベーコンなどが食べられるようになりました。このキッチンで働いている間に、タバコの吸い殻や、残り物のパンなどを集めておいて、夜小屋に戻るときに服のポケットに入れて、みんなのために持って帰りました。
 私だけ朝早く、まだみんなが寝ているうちに出て行って、暗くなってから戻るので、他の日本人捕虜と話す機会が少なくなってしまいました。
 そんなある日、いつものように暗くなって小屋に戻ると、ある新来者を紹介されました。

モリと名のる新来者


 「トミーさん、今日あなたの友達になれそうな人が入って来ましたよ。英語が上手で二世のようですよ」
 夜、食堂の仕事から戻ってくると、そういってわざわざ知らせに来てくれた人がいました。それで新しく入って来た、という人の所へ行って英語で自己紹介しました。その人も英語で自己紹介しました。この頃は英語の方が自然に話せました。それに一日中キッチンで英語を使っているので、つい英語が出てしまったのです。その人は、モリヒコ・タカミという名前だがモリと呼んでくれ、といいました。その時、その名前をどこかで聞いたことがあるような気がしました。それまでモリという人物に直接会ったことはありませんでしたが、マニラでその姿を一度見かけたことがありました。背が高く体格もよくて、堂々とした態度で日本人離れしていました。マニラでは高級ホテルやナイトクラブによく出入りしているという噂でした。彼を遠くから見かけたのもそんな場所でした。一緒にいた人が、「あの人がモリといわれる方です」と教えてくれた時のことを思い出しました。人を惹きつけるオーラを発散しているのが遠目にも感じられました。

ブタ箱で会った時のモリさんは汚れた半ズボンをはいていて、上半身は裸で顔はケガをして血がにじんでいました。かつて遠目で見た人と、目の前にいる人が同一人物かどうかわからないまま、その日はそのまま寝てしまい、翌日はまた四時に起きてキッチンへ働きに行きました。夜になってブタ箱に戻ると、モリさんが待ちかまえていたように話をしにきました。その時の話で、ここにいる人とマニラのナイトクラブで見た人が同一人物であることがわかりました。
「どうして、あなただけ朝早く出かけて行って夜になってから帰ってくるのですか?」
と訊かれたので、キッチンで働いているからだ、と説明をすると、
「そうですか。それは良いですね。わたしもキッチンで働きたいなあ」と言ったので、
「明日、仕事に行ったときに将校に話してみましょう」と彼に言いました。
 将校に彼の話をすると、英語が話せるのなら一緒に働いてもいい、という返事でした。 それから半年ほど、彼とキッチンで一緒に働きました。
 毎朝二人だけが四時に起こされて出かけなければならないので、二人はブタ箱から出されて別の小屋に移されました。そこにはキャンバスで出来たベッドが二つあって、前に居た所よりは少しましになりました。
このころから互いにトミー、モリとファーストネームで呼び合うようになりました。
 モリとは昼間キッチンで働き、夜も同じ所に戻って寝るので、一日中ほとんど行動を共にしていました。互いに話をする以外何もすることがないので、いろいろと身の上話などをするようになりました。モリが話してくれたことは、私には信じがたいようなことばかりでした。本当の話なのか作り話なのか判断しかねました。だけどスケールが大きくて面白いので、熱心に彼の話に耳を傾けました。
 モリのお父さんは明治初期に医学を学ぶためにアメリカに渡りましたが、鉄砲玉のように行ったきりで日本に戻りませんでした。アメリカで家庭をもち、男の子が三人産まれてモリは三男坊でした。上の二人はアメリカで軍医になりました。叔父さんは日本で石油会社の重役をしているとのことでした。モリだけが医学をしないで、日本へ行って父親の代わりに叔父の石油会社の仕事を手伝うことになっていました。アメリカの大学では経済学を学び、在学していた頃すでにヨーロッパへ行き、スイスでフランス語とドイツ語を学び、卒業後は日本へ行って京都帝大で日本語を勉強しました。それから香港へ行って、マンダリンと広東語も学んだということでした。戦前までは貴族だったそうで、ある伯爵とは従兄弟同士だということでした。太平洋戦争勃発以前に上海に移り住み、上海でインド北西部のマハラジャ一族の娘と結婚。ボーグ国際版のモデルになった人で、時々、表紙にも出たということでした。
「じゃあ、とても綺麗な人でしょうね」というと、
「まあ、綺麗は綺麗だけど嫉妬深いのでかなわん。できれば離婚したいと思っているんだ」という返事。そして、マニラには上流社会のガールフレンドがいたけれど、こうして捕虜になってしまったので、彼女はどうしているだろうか、と案じていました。 
 当時、シェル石油のマネージャーと友達になり、毎晩のようにタキシード姿で高級ナイトクラブに出入りしていました。
 ある時、そのマネージャーから奇妙な話を持ちかけられて、日本帝国海軍と関わりを持つようになってしまった、ということでした。
 マネージャーが持ちかけた話というのは、
「あと、一ヶ月したら蒋介石向けにアメリカから石油が数隻送られてきます。そのうちの一隻分の石油全部を内緒で日本軍に売りましょう。あなたが日本軍に話をつけてくれたら、わたしが書類上では蒋介石に売ったことにします。日本軍が払う石油の代金は二人で山分けにしましょう」というものでした。その話にのって、マネージャーとモリは蒋介石向けにアメリカから送られて来た石油を何度か横流ししました。
 当時、日本は国際的な連携によるボイコットで石油を輸入できなくなっていたので、喉から手が出るほど石油が必要でした。日本軍は直ぐに買い、金払いが非常によかったということです。モリは日本人でもあるので、石油を必要としている日本へ横流しするということに道徳的な抵抗感はなかった、といっていました。
 そういうことが関係してか、太平洋戦争が間近なある日、日本海軍から少佐待遇で、軍属になって欲しいという依頼がありました。彼は日本とアメリカのハーフ・アンド・ハーフ。二重国籍なので日本側の依頼を断れば、日本からは敵国人とみなされてしまいます。だから依頼といっても断るわけにはいかなかった、といっていました。
 仕事はマニラで情報収集が目的の放送局をつくることでした。国際放送局という名目で様々な人種で構成し、日本人はモリ一人で局長、ということなのですが、まあ、いってみればスパイ組織です。しかし、彼には選択の余地はなかったのでしょう。
 インド人の奥さんを上海に残して、少佐待遇の軍属ということでマニラにやってきたということでした。だから彼は私服で羽振りがよかったのでしょう。そんな彼の姿をマニラのナイトクラブで遠くから一度みかけたのでした。
 モリは不思議な雰囲気を持った人でした。彼に接していると自然にこちらが丁重な態度をとるようになってしまうのです。特に彼がそう仕向けている、というわけではないのですが、非常に上品な日本語を使うので、こちらもそれにあわせようとしてしまいます。日本人の捕虜たちは、同じ捕虜同士なのに、頼まれもしないのに彼のために食事を運んで、食器をさげたり洗ったりしていました。私も一緒の小屋だったので、ついでに運んで洗ってくれました。
「わたしは床屋でしたので、髪を刈らしてください。髭も剃りましょう」
と言い出す人もいて、日本人はみんな彼にへつらっているように、見えました。
 それが、面白いことには日本人だけでなくアメリカ兵まで、モリには丁重な態度で接していました。彼の英語にはアメリカ東部ボストンの上流階級の人たちが話す、上品なイーストのアクセントがありました。それでアメリカ兵も彼と話すときには、サーはつけないまでも、それに近い丁重な態度でした。
 マニラのオールド・ビリビット・プリズンで、モリと私は相変わらず朝4時に起きて朝、昼、晩とキッチンで働きました。その内にモリは収容所のどこからか動物の皮を見つけてきて、それでボクシングのグローブを誰かに作らせて、捕虜たちにボクシングを教えたり、トーナメントをしたり、ということを始めました。
 それからしばらくして、モリと私はアメリカの将校専用の食堂で働くことになりました。長方形の建物で片方の側がキッチンで、食堂とキッチンは壁で区切られ、隅に出入り口がありドアが付いていました。そこから出たり入ったりして、テーブルをセットしたり、料理を運んだり、食事が済んだ人の食器を下げたりしていました。
 ある日、モリはこんなことを言いました。
「あの収容所長がいうように、戦争というものは永久に続くものではない。いつかは終わる。そしたらぼくたちは社会に復帰することになる。しかし、それまで毎日こんなことばかりしていたら頭がバカになってしまう。少しでもいいから考えたり工夫したりして、頭の訓練をしておいた方がいい。君だったら、ここでどんなことが出来ると思う?」
「そうですね。ぼくはそういうことは考えてもみませんでした」
「例えば、こういうことはどうだろう。ぼくたちはここで働かされているのではなく、この食堂が君のもので、君が経営者だとしたら、どのようにして改善しますか?」
「さあ、そんなことは考えてもみませんでした」
「ぼくはあの仕切の壁がどうしても気に入らない。隅のあのドアから出入りして仕事をするのは、どう考えても能率的ではない。ぼくだったらあの壁に幅の広い窓をつける。窓の下には食器類を置くための台になる棚を付ける。そうしたら窓から料理を速く運べるし、汚れた食器も窓から運べば後片づけも早くすむ」
「そうですね」
「よし。では、あの壁に窓を作ろう」
「勝手にそんなことをして大丈夫ですか。処罰されませんか」
「トミー、ぼくたちは収容所に入れられている捕虜だよ。これ以上悪くなりようがないじゃないか。まさか、壁に窓を作ったからといって、死刑になるわけもないだろう」
 そう言って、モリはブタ箱を作った元大工に窓を作らせました。元大工はアメリカ軍の命令だと勘違いして一所懸命仕事をしました。久しぶりに大工の仕事ができる、といって張り切って他の者にも手伝わせて、あっと言う間に窓を開けてしまいました。もともとバラックなので、それほど手間の掛かる仕事ではなかったのですが、夕食時までには台になる棚もつけてしまいました。
 この食堂はみんなが来る前に、担当の将校が点検にくることになっていました。いつものように、少し早めに食堂に入ってきた将校は、壁に作られた窓を見て、
「誰があんなことをしたのか? 誰の命令でしたのか?」と訊きました。
「命令は受けていません。わたしがやりました」とモリが答えたので、将校はビックリして何か言いかけたとき、他の将校たちがドヤドヤと入ってきました。
「おや、あそこに窓が付いている。なかなか便利になったじゃないか」
「今朝はなかったはずだが、ずいぶん早くやったものだね」
「いいアイデアだ」
などと、みんなが口々に誉めたので、担当の将校はモリに文句を言う代わりに、自分がやらせたような言い方をして聞いていてなかなか面白かったですね。
 それからしばらくして、またモリがこんな事をいいました。
「この食堂はまだまだ改良の余地がある。トミー、君はどう思う? どんなことが出来ると思う?」
「さあ、改良といっても、こういうところでは限りがありますからね。まさかジュウタンを敷くわけにもいかないし」
 この食堂には細長いテーブルが二つあって、それに合わせて細長いベンチがついていました。将校たちはそのベンチをまたいで座りテーブルについていました。少し遅れてきたりすると、すでに両脇に腰掛けている人がいて、その間の狭い場所をまたがなければすわれませんでした。ナイフとフォークで食事をするときは、肘を少し張らないと肉を切ったり出来ないので、またいでいるときに脚が肘に触れたりして不都合なことがありました。そういう場面をモリはよく見ていて、
「細長いテーブルを切って四角にしたらどうだろう。ベンチも切ってスツールにすればいい。そうして一つのテーブルに四人座れるようにすれば、全員座れる」
 そういってモリはどこからか道具を調達してきて、例の大工を使って他の人にも手伝わせて、夕方までに全部作り直してしまいました。
 それだけでなく倉庫係りの兵隊に話をつけたらしく、白い布まで手に入れてきて、それをテーブルクロスにしました。鉄条網のまわりに咲いている花を摘んできてコップにさしてそれぞれのテーブルに置くと食堂は見違えるようになりました。モリは非常に満足そうにしていました。彼は将校たちに良く思われたいために、こういうことをしているのではなく、自分のためにしているのだ、ということが私にはわかりました。
 その日は、なぜか担当の将校は点検に来ないで、他の将校たちと一緒に食堂に入ってきました。みんな入ってくるなり、
「オー、ワンダフル」といって、「ヒュー」と口笛を鳴らす者もいました。
「フィリピン一番の食堂だ」などとジョークをいって、みんな口々にほめました。
 遅れてきた担当の将校は食事を終えて帰るときに、モリを呼んで、「こういう事をしてはいけない、というつもりはないが、する前にわたしに一言相談して欲しい」と言いました。
 そのうちにモリが気にかけていたフィリピンの上流階級のガールフレンドが訪ねてきました。彼がこの収容所に入れられている、という情報をどこからか手に入れたのでしょう。毎週一回定期的に訪ねて来るようになりました。訪ねてくる、と言葉でいうのは簡単ですが、モリは負け戦をやっている日本人捕虜で、その彼をフィリピンの上流階級の婦人が、捕虜収容所に訪ねてくるということは、なかなか大変なことなのです。
モリはこのフィリピンの女性に何度か窮地を救われて、命を助けられたといっていました。たぶんアメリカ軍がマニラに入って来たときの、混乱状態のときに匿ってもらったのでしょう。しかし、上流階級の彼女ですら、最後までモリを匿いきれなかったのでしょう。アメリカ側はさばけている、とでもいうのか、彼女がモリを訪ねてくると、二人だけで会えるように将校の別室を使わせていました。捕虜のベッドはキャンバスでできていて、レディが使えるようなしろものではありませんでしたから。あれには感心するというより、あきれてしまいました。ジュネーブ協定にだって、そんなことは書いてありません。そういう収容所に入った私たちは、非常に運が良かったのでしょう。 
軍隊というところは上官の命令には絶対に服従です。いざという時、民主的に話し合いをする時間はありません。それだけに戦場でも捕虜収容所でも、その部隊長や収容所長の考え方にものすごく左右されます。同じ連合軍側の捕虜収容所でも、イギリスとオーストラリアとアメリカとではずいぶん違ったようです。特にイギリス、オーストラリアは戦争の初期に日本軍にさんざんやられて、ひどい目にあっている上、連合軍側の捕虜は日本軍の収容所では酷い虐待を受けたので、後に逆に彼らの捕虜になって収容所に入れられた日本人捕虜は、収容所によってはみじめな思いをさせられたようです。
アメリカは戦争初期の段階で、日本軍に真珠湾とマニラをやられましたが、太平洋で反撃に出てからは、ほとんど一方的に日本軍を攻撃する側でした。太平洋戦争の前半では、アメリカは対ドイツ戦に主力を注いでいましたが、途中からヨーロッパ戦線に送られていた兵隊や物資が太平洋戦線にも送られてくるようになり、物質的にも精神的にも余裕が出てきたということもあったでしょう。豊富な物資を背景に勝ち戦をしてきたので、同じ日本軍に対する憎しみでも、初期に痛い目にあわされたイギリスやオーストラリアとはかなり違っていたようです。
私たちが入っていた収容所の捕虜監督責任者はとても良い人でした。キャプテン・マウント・ギャラリーという名前で、ボーイスカウトがかぶるような帽子をいつもかぶっていました。米軍ではキャンペーン・ハットと呼んでいた帽子で、確か第一次世界大戦で兵隊たちがかぶっていたものでした。もうすり切れて穴が空いていましたが、彼はその帽子が好きだからといって、いつもそればかりかぶっていました。一兵卒から大佐にまでなった人で、この戦争は長くはない、戦争が終わったら普通の生活に戻れる。その時が来るまで、規則を守ってトラブルを起こさないようにしていたら、順調に国に帰れる、と何度もいっていました。

POWメール


 この収容所では捕虜でも手紙を書けば海外に発送してもらえました。もちろん検閲はあったでしょう。ある日、兵隊が紙を配りにきたので、何のためだ、と訊いたら、
「POW(戦争捕虜)メールだ。書いたらどこにでも配達してもらえるよ」
といいました。思わず、
「日本にいるお母さんに書いたら配達してくれる?」とバカなことを訊いてしまいました。
「そいつは無理だ。アメリカと日本はまだ戦争しているんだぜ。日本とドイツ以外だったら、たいがい大丈夫だ」
 そういわれて手紙を書こうとしたのですが、誰に書けばいいのか、書く相手がいませんでした。私が育ったアメリカのポートランドに知り合いがいましたが、正確な住所を憶えていませんでした。憶えていたのはポートランドにいる幼馴染のジャッキーの住所だけだったので、ジャッキー宛に手紙を書いてみました。
 そうしたら一ヶ月ほどしてから、ジャッキーのお母さんから返事がきました。
「わたしには息子宛の手紙を開ける権利がないことは知っています。けれど、差出人がトミーでフィリピンの捕虜収容所からと知って、開けずにはいられませんでした。ジャッキーもわたしの行為を理解して許してくれると思います。あなたが元気でいる、ということを知って、こんなにうれしいことはありません」 
 という書き出しで始まっていました。そして、
「ジャッキーは今ベルギーでドイツと戦っています。あなたの手紙はベルギーのジャッキーに送ります」
という結びで終わっていました。
 それからまた一ヶ月ほどして、今度はベルギーのジャッキーから返事がきました。
 私から手紙をもらって、どんなに驚いたか、そしてどんなにうれしかったか、ということ、ベルギー空港の管制塔で働いていることなどが書いてありました。まさか返事までもらえるとは思わなかったので、ジャッキーのお母さんとジャッキーから手紙がきたときは、ほんとうに驚きました。
 ジャッキーとは兄弟のようにして育ち、ジャッキーのお母さんは私の育ての親ともいえる人でした。
 これから、私が何故ポートランドでジャッキーの家族と育つことになったのか、かなり長くなりますが、私の生い立ちを話しましょう。それには、まず私の父の話から始めなければなりません。
1


第2話 明治時代に移民した両親


父の渡米

  
 父が19才でアメリカへ渡って行ったのは明治37年(1904年)、日露戦争が停戦となった時でした。日本は満州で勝ち戦をして日本海海戦でもロシア艦隊を破ったので、勝った、勝ったと大喜び。夜にもなると人々は提灯をかかげて街をねり歩き、国中が戦勝気分にわきあがっていたそうです。そんな騒ぎを背に、なぜアメリカに発って行ったのか、面と向かって聞いたことが無いのではっきりした理由はわかりません。
 当時の日本では、長男だけが家を継ぎ、次男三男は12歳頃から丁稚奉公などに出されていたということです。娘たちも10歳やそこらで、子守や女中に出されるのは普通のことで、日本はまだまだ貧しく、小作農家では凶作が続いて食っていけなくなると、借金のカタに親が娘を売る、ということが黙認されていたそうです。
 父は富山県の農家の三男だったので家を継ぐことはできません。アメリカに渡るまで父が何をしていたのか、どんなつもりでアメリカへ行く決心をしたのか、残念ながら聞きそびれてしまいました。ただ、当時の日本は、300年も鎖国をしたあとだったので、冒険心のある若者たちの中には、海の向こうに対する好奇心や憧れが強かった、ということです。それと日露戦争中は兵力不足で、農家の次男、三男は兵隊に駆り出されていました。この頃、戦地の兵士たちの間では「補充兵は消耗兵、進軍ラッパは冥土の鐘」という言葉がささやかれていたそうです。
 そんな時に知り合いの知り合いから、
「アメリカへ出稼ぎに行ってみないか。渡航費は半分でいい。稼いだ後で払ってもらう。将来は広い土地で農業ができる。鉄道や製材所で日本人を欲しがっているから仕事はいくらでもある。賃金が高いから五、六年働けば、借金を返しても金がうんと貯まる」といわれて、その話に乗ってアメリカへ渡って行きました。中国大陸で消耗兵として扱われるよりは、アメリカという新大陸に賭けてみよう、と思ったのかもしれません。
 この頃の日米間には、国際船だけでなく日本船もすでに就航していました。
 当時のアメリカへの渡航費は片道六十円、横浜からシアトルまで約二週間。
 父が乗ったのは三等船室。船底で油くさい匂いが漂い、エンジンの音が絶え間なく響いている大部屋でした。蚕棚のように沢山ベッドが設えてあって、船客の吐く息と汗と体臭が入り混じって、いたたまれなかったそうです。それで天気の良い時は、みんな甲板に出て新鮮な空気を吸い、海がシケてくると部屋にもどって、吐き気とたたかいながら、じっとベッドに横たわっていました。
 この航海の途中、父は年上の人に賭博をさそわれ、わずかな有り金を全部すってしまいました。船賃には三度の食事代が含まれていたので、アメリカに着くまで金は必要なかったが、父は無一文でアメリカに着きました。
 「心配するな。仕事はすぐみつかる。泊り込み飯つきの仕事をすれば、金なんかいらないから」と、アメリカ行きを手配してくれた人にいわれ、その人から切手代を借りて、無事についた、と両親に手紙を出しました。
 当時のシアトル市は、商店など建物が二階建ての高い石造りでできていて路面電車が走り、馬車も行きかい、夜ともなれはネオンがきらめく日本の大都市とは比べ物にならないほど賑やかなところでした。一時期はアラスカやカナダの金鉱に向かう中継地として栄え、森林が豊かなので森には製材所が散在し、市の収入源にもなっていました。森の奥の製材所で働くのは、ほとんどが中国や日本からの移民と季節労働者でした。町外れにはチャイナタウンや日本人町があって、労働者相手の屋台や飯屋、赤提灯、売春宿などがあるドヤ街のようなところでした。しかし、シアトルで父が目にした日本人は、ちょうど日露戦争に勝ったばかりの時だったので、我々の母国は東洋の小国ではあっても、ロシアのような大国を相手に戦った、そして勝った、ということで胸をはり、大手を振って歩いていたそうです。
 しかし父は無一文だったので、アメリカ行きを誘ってくれた人に全てをまかせて、着いた翌日から鉄道工夫として働き始めました。
 当時、言葉も話せず、技術も縁故もない新来者がすぐに働けるところといえば、鉄道工夫しかありませんでした。父がいた鉄道設置の工事現場にはすでに日本人がかなりいて、労働者はほとんどが中国や日本などアジアからの移民、現場監督は日本人だったそうで、日本人は仲間で賭博をやったり、米で密造酒を造ったり、古参者が新米者を餌食にしようと待ち構えている、そうとう荒っぽいところだったようです。せっかく稼いだ金を賭博ですってしまい、いつまで経っても鉄道工夫の仕事からなかなか抜け出せない移民もいました。
 父はなんども賭博に誘われたが、船旅で無一文になったのに懲りて絶対に手を出さず、「アメリカに無一文で着いた時、俺はどんなことがあっても二度と賭博はやらない、と誓った。たとえ脅迫されても死んでもやらない」というと、もうそれ以上は誘ってこなかった、ということです。
 この頃アメリカでは、ニューヨーク、シアトル間のような幹線鉄道はすでに完成していましたが、西海岸の鉄道設置は遅れていました。けれど、鉄道工夫の仕事は開拓時代ならいざ知らず、世の中が少し落ち着いてくると白人たちに敬遠されました。労働環境がひどく、町から遠くはなれ家族とも離れて掘っ立て小屋で寝起きし、仕事の進行と共に常に移動しなければならない。そんな環境でも仕事をするのは貧しい中国や日本からの移民や季節労働者でした。日本の移民たちはアメリカで3、4年働き、国に帰ってから10年は遊んで暮らすつもりでやってきました。そのほとんどは小作人農家の次男、三男でした。
 日本人移民はまだ受け入れられていましたが、カリフォルニア州ではすでに排斥運動が始まっていました。
 この当時のアメリカは労働条件が悪く、白人労働者でも週六日、一日十二時間、十四時間働くのは当然とされていました。白人労働者は労働時間の短縮や賃上げなど、労働条件の改善を目指して戦っていました。そういう時に、安い賃金で文句を言わずに働く勤勉な日本人移民は、同じ底辺にいる労働者に白眼視されました。排斥の急先鋒はアメリカで最も貧しい、カリフォルニアにいた新来のアイルランド移民でした。労働組合が彼らを支持して、日本人排斥同盟や団体などが次々にでき、地方新聞がキャンペーンをはってこの動きを煽りました。日本人排斥運動はたちまちアメリカの西海岸一帯に野火のように広がり、北上してカナダにまで及んでいました。

 ちょうどこの頃、東海岸のボストンから100キロばかり北上したところにある港町ポーツマスでは、セオドーア・ルーズベルト大統領が斡旋した日露戦争の講和会議が開かれていました。日本は小村外相、ロシア側は元大蔵大臣ウイッテが全権大使。講和会議の進行状態はアメリカのジャーナリズムに取り上げられ、逐次日本やヨーロッパに伝えられました。負けたロシアよりも日本の方が謙虚で賠償請求も妥当だということで、日本に好意的な記事がアメリカの新聞に掲載されるようになりました。しかし講和が成立し、その内容が日本に報道された後に大事件が起きました。渋谷焼き討ち事件でした。
 講和条約には、樺太の南半分を日本の領土とする、遼東半島南部の租借権、南満州の鉄道の譲渡、韓国に対する日本の優越的な立場が書いてありましたが、賠償金は含まれていませんでした。この内容が日本で報道されると、「戦争に勝つために」と窮乏生活に耐えてきた人々は、賠償金が取れないと知って不満をつのらせ、それを新聞が煽り立てました。講和に反対する結社が次々とできて、扇動者による抗議運動が暴動へと発展していきました。
 実のところ、この戦争、日本の戦費の大半はイギリスとアメリカからの資金調達に頼り、ロシアはフランスから援助を受けていました。日露戦争は、この頃いちじるしくなった列国の植民地争奪戦の利害が絡み合った代理戦争でもあったのです。日本は戦場となった中国大陸で苦戦を強いられながらも、旅順、大連をかろうじて押さえ、日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を撃ち破りました。しかし兵力と物資が不足し、戦費をまかなう台所は火の車でした。農家の働き手である農民の息子たちが戦争に駆り出された日々の暮らしに影響が出ないわけが無く、庶民は苦しい窮乏生活を強いられました。一方のロシアでも、皇帝の専制政治に反発する革命運動が頻発。両国とも戦争の長期継続は困難な状態でした。このような状況下で、日本は戦費調達国であったアメリカの勧告を受け入れ、セオドール・ルーズベルトの斡旋による講和、ポーツマス条約を受け入れました。しかし国民にはこのような実情は知らされませんでした。
 日比谷公園の講和反対決起大会に集った群衆は暴徒となって、警察派出所や小村外相官邸、講和を支持した新聞社、キリスト教会を次々に襲い、投石、放火しました。暴徒の一部は米国公使官邸へ押しかけ、鎮圧するのに警察力では足りず軍隊が出動。戒厳令がしかれました。暴徒の投石、放火によって破壊された東京の巡査、警察の派出所は二百箇所以上。これらの暴動のありさまは、東京に駐在していた海外特派員によって打電され、アメリカの新聞に大きく取り上げられました。講和成立に貢献したルーズベルト大統領を群集が罵倒しながらアメリカ公使館に押しかけたこと、投石でアメリカ人が負傷し、アメリカ人牧師のいた教会が襲われ、投石、放火で破壊されたことに対して、激しい非難を浴びせる記事がアメリカの新聞に連日のように掲載されました。
 後に「日比谷焼き討ち事件」と呼ばれるこの事件は、日露戦争を境に少し好転しかけたアメリカ人の日本人観に冷や水を浴びせる結果となり、排日運動家に格好の材料を与えることになりました。それまでの排日運動はカリフォルニア州の労働組合を媒体とした、賃金、金銭問題だったのが、この事件を境に、教会に焼き討ちをかける野蛮な日本人というイメージが植えつけられ、差別の口実を与えることになりました。
この頃、人里はなれた鉄道設置の現場で工事夫として働いていた父は、このようなアメリカの世相とは無縁だったようです。
父の鉄道工夫の日給は80セント。旅費の借金を返すために賭博にも酒にも手を出さず、ただひたすら働き、二年半ほどでやっと借金を返してから、知り合った人が製材所の仕事を紹介してくれたので、そちらに移って働きました。
森の奥から切り倒して運ばれてきた大木を切って、鉄道の枕木を作る製材所でした。鉄道工夫として働いていた間は、まわりが日本人ばかりだったので、アメリカに二年半いながら英語はまったく解らなかったが、その製材所では、日本人は父だけだったので英語しか通じません。一年もしたら英語がどんどん解るようになりました。そこで働いていた仲間のアメリカ人に、「お前は英語が解るのだから、こんなところでいつまでも重労働をしていないで、ロサンジェルスへでもいって、もっと将来性のある仕事を探した方がいい」と勧められ、製材所の仕事も二年ほどでやめて、ロサンジェルスへ出て行きました。
三年以上も辺鄙な森の中で働いていた父にとって、ロサンジェルスは大都会でした。心細かったようです。日本人は多少いても、ほとんどがレストランの皿洗いやホテルのベッド・メーキング、ドア・ボーイ、アメリカ人家庭の家事手伝いといった下働きをしていました。
ポーツマス条約批准後に、ロシアから賠償金が取れないことに対する不満から始まった東京の暴動「日比谷焼き討ち事件」が連日の様に新聞に報道されて以来、一般のアメリカ人の日本人に対する態度は冷ややかで、排日の気運がいっそう強くなっていました。
仕事も日本人というと断られるようになり、下働きの誰もが嫌がるような仕事でさえ簡単には見かりません。また製材所にもどろうか、と半ばあきらめかけて最後に戸を叩いたユダヤ人の紳士服の仕立屋さんが父を雇ってくれました。
父はそこで身を粉にして一所懸命働いたといっていました。雑用から始まって仕事も覚えて五年ほどたった頃、店の主人が急に引退したい、と言い出しました。そして、自分には子供がないから店を譲ってもいい、と言われて本当にびっくりしたそうです。
それまでまじめに働いて貯金もしていましたが、店を買い取るほどの金ではありません。残りは月賦でよいといわれ、父は月賦でその店を譲り受けました。
 当時はアメリカで仕立屋というと、ほとんどがユダヤ人で、ユダヤ人以外のしかも日本人が紳士服の仕立屋を始めたのは、アメリカでおそらく自分が初めてだったのではないか、と父は言っていました。
仕立屋の仕事がどうにか見通しがつくようになった頃、アメリカで身を固めようと決心しました。嫁さんをもらいたい、と日本の両親に手紙を書いて、見合いの手配を頼みました。

ピクチャー・ブライド


この頃アメリカに渡って行ったのは、ほとんどが独身の若い男子でした。しかし数年働き、適齢期になって結婚をしたいと思うようになっても、まわりに対象になる女性はいませんでした。当時は白人とモンゴル系アジア人の結婚は法律で禁止されていました。それに白人の間でも男性の方が圧倒的に多かったのです。
日本人には言葉や生活習慣からいっても、やはり結婚相手は日本女性がいい、ということで思い起こしたのが、日本に古くからある「見合い」です。しかし「見合い」のために母国に帰れる人はめったにいませんでした。当時の移民には、日本に帰って見合いをするだけの時間的経済的な余裕はありません。往復の船旅だけでも四週間、日本に一週間だけ滞在するとしても最低五週間は必要。社会の底辺で働いて、やっと将来の見通しがつくようになった移民にとって、五週間の休暇と、それにかかる費用を捻出するのは不可能でした。こういう事情は適齢期の日本人移民にとって共通の悩みで、そこで思いついたのが、本人同士が会う代わりに写真と手紙の交換だけで決断する写真見合い結婚でした。この写真だけで「見合い」をして戸籍上正式に結婚し、渡米してくる日本女性は「ピクチャー・ブライド」(写真花嫁)といわれ、アメリカ政府は配偶者としてのビザを発給することを認めていました。しかし批判もあり、実際にいろいろ問題が起きました。
当時の日系移民は、農家の日雇いや庭師、ハウスキーパー、洗濯屋などの個人業、下働きのブルーカラーの労働者がほとんどでした。中には見合い写真を雇い主の豪邸の玄関や庭で撮って、そうとは言わずに送ったり、十年前の写真を送った人もいました。港に出迎えに来た婿さんをみて、失望して下船を拒んで同じ船で帰ってしまった花嫁もいたということです。気が進まないのに断ることも帰ることもできず、そのまま結婚して日系人となった人など、さまざまでした。
それにもかかわらず、当時、写真と手紙だけで見合い結婚をして、アメリカに渡った日本女性の数は二万人から数万に及んだということです。
写真花嫁になった女性には、未知の大国アメリカへの憧れ、冒険心、失恋の痛手、婚期の遅れ、親孝行など、それぞれ理由はさまざまだったでしょう。ですがやはり一番の理由は、その頃の日本の貧しさでした。
日露戦争軍需と戦後の一時の景気でうるおったのは、財界、業界のごく一部の資本家や実業家だけでした。貧困家庭では親の承認のもとに娘の人身売買があり、農村地帯では凶作が続いた年は、女衒と呼ばれた人買いが貧農村を訪れ、親との間で商談が進められました。言い含められてしぶしぶ従った場合がほとんど。しかし、けなげな娘たちの中には、みずから納得して売られて行った者もいたそうです。また、騙されて売られた者もいました。行く先は日本国内にとどまらず、中国大陸やシンガポール、ボルネオ、マラッカなど遠く海外にまで及び、ほとんどが娼家に売られて客をとらされました。
江戸末期から昭和の初期にかけて、海外に売られて行った娘たちは「からゆきさん」とよばれ、北米大陸へ渡った娘たちは「アメゆきさん」といわれました。
私の両親も写真結婚をした一組でした。父は仕事がようやく軌道に乗りかけたばかりで店の月賦も払い終えていないのに、見合いのために店を五週間も閉めることはできません。かといってそれが可能な頃まで待っていたら年を取り過ぎてしまいます。それで両親に手紙を書いて写真見合いを頼みました。
母は明治45年(1912年)に高等女学校を卒業してから、父と写真見合い結婚をして18歳でアメリカに渡りました。
高等女学校卒業というのは、当時としては高学歴で母の家庭が貧困だったというわけではありません。まだ20代にもなっていない若さで、まあまあの十人並みの器量です。その母が何故、写真結婚をしてアメリカへ行く気になったのか、面と向かって訊いたことがないので、父のアメリカ行きと同様、はっきりした理由はわかりません。ただ、ずっと前に母が女学校の卒業写真を見せてくれたことがありました。大勢写っているのに母がどこにいるか一目でわかりました。みんな同じように羽織、袴で束髪をしているのに、母だけが胸元の白い襟を誰よりも多く出して映っていました。きっと、わざとそうしたのだと思います。背も高く見えました。実際は小柄な人だったから、きっとつま先立ちをしていたのだと思います。母はそういう人でした。当時の三歩さがって夫の後ろを歩き、夫に仕える良妻賢母というタイプではありません。もしかしたら母は日本という国に早く生まれすぎたのかもしれません。
明治27年(1894年)に、富山の裁判所の前にある代書屋で生まれました。
母方は明治維新まで豪族でした。維新になるまでは俸禄をもらって、剣道をしたり、書き物をして詩を詠んだり、謡をしたり舞をまったりして、生産にたずさわることなく暮らしていたのでしょう。ところが維新後に俸禄が中止となり収入が断たれました。それまで仕事をしないで暮らしていたので、いざとなっても何もできません。しかし、何もしないで生きていくわけにはいかないので、親族会議を開いてどのようにして生活の糧を得るか話し合いました。富山は米どころだから造り酒屋をしてみてはどうだろうか、ということになりました。趣味と実益を兼ねるというか、それまで遊んで暮らしていた人間の考えつきそうなことです。案の定、ズブの素人のやることですから、三年続いて酒が酢になってしまいました。それで造り酒屋はむりだとわかりました。けれど何かしなければ一家は路頭に迷ってしまいます。そこで考えた末、酒は造れなくても字を書くのならお手のもの。ならば代書屋ならできるはず、ということで明治にできたばかりの裁判所の前に引っ越して代書屋を開業しました。その頃はまだ読み書きができない人が多かったので、商売が成り立ち一家を構えて暮らしていくことができたのでしょう。
母は七人兄妹の長女でした。明治45年、まだ会ったこともない父と写真だけの見合い結婚をして、アメリカで暮らすためにたった一人で太平洋を渡って行きました。
 母のこの時の船旅は、父の船底の船室とはちがって、けっこうゆとりもあり楽しかったようです。船客に画家を志す青年がいて、母はその青年と話があい、甲板に出て親しく話をするようになったといっていました。その青年はアメリカで暮らすようになってからも、毎年クリスマスに自分が描いた絵の入った手製のクリスマスカードを母宛に送ってきました。それを見る度に、父はいつも嫌な顔をした、ということです。

両親の新生活


 両親はロサンジェルスで簡単な結婚式を挙げた後すぐに働き始めました。
 言葉もわからず生活習慣も全く異なるアメリカ生活でしたが、母は少しも苦にならなかった、といっていました。
 母がこんなエピソードを話してくれました。
 ある日、卵を買いに行ったら店のいつも卵がある場所に見当たらなく、「これ」といって指差すことができません。何度エッグといっても通じません。指で卵の形を作って見せてもなかなか解ってくれず、とうとう両手を羽根のようにバタバタさせて「コケッコッコー」と叫びました。そしたら直ぐに店の奥から卵を出してきてくれた、ということです。
 父はメキシコ人を二人雇い、母も店の仕事を手伝って張り切って働きました。無我夢中で三年が経った時、母は妊娠していることに気がつきました。
 私の両親は妙な信念を持っていたらしく、自分たちは移民としてアメリカで暮らしていても、子供は日本で生むべきだと考えていました。それで、母は妊娠する度にわざわざ日本に帰っていました。里で子を産む、ということでしょうか。父にそれだけの理解と経済力があったからでしょう。私と同世代のアメリカで生まれ育った日本人の子供は二世と呼ばれますが、兄も私も日本で生まれているので、その意味では一世なのです。
 母は兄を生むために日本に里帰りしましたが、その頃はアメリカの父の仕事が丁度軌道に乗ってきて、夫婦で気を張って仕事に打ち込まなければならない時期でした。
 実家の祖母は初孫に夢中で、よくめんどうをみてくれ、赤ちゃんがいては仕事も思うように出来ないだろうからしばらく手が掛からなくなるまで預かってあげよう、といい、母もその気になって兄を実家に預けて、父が待っているアメリカに戻りました。母は一、二年で兄を迎えに行くつもりだったようですが、いろいろと事情があったのでしょう。なかなか日本に戻れませんでした。
 おりしもヨーロッパは第一次世界大戦中。日英同盟を結んでいた日本は連合国側の一員として参戦。はじめのうちは中立の立場をとっていたアメリカも連合国側に参戦しました。戦時中の軍需景気が続いたこともあり、兄を日本の祖母に預けている間、両親が力を合わせて働いたかいがあって、ロサンジェルスの店の経営は好調でした。
 当時のユダヤ人のテイラー服店は値段を交渉で決めていました。袖口に店員だけに解る暗証を付けて、お客の顔を見ながら値段を上げたり下げたりしていました。お客の方も値切って得をしたような気になることもあれば、値切り方がすくなかったと残念に思うこともあったでしょう。ユダヤ人や中近東、アジアの人たちはこうした商売の交渉が普通で得意のようですが、アメリカ人や日本人はこの値段の交渉というのが苦手です。それで父は最初から定価を決め、値段をきちんと書いて売り始めました。値切る人には他の店に行くように言ったそうです。第一次世界大戦、それに続く戦後と、まだアメリカの好景気が続いていた時なので店は随分と繁盛しました。両親は力を合わせて夢中で働きました。
 母が再び妊娠していることに気づいたのは、兄が生まれてから四年経っていました。
 私を生むためにまた日本に里帰りしましたが、この時は父も一緒でした。
 父は働きすぎて体調をこわしていたので、休養もかねて一時仕事から引退することにしたようです。まだ三十代の後半だったのですが蓄えもできていたのでしょう。父には休養も必要でしたが、日本にいる自分の息子に早く会いたかったのでしょう。母は長男を生んだ後、祖母に預けてアメリカに戻ったので、父はまだ自分の息子に会っていませんでした。それに、また母と離れて長い間アメリカで一人暮らしをするのが嫌だったのかもしれません。それにしても順調だった店も家も売り払っての帰国でした。何故、店や家まで売ってしまったのか聞きそびれたのですが、その頃、カリフォルニアでは日本人排斥運動の嵐が吹き荒れていました。
 日本人はまじめで勤勉、労働者でも物覚えが速く気が利いて、低賃金でも文句を言わずに働くので、雇う方には都合がいいわけですが、他の労働者にとっては、日本人移民は自分たちの職を奪うケシカラン奴ら、ということになります。当時の移民のなかでも下積みのアイルランド人労働者たちが排日運動の先鋒でした。両親のいたロサンジェルスは、排日運動が一番激しかった所だったので、そういうアメリカでの生活に嫌気がさしたのかもしれません。一時帰国ではなくて、ずっと日本で暮らすつもりだったのかもしれません。
 ところが、私が生まれて二年ほどしてから、両親は兄と私を連れて、一家四人でまたアメリカに戻って行きました。なぜ両親が再びアメリカへ戻って行ったのか、はっきりした理由はわかりません。
 私たち家族がまだ日本にいた1923年に関東大震災が起きました。震源地は神奈川県相模湾、北西沖80km。マグネチュード7.9。家屋の崩壊、全焼約57万、死者行方不明者約14万人に達した大震災でした。この震災のニュースが世界に伝わると、大災害にあった日本に同情が寄せられ、アメリカをはじめとする多くの国から多額の義援金が送られてきました。しかし、この時、関東地方が混乱に陥ったなかで、「朝鮮人と共産主義者が暴動を起こし日本人の婦女子が襲われた」等々の流言蜚語が飛びました。それを防止するという口実で自警団が組織され、多くの朝鮮人や共産主義者、組合の指導者が民間の自警団の手によって殺害されました。追ってこのニュースが世界に伝えられると、これを知った世界の人たちの日本人への同情は、批判に変わっていきました。
 アメリカでは、日本人が日本人だと言う理由で迫害されていましたが、母国日本でも、朝鮮人が朝鮮人だという理由で殺害されました。人種差別という点では、母国日本もアメリカも大差はなかった、といえるでしょう。
 両親は日本に帰ったものの、母国に馴染めなかったのではないかと思います。
 父がアメリカへ行ったのは日露戦争が終わった年で十九歳でした。それから日本に戻るまでに一五年以上経っていました。その間に自分自身が変わっていたのでしょう。一九歳からの一五年という歳月は、人間にとってかなり重要な時期です。その時期をアメリカで過ごしたので、考え方や価値観が日本人とはかなりずれてしまっていることに、日本に帰ってみて初めて気が付いたのではないでしょうか。
アメリカという国は大きく様々な人種がいます。また州によって自然環境や人々の考え方だけでなく法律まで違います。一口に日本人排斥といっても、それが激しかったのは西海岸のカリフォルニア州一帯でした。当時、反対側の東海岸では日本人を見たこともない人がほとんどで、日本人排斥という問題が起きていることすら東海岸の大多数のアメリカ人は知りませんでした。日本人排斥というと、日本ではアメリカ全体で日本人を差別し排斥していると思いがちですが、実際はそうではなく地域によってまったく違うし、みんながみんな日本人を眼の敵にしていたわけではありません。父が働いていたユダヤ人の仕立屋のように、どこの馬の骨かわからない日本人でも雇ってみる、気に入って見込みがあると思ったら自分の店を譲ってしまう、というような人がいるのがアメリカという国です。アメリカには確かに人種差別がありますが、その一方で開放的、開拓精神がさかんなところです。家柄がどうの、育ちがどうの、ということにこだわらず、理屈ぬきで実力やチャレンジが認められるところでもあります。それだけに危険も不安もありますが、その自由闊達さを一度体験してしまうと、日本のような閉鎖的な社会は非常に窮屈に感じられてくるものです。
それと、おそらく父は日本で思うように仕事ができなかったこともあったでしょう。当時の日本では洋装がまだ一般化されていなかったので、アメリカと同じ商売をするのは無理でした。日本でも第一次世界大戦の軍需品の供給にともない工業が発達し軍需景気がありましたが、そのために物価があがり、庶民の生活はかえって苦しくなっていました。まだ一般の人々が背広を新調する、といった時代ではありませんでした。
1


第3話 ポートランドの幼少年時代


再出発


 両親が二度目に渡米したのは1923年(大正10年)、アメリカの黄金の1920年代といわれる時代でした。第一次世界大戦(1914年~1918年)が終わった後、アメリカでは戦後の好景気がしばらく続きました。自動車産業を初め、鉄鋼、不動産、株ブーム、ニューヨークでは摩天楼の建設ブームと、世界一の経済力を持つ国として繁栄していました。
両親が移り住んだのは、ロサンジェルスではなくオレゴン州のポートランドでした。ポートランドはロサンジェルスに比べると田舎で不動産の値段が安い、日本人が少ないので日本排斥がカリフォルニアに比べて少ない、という情報をポートランドの友人から得ていたからでした。
ポートランドの下町に家と洋裁店を買って一家四人で再出発しました。ところが思ってもみなかった問題が起きました。七歳になる兄が、どうしても実の両親とアメリカの生活になじめなかったのです。祖母のいる日本に帰りたがって食事にも手をつけなくなり痩せていきました。医者に相談したところ、日本に帰るのが一番の治療法だ、と言われました。それで、両親はやむをえず兄を日本へ帰し、祖母に育ててもらうことにしました。
母は父を助けて町の洋裁店で働かなければならなかったので、兄が日本へ帰った後、昼間だけ近所のアメリカ人の家に預けられました。
そのアメリカ人の家族には子供が二人いましたが、ずっと年上で二人とも近所の小学校に通っていました。彼らが学校に行ってしまうと、家の中で子供は私だけでした。淋しいので家を抜け出して、彼らのいる小学校に行きました。外から教室を一つ一つ覗いては、兄弟の顔が見えると手を振って呼びかけました。私は、彼らの家に預けられた東洋人の小さな子供として、学校中の先生や生徒だけでなく校長先生にまで知られるようになりました。
そのうちに、両親は下町からかなり離れた高台にある白人の多い住宅地に家を買って引っ越しました。

アジア人移民法成立


 この頃、カリフォルニア州を初めとする西海岸では、日系移民とアメリカ人との間で摩擦が拡大、日本人排斥運動は以前にも増して激化していました。
日本人移民に共通していたことは、悪条件でも文句を言わずまじめによく働くこと。これは雇い主にとっては好都合。しかし労働条件の改善や賃金値上げを団結して求める労働者にとっては問題でした。すでに1900年頃から、日本人は働き過ぎだといわれていました、そのうちに日本人は家畜並に働くと酷評されるようになりました。日本では勤勉は美徳ですが、必ずしも世界的に通用するとは限りません。
日本人移民は農家の次男三男がほとんどで、新天地で身を粉にして働いたかいがあって、しだいに自分の土地を手にいれる者が出てきました。日本では一生自分の土地を持てない小作農たちが、自分の土地を手に入れたのだから働く意気込みが違います。朝早くから夜暗くなるまで働く。家族ができると家族総出で働きました。
日本の農民は野菜を作る場合でも、草取りをして日除けをつくり、こまめに水をやり、作物のめんどうをよくみるから良いものができます。同じ野菜にしても形や色つやが良い。一家総出で働くので人件費がほとんどからないから値段を安くできます。ところが白人農家では働くのは主人だけの機械農業。植え付けや収穫時は人手を雇わなければならない。人件費がかかるから作物の値段は安くはできない。市場にでると、どうしても値段が高くなる。それに比べて日本人の農家の野菜は品質が良い上に安い。安くて品質が良ければ、誰でもそちらを買うようになります。
アメリカの西海岸では、白人農家が日本人移民の農家にだんだん太刀打ちできなくなっていき、しかたなく土地を手放す農家がでてきました。その場合、土地に良い値をつけて買い取るのは日本人の農家でした。自分たちが農家を廃業する原因をつくった日本人を憎み嫌っていながら、しかし、いざ土地を売るとなると、やはり値段の高い方に売ってしまう。
勤勉な日本人農家に太刀打ちできなくなって、土地を追われたアメリカの農民たちが日本人排斥運動に加わり、その動きは政府にも無視できないものとなってきました。そして、ついに1924年アメリカ議会でアジア移民法が可決されました。
この法律により、それまで各州で異なっていた日本人に対する移民法が統一され、以後、アメリカ全土で日本人の移民と帰化が禁止されました。
 この移民法が成立して以来、日本人はアメリカで土地が買えなくなりました。しかし、それは日本人移民にとって大きな障害にはなりませんでした。土地を買う日本人は、アメリカで生まれアメリカ国籍を取った自分たちの子供の名前で買い取っていきました。そして二世の代になると、アメリカナイズされてきて機械農業を取り入れるようになりました。そうなると、もっと広い土地が欲しくなり、隣近所の土地を交渉して良い値で買い取っていきました。広い土地に良い種を蒔いて機械を使って家族総出で休暇もとらずに働くから、向かうところに敵無しです。日本人の農家は裕福になっていきました。広大な土地を鉄条網で囲むような農家も出てきて、ますますアメリカ人の反感をかうようになりました。
昔の日系移民というと、人種差別で迫害されて白人の下で屈辱的な仕事に甘んじて、血のにじむような苦しい思いをして、となぜか日本ではそう思われてきたようです。しかし、それは初期のことであって、必ずしも常にそうだったわけではありません。
無一文で見知らぬ土地でゼロからスタートすれば最初は誰でも苦労をするが、その上、アメリカでは人種差別や日本人排斥がありました。しかし、アメリカでは努力をすれば、それなりの成果もあったのです。出自や家柄や学歴に関係なく、才覚があって努力をする人に、アメリカはそれなりのチャンスを与えてくれました。だから日系人の中には、だんだん豊かになり経済力をつけていく者が出てきました。それに対して、西海岸に住んでいた白人たちが脅威を感じはじめたことが、日本人排斥が法律化された背景にあったといえるでしょう。

ジャッキーとの出会い


 新しい家に引っ越してから、しばらく母と家にいました。
 まだ友達もいなくて退屈でした。毎朝、新聞配達の少年が家の前の大きな木の下で配達の準備をしているのを、表のベランダから見ていました。
 今でも変わらないと思うのですが、その頃アメリカの新聞配達は新聞を筒のように丸めて自転車の前と後ろに積んで、表の通りから玄関やベランダめがけて放り投げていました。今でもその日のことは、はっきりと憶えています。
 いつものように少年が配達の準備をしているのを眺めていると、少年が話しかけてきました。
「君の名前はなんていうの、ぼくはロドニーだよ」
「ぼくはトミー」
「友達はいないの?」
「いない」
「じゃあ、ぼくの家に行って弟と遊んだらいいよ。君と同じくらいの年だから」
「でも、どこにいるの?」
「ほら、あそこに見えるだろう、あの家だよ」
といって、丘のすぐ下の方を指さしました。その方を見ると家の屋根が見えました。
「弟はジャッキーというんだよ」
そう言って、少年は新聞配達に行ってしまいました。
 ロドニーは私より五才上だから、その時はまだ十才だったのですが、ずいぶん大きなお兄さんのように感じました。
ロドニーがペダルを押して新聞配達に行ってしまってから、家にかけこんで大声で、
「お母さん、ジャッキーと遊んでいい?」とききました。
「ジャッキーって、誰のこと?」
「いつも新聞配達をしている人の弟だよ。ぼくと同じくらいの年だって」
「いいわよ。だけど、ちょっと待ってなさい」
そういって、母はブリキでできた動物の絵が描いてある小さなバスケットを棚から二つ出してきました。 中には動物の形をしたクッキーがいっぱい入っています。
「一つはジャッキーにあげなさい」と言って二つ持たせてくれました。
 母は日本人だから長い間アメリカに住んでいても、こういう場合、子供を手ぶらでは行かせられなかったのでしょう。表のドアをノックすると、中から女の人が出てきて、私を見て驚いていました。
 白人地域だったので周りは白人しか住んでいないのに、ドアを開けてみたら小さな東洋人の子供が立っていたので驚くのも無理はなかったでしょう。
「坊や、何のご用?」と訊かれたので、
「ジャッキーと遊びに来ました」と言ったらますます驚いて、
「坊やは誰なの?」
「ぼく、あの家に引っ越してきたトミーです」
「どうしてジャッキーの名前を知っているの?」
「新聞配達をしているロドニーが教えてくれました。あの家に弟のジャッキーがいるから、遊びに行ったらって」
「そうだったの」
その間、私と同じ年くらいの男の子が、長いスカートの陰から覗いているのが見えました。私にはその子がジャッキーだとすぐにわかりました。
「じゃあ、お入りなさい」と言われて中に入りました。
それ以来、ジャッキーと私は17歳になるまで兄弟のように過ごしました。
両親は街で洋裁店を経営していたので、昼間ジャッキーの家にあずけられて家族同様に過しました。両親がその費用を払っていたことは、当時は知りませんでした。週末もジャッキーの家族と農場へ行ったりして一緒に過ごすことが多かったので、実の両親と過ごすよりは、ジャッキーの家族と過ごす時間の方が多かったのです。
 ジャッキーとは半年違いだったので、仲良く遊びましたがよくケンカもしました。
二人が悪いことやひどいケンカをすると、罰に木の枝で尻をぶたれました。
ジャッキーの家の裏庭は木いちごの垣根で囲まれていました。木いちごというのは枝や葉が密集していて、棘があるので垣根に丁度いいのです。いたずら小僧や動物たちが通り抜けできません。春には木苺が沢山なるので食べられるし、食べきれないのはジャムにします。ジャッキーのお母さんは一年中食べられるほど、毎年ジャムを作ってビン詰めにしていました。裏庭は林に続いていました。兎やもぐら、キジ、鹿などの小さな動物たちがまだたくさん住んでいました。いたずらをして叱られる時は、
「お仕置きをするから林に行ってムチをとってきなさい」とジャッキーのお母さんに言われ、裏の林の中にムチになりそうな手頃な枝を取りに行かされました。二人とも小さくて弱そうな枝を取ってくるので、
「こんなんじゃ、ダメ、もっと大きくて丈夫なのをみつけてきなさい」と言われて、泣きながらまた枝を探しにいきました。裏庭の大木の幹に顔をつけ尻をつき出すようにして立って、十回、木の枝でぶたれました。後で見ると赤く痕がついていて、けっこう痛かったですね。それから、ジャッキーは前庭へ、私は裏庭へ行かされて三十分離ればなれにさせられました。その三十分が長かった。互いに相手のことが気になって、家の角からそっと覗いてみたりすると、「まだ、三十分たっていませんよ!」とジャッキーのお母さんの声が飛んできました。
 ジャッキーのお母さんと母とでは、躾がかなり違っていました。ジャッキーのお母さんは、子供のマナーが悪いからたしなめる、ケンカをしたから、悪いことをしたから叱る、罰をあたえる、と言う態度でした。
 しかし母は、「そんなことをすると人に笑われますよ」と言ってたしなめました。自分の母親ではあっても、これが子供心に嫌でした。こんなことを言われて育つと人の目を気にするようになります。私はそれが嫌で、自分が大きくなったら母のようなことは絶対に言うまい、と思いました。
 近所には子供が何人かいたので小学校へあがるまで、彼らと目いっぱい遊びました。ジャッキーとはいつも一緒で、林の中に入ってモグラの棲みかを荒らしたり、蜂の巣をつついてみたり、キジの卵を盗んでニワトリに抱かせてみたりと、毎日いたずらばかりして過ごしました。
 そのうちにジャッキーは小学校にあがりました。その頃のアメリカの小学校は学期が六ヶ月だったので、ジャッキーは小学校に入学できても、私はあと半年待たなければなりませんでした。けれどジャッキーが学校に行っているので、私も学校へ行きたくてなりません。それで、母にジャッキーと一緒に学校に行かせてくれ、としつこくせがみました。とうとう母は根負けして校長先生に会いに行ってくれました。以前、預けられていた時、その家の子供たちを探しに毎日のように行っていた学校でした。校長先生は私を覚えていてくれました。
「六ヶ月早いが、では絵でも描いてみなさい」と言われて、見たこともない富士山を描いて、男の子が凧をあげながら富士山に登っている絵を描きました。その絵がとても上手に描けているということで、ジャッキーと一緒に入学を許されました。
 小学校のことで一番よく記憶しているのは、まず初めに本の扱い方を教えられたことです。本の持ち方、開き方、ページのめくり方を先生が手本を示しながら教えてくれました。今でも、その時先生が教えてくれた通りに本を扱っています。自分の本ではなくても、ページの角にめくるときの指の跡やしわがあるのを見ると、残念に思います。
 小学生になって二人とも本を読むのが大好きになりました。図書館から何冊も借りてきて一緒に読みました。そのせいかスペリングが得意で勉強は良くできました。学校でスペリングのコンペティションがあると、たいがいジャッキーと私の間で一位争いになりました。二年生の時に二人だけ飛び級をして半年早く三年生になりました。けれど私は日本人のなかでも小さい方だったので、クラスの中でますますチビになってしまいました。ジャッキーとは学校でも一緒、学校から帰ってからも両親が仕事を終えて帰ってくるまで、毎日ジャッキーの家で過ごしました。

アメリカの家族


 ジャッキーの両親は農家の出で、お母さんは南部の東海岸、お父さんは中西部の出身でした。
 ジャッキーのお母さんはポートランドに住んでいながら、豆を使った南部料理をよく作りました。それで私もアメリカの南部料理をたくさん食べました。豆とひき肉をトマトなどと一緒に煮た素朴な料理でしたがとても旨かった。
ジャッキーの家の裏庭は広くて、リンゴやナシ、プラムなどの果物の木がたくさんありました。野菜畑もあって、トマト、きゅうり、キャベツ、人参、じゃがいも、かぼちゃ、豆、トウモロコシなど、野菜は買う必要がないほど、なんでも作っていました。垣根は木いちごだったので、いちごはそのまま食べたり、パイを作ったり、ジャムにしました。
 ジャッキーのお母さんは料理が上手で、パイやケーキなどのお菓子をよく作りました。いちごの旬には夕食のデザートに木いちごのパイを作ってくれました。パイに使ういちごを摘むのは子供たちの役目で、ジャッキーのお母さんが、「これにいっぱい入れてきてね」といって小さな篭をそれぞれにわたすと、まずその篭にいっぱいになるまでいちごを摘んで、それからでないと遊べませんでした。秋にはリンゴやナシでアップルパイやナシのパイを作ってくれました。ニワトリもいて卵を毎日たくさん産んでいました。
 ジャッキーの家では、毎年秋に四、五日がかりでビン詰めをたくさん作りました。自分の家でとれたものの他に、旬の野菜や果物をたくさん仕入れてきて、ピックルス、ジャム、スープやジュースまで作ってビン詰めにしました。ジャッキーのお母さんがビン詰めを作るときは、家族みんなで手伝いました。キッチンがまるで食品工場になったみたいで、グレープ・フルーツのジュースも手作りでした。きれいに洗ったビンを大きな鍋に入れて煮沸消毒しながら、ビンの口いっぱいまで作ったものを入れてさっと蓋をして取り出すと中が真空になります。ビンの口にはゴムがついていました。家には地下室があって、そこに食料品のコーナーがありました。壁一面に棚がつくってあり、自家製の野菜や果物のビン詰めジュースなどがたくさん並んでいました。
 冬になると暖炉に火を入れて、その前で本を読んだり、チェスをしたり、カードやモノポリーなどのゲームをして遊びました。おやつはたいがいポップコーンでした。トウモロコシもバターも自家製で、ポップコーンは食べるすぐ前につくるから、とっても旨かった。トウモロコシと溶けたバターのかんばしい香りがなんともいえなかったですね。いくらでも食べられるが、そのうちに喉が渇いてきます。そうすると地下室へ行って、秋に作ったグレープフルーツ・ジュースのビン詰めを取ってきて、暖炉の前でポップコーンを食べてはジュースを飲んでいました。忘れられない味です。
 ジャッキーの家では、塩、砂糖、粉などを除いてほとんど自給自足した。世界恐慌の時は、取れたての卵を街の店に持っていって、塩や砂糖、粉などと物々交換していました。だからほんのわずかな現金収入でも生活していける状態でした。
 私の少年時代は白人地域に住んだこともあって、質素で堅実な普通のアメリカ人家庭の生活だったと思います。成長期に一緒に過ごした時間が長かっただけに、実際の父親よりもジャッキーのお父さん、サムソンさんから影響を受けて学んだことの方が大きかったかもしれません。少年時代には日本人とアメリカ人の二人の父親がいたようなものでした。
サムソンさんは何でもできる人でした。自動車の修理、分解をはじめ、家も建てられる人でした。古い家を買って、家族で住みながら改造してしまうのです。改造し終わって見違えるようになったところで、それを売って次にまた一段階グレードアップした古い家を買って住みながら改造しては売る、ということを繰り返して、四度目でやっと、これと思う我が家を持つことができたといっていました。金のある人は、こんなめんどうなことをしなくても、いきなり自分の理想とする家が買えますが、普通の人が収入以上の理想の家を持とうとすると、いろいろ工夫がいります。それに器用で道具を使って何かを作るのが好きだったのでしょう。自動車もエンジンまで分解して組立直すなんてこともしていました。
家に広い趣味の仕事場を持っていて、壁一面全部に棚が取り付けてあって、道具がきれいに整頓して並んでいました。浅い棚なので何が何処にあるか一目でわかりました。いつでも直ぐ使えるようにピカピカに磨いてあって、誰にもさわらせませんでしたが、私にはさわらせてくれて、手入れの仕方も教えてくれました。ジャッキーはどういうわけか、そういう物には興味がないようでした。サムソンさんは、ジャッキーがいじるとあった場所に戻さない、後始末をきちんとしないから、といって自分の息子なのに触らせませんでした。

世界恐慌


 黄金の1920年代といわれた第一次世界大戦後のアメリカの好景気は、後半に入って陰りを見せ始めました。機械で大量生産するようになったアメリカの農産物は余剰ぎみとなり、それらを輸入、消費する経済力は、ヨーロッパにはまだありませんでした。工業製品も同様で余剰ぎみになっていました。
1929年(昭和4年)、ニューヨークのウォール街で株の暴落から始まった世界恐慌が起きた時、私とジャッキーは八才でした。
ジャッキーのお父さんは、世界恐慌の当時は市電の運転手をしていました。以前は管理職だったらしいのですが、不景気になってクビになるところを、夜間の運転手に格下げして働かせてもらっていたようです。午前1時から朝の9時まで働いて10時にはもう家に帰っていました。それから夕方まで自分の時間に使えるわけです。夕方6時にはもう寝ていました。夜中に働くのは大変だが、昼間半日以上を自分の時間に使えるので、昼間は畑仕事をしたり、家の修理をしたり、車などの機械いじりをしていました。学校から帰ると、サムソンさんはたいがい家で何か仕事をしていました。それを見たり手伝ったりしながら、いろいろなことを教えてもらいました。真夜中に起きて仕事に行くので、夕食も早く6時頃にはサムソンさんはもう寝室に行ってベッドに入っていました。だから6時を過ぎたら、家で騒いだり大声を出したりしてはいけないことになっていて、夕食を食べたら静かにゲームをするか、図書館から借りてきた本を読んでいました。それで読書が大好きになりました。
街角には救世軍の人たちがスープやパンを配りに来ていました。いつも貧しい人たちの長い行列ができていました。そういう人たちはたいがい白人で、日本人などアジア人の姿は見られませんでした。
それには理由がありました。当時アジア人の移民は父もそうでしたが、ほとんどが農家か自営業でした。人種差別や言葉の弊害、排斥があって、アジアの移民たちが普通の会社や工場に就職することはまず不可能でした。それで、日本人は農家出身がほとんどだったから農業をやり、韓国人は八百屋、中国人はレストランやクリーニング店を経営していました。みんな自営業なので、不景気になったからといって白人労働者のように首を切られることはありません。もちろん収入は激減するが、なんとか持ちこたえることはできます。というのは、日本人、中国人、韓国人というのは、まさかの時のために普段から蓄えています。アジア人の移民にとっては、雇ってくれる会社はないし、排斥されているし、頼りになるのは自分自身の体力、知力、気力、身内、それと金なのです。だから、まさかの時に備えて、生活を切り詰めても必ず貯蓄をします。ところが白人はあると全部使ってしまうのですね。彼らには、日本人のような貯蓄精神はまずありません。だから景気のいい時は散財するが、不景気になって失業したりすると、もう、たちまち困ってしまいます。
 こういう人たちの中には、物や金がある豊かな時には十分楽しんでおきながら、恐慌などが起きて生活が苦しくなると、それを人のせいにするところがあります。それは人も国も同じです。経済が良いときは、自分の力でなしとげたみたいに自信満々、傲慢にさえなりますが、いったん悪くなると、すぐ他人や他国のせいにしたがります。その時代が豊かで安定していればなんの問題もないのですが、恐慌が起きて不況が続き、生活が苦しくなって世の中が不安定になると、その原因を直視しないで、他に求めようとします。非難する対象が欲しいのでしょう。いいわけとスケープゴートが必要になるわけです。そういう時に対象にされてしまうのは、異民族、少数民族である場合が多いですね。マジョリティーの反感を買う、ということです。それは昔も今もあまり変わっていないようです。あの時代では、西海岸の日本人の立場がそうでした。

農場生活


 サムソンさんはポートランドから、車で三十分ほど北にドライブした隣のワシントン州に70エーカー(約8万6千坪)ほどの農場をもっていました。
 春になって気候がよくなると週末ごとに農場で過ごしました。奥さんは農場があまり好きではないようで、家でしなければならないことがたくさんあるから、といって一緒に農場に行くことはめったにありませんでした。それで週末はサムソンさんが三人の子供を連れて農場ですごしました。

 オレゴン州とワシントン州の州境にコロンビア川が流れていて、ポートランドは川に面した州境の町です。橋を渡るとワシントン州です。
 アメリカはこういうところが面白い。同じ国なのに州によって税率が異なっていました。当時ワシントン州ではオレゴン州に比べて煙草の税率が低く値段がずっと安かった。それで大人たちは橋を渡ってワシントン州まで煙草を買いに行っていました。

 金曜日の午後は学校から帰ってくると、サムソンさんを手伝って農場へ行く準備をしました。準備といっても自家製のジュースやパン、粉、衣類やタオルなどを車に積み込むだけの簡単なものでした。コロンビア川を渡って半時間もドライブすると、サムソンさんの農場がありました。農場には牛や馬、豚、ニワトリ、アヒルなどがいて、野菜畑もあり、りんごやなし、クルミの木などもありました。

 小屋番が一人住み込んでいました。賃金がもらえるわけではないのですが、そこに住まわせてもらって、畑仕事をして家畜のせわをしながら、ほとんど自給自足の生活をしていました。

 農場の一部には林があって小川も流れていました。夏休みになって長く滞在するときなどは、馬を使って林の木を何本か切り倒してきて川の水をせき止め、小さな人工湖を作ってくれました。暑くなるとその湖に飛び込んで、アヒルや魚たちと一緒に泳ぎました。

 馬にもよく乗りました。馬が仕事に使われていないときは、私たちが乗って遊びました。本当は馬も仕事をした後は疲れているので、休ませてやらないといけないのに、馬に乗りたくてしょうがない。馬は嫌がるのですが、片手に砂糖をのせて少しずつ舐めさせながらクツワをはめ垣根の柵まで引っ張って行って、柵の上から飛び乗りました。まだ子供で背も低かったので、地上からはとても乗れませんでした。馬ははじめのうち嫌々ながら林の中をゆっくりゆっくり歩きますが、戻るときは馬小屋で餌を早く食べたいので、すごいスピードで駆け抜けました。振り落とされないように頭を低くして馬の背中に必死でしがみついていました。

 牛の乳搾りやバター作りもやりました。手でするのでバケツ一杯絞るのにずいぶん時間がかかりました。バターを作るのは、絞った牛乳を金物のバケツのような物に入れて、三日ほど寝かせておきます。それから木の樽に移し、棒の先の方に、はすかいにした小さな板を取り付けたものを入れて揺らせます。すると板に脂肪が付いてきます。それがバターです。脂肪を取って、またはすかいの板の付いた棒を樽に戻して揺らして、と何度も何度も同じことを脂肪が付かなくなるまで繰り返します。脂肪が無くなったミルクは少し酸っぱくなっています。それをバターミルクと呼んでいました。バターを取ってしまってバターが無くなったミルクを、バターミルクと呼ぶなんて面白いと思いました。そのちょっと酸味のあるバターミルクが大好きでよく飲みました。カルピスの味によく似ています。初めて日本でカルピスを飲んだ時、「あっ、これはバターミルクの味だ」と思いました。

 農場にはトウモロコシがたくさん植えてありました。もぎたてのトウモロコシを湯がいて食べるとこれがまた旨い。おやつによく食べました。

 農場では鶏、たまに豚を一頭屠殺して食料にしました。サムソンさんが豚を解体するのを手伝うこともありました。終わると塩をよくふって、車で貸し冷蔵庫に運んで行きました。農場には冷蔵庫がありませんでした。あったとしても普通のサイズの冷蔵庫には入りません。それで、そういうことに使うための大きな貯蔵冷蔵庫をもっていて、肉などを預かる商売がありました。そこに解体したブタを一頭預けて、必要なときに行って、そのつど好きな部分を切り取ってくるのです。

 朝食はたいがいハムエッグ。農場のニワトリが産んだ卵、ハムも自家製で、もぎたてのトマト、焼きたてのパンに自家製のバターをぬって食べました。素朴だが、みんな取りたてつくりたてのものばかり。おやつはトウモロコシ、喉が渇くとバターミルクを飲んでいました。金というものをほとんど使わない自給自足の生活でした。

 農場の中を流れている川で魚釣りもよくやりました。マスなど夕食分になるくらい釣りました。サムソンさんは魚をさばくのも上手で、釣った魚は少したまるとさばいて塩をふっておきました。ハムとかチキンや卵ばかり食べていると飽きるので、時々魚をとって食べました。とりたての魚は塩を振って焼くだけですごく旨かったです。

 昼間はサムソンさんの畑仕事やいろいろな農場の仕事を手伝ったり、泳いだり、馬に乗ったり、釣りをしたりして、日が暮れてくる頃には疲れ果てていました。農場には電気がなかったからランプを使っていましたが、夕食を食べて暗くなる頃には、もう疲れ果てランプを付ける前に寝ていました。毎年、夏休みの二ヶ月位はこんな風にして農場ですごしました。


初めての里帰り


 小学六年生の10歳の時に母と日本へ行きました。
 その頃アメリカの小学校は8年までありました。途中で飛び級をしたこともあって、勉強の方は歳のわりに進んでいました。それで両親は、アメリカの学校をしばらく休ませて日本へ行かせることにしました。日本のことを知る必要があるし、それも教育の一つだという考えでした。
 「学校を半年休ませて日本へ連れて行きたい」と校長先生に相談したところ、それはいいことだ、とても良い教育になるから、と勧めてくれたそうです。それで母は、私を連れて半年間日本へ行きました。父は店を半年も閉めるわけにはいかないのでアメリカに残りました。母にとっては実家に預けた長男に会いに行くこと、私にとっては八年ぶりに兄に会うことでもありました。
この年、1931年(昭和6年)は、世界恐慌が始まってから2年経っています。世界恐慌の影響からくる不況は日本でも深まるばかりで、それに追い討ちをかけるように、東北地方、北海道は大凶作でした。
世界で不況の嵐が吹き荒れていたこの頃、日本は日露戦争で得た満州での権益を拡張していき、国内では軍国主義が台頭していました。日本は不況で行きづまった閉塞感の突破口を満州に求めていたようで、この年、満州事変が勃発。翌年には日本陸軍が満州を占領。満州国を建設しました。
そんな時期に親子で半年も日本に行っていられた、というのはアメリカで父の商売がかなりうまくいっていて、蓄えも多少あったのでしょう。もっとも日本へ行くといっても、母の実家に行くので滞在費はほとんどかかりません。往復の船賃を払えれば、あとは日本を旅行したとしても費用はあまりかからなかったでしょう。
日本では母の実家で過ごしました。その間に京都や奈良など、兄と一緒にいろいろなところに連れて行ってもらったらしいのですが、京都の名所旧跡を訪れた記憶はなくて、奈良で鹿にエサをやったことぐらいしか憶えていません。
それよりも、この時の日本体験で一番強烈な印象として残っているのは、母の実家でばあや達に会ったことでした。ばあやたちはお歯黒をしていたのです。これには本当にびっくりしました。あとで分かってみると、彼女たちはとてもやさしくていい人なのですが、なにしろお歯黒をしている人を見るのは初めてだったから、初めはただただ気味が悪かったのです。お歯黒をしていたばあやたちに会った時の印象がよほど強かったのでしょう、八年ぶりに兄に再会したのに、その時のことは憶えていないのです。それに、どこへ行っても私は珍しがられて、子供達にゾロゾロと後をつけられました。その頃、日本の田舎の子供達はまだ着物をきていて、履物はわらじか下駄でした。頭はみんな丸坊主にしていました。私のように洋服を着て靴を履き、髪を伸ばしているのは少数の大人だけ。髪は伸ばしているといっても長髪ではありません。普通の髪型です。でも日本の子供たちは皆坊主頭だったから、子供たちは、私を子供とは思わないで「小びと」と思ったようです。特に田舎では子供達がはやしながらゾロゾロ後をついて来るので、それがとても嫌でした。ある日、床屋に行って散髪をしてもらっていた時、ふと窓を見たら、子供達がすずなりになって覗いていました。本当に嫌でした。母は母で日本に帰ったら地味な着物に着替える、というような考えは持ち合わせていなかったので、アメリカにいる時と同じ洋装で街を歩いていました。町を歩いているとすれちがう人がみんな振り返って見るし、どこへいっても注目を集めてしまい、私たち親子は本当にミセモノみたいでした。
でも、日本にいた間に言葉や日本の礼儀作法を習いました。洋式のマナーはジャッキーの両親からしっかりと躾けられました。けれど私の両親は仕事に忙しくて、一緒に過ごした時間が少なかったこともあったでしょう、日本の作法はあまりうるさくいいませんでした。それにアメリカに住んでいるので、日本の作法よりは洋式のマナーをしっかり身につけた方が良いと思っていたようです。
日本に着いたばかりの頃、母の実家で飯を食べていて、食事の途中で味噌汁を飯にかけて、かき込むように食べました。そしたらみんなビックリして、そんな食べ方をしてはいけない、と言われました。どうして息子に食事の作法を教えないのだ、と母が叱られていました。ポートランドで日本の一世の大人がそうやって食べていたのを見て、味噌汁と飯は途中からそうして食べるものだと思い込んでいたのです。それで得意げに母の実家でやってみせたのですが、それは悪いマナーだと知って驚きました。
日本語も着いた時は、みんなが話していることがさっぱり解からなくて、おぼつかなかったのが、帰る頃にはほとんど不自由しないくらいになりました。
 半年経ってポートランドに戻り、また前と同じように学校に通いました。
 あの頃、1930年代のアメリカの西海岸では、外国へ行った、などという子は全校で私だけでした。珍しい体験をしてきたからということで、全校生徒の前に立ってスピーチをさせられました。
「トミーは太平洋の向こう側にあるジャパンという国に六ヶ月も行って来ました。では、これからトミーにジャパンの話をしてもらいます」
と、紹介されて日本の話をしました。
 あんなに大勢の前で話をしたのは生まれて初めてのことでした。たぶん夢中だったのでしょう。どんな話をしたのか今ではぜんぜん憶えていません。いくつか質問を受けて、最後に日本の歌をうたってくれ、とリクエストされました。日本の歌、といわれてもなにも知らなかったのですが、日本にいたとき叔父さんから教えてもらった慶応と早稲田大学の校歌を覚えていたので、それを歌いました。
 子供の頃に覚えた、というのは不思議ですね。歌詞の意味はまったく理解していないのに、歌の文句だけはちゃんと覚えていて、歌うことができました。
 そしたら、「なんだ、随分西洋的な曲じゃないか」とみんな驚いたらしいですね。「アメリカの歌とあまり変わらないじゃないか」といっていた人もいたようです。
 後で知ったのですが、みんな音色の高い中国的なエキゾチックな歌を想像していたらしいのです。

日本語学校


 また普段の生活に戻りましたが、日本へ行っていた半年の間にジャッキーは一級進んで上のクラスになっていました。ジャッキーと同じクラスになりたくて、また母にせがんでジャッキーと同じクラスに行けるよう、校長先生に頼んでもらいました。
 校長先生は、「試験をするから受かったら、ジャッキーと同じクラスにいっていい」といってくれました。試験を受けてみたら算数以外は全部受かっていました。けれど、算数は半年の間に随分先に進んでいて、分数など全然知らないことをやっていました。「やはり算数はきちんと勉強しておいた方がいい」といわれて、ジャッキーとは同じクラスになれませんでした。
 それからは、ジャッキーとはずっと半年おくれになりましたが、いつも一緒に学校に行って一緒に帰ってきて一緒に遊んでいました。
 学校でわからないところは、ジャッキーに訊くと教えてもらえるので便利なこともありました。またジャッキーとは兄弟のように仲良くいろいろなことをして遊び、またケンカもしました。しまいには取っ組み合いのケンカになって、「もう二度と遊びになんかくるものか!」、といって捨てぜりふを言って帰るのですが、もう翌日にはまた遊びにいっていました。
 日本から帰ってしばらくして学校が終わってから、日本語学校へ行くことになりました。両親が日本人なのに、日本へ行く前は日本語がほとんど話せませんでした。両親と過ごす時間よりもジャッキーの家族と過ごす時間の方が長かったからでした。それでも半年間日本に行っていた間に、かなり上手に話せるようになり、せっかく日本語が上手になったのだから、それを忘れないためにも日本語学校へ行く必要がある、と両親は考えたのでしょう。
 アメリカの学校は三時半まででした。学校が終わってから市電に乗ってポートランドの市内にある日本語学校へ行きました。四時から六時までそこで勉強しました。
 ジャッキーや他の友達はみんな遊んでいるのに、自分だけ日本語学校に行くのが嫌でした。日本語学校では日本の文部省の国定教科書を使っていました。修身の時間もありました。これが嫌でたまりませんでした。なにしろアメリカで育ってアメリカで生活しているので、日本の修身を教えられたって全然ピンとこないのです。ただでさえぼくの友達はみんな遊んでいるのに、という思いがあったからなおさらでした。
この頃アメリカで、このように母国語を勉強していたのは、日系人ばかりではありません。市内には中国語学校もあって、中国人の子供たちは中国語の勉強をしていました。日系人の二世には、日本語がうまい子供はほとんどいませんでした。日本語学校の教室でも、先生に「日本語で話しなさい!」といって叱られると、日本語を話しますが、先生の姿が見えなくなると、また英語でしゃべっていました。学校の行き帰りなども、友だちどうしは英語でした。ところが中国人は違っていました。彼らはいつも中国語を話していました。ある日、街で前を歩いていた中国人の生徒がノートを落として、話に夢中で気がつかずに歩いていました。拾って追いかけていって渡したのですが、ノートを拾う時ノートの中身がチラッとみえました。漢字がびっしりと書いてあったのでびっくりしました。 
普段はジャッキーと遊べなくなりましたが、週末にはサムソンさんの農場に連れていってもらい、馬に乗ったり、魚釣りをしたり、家畜の面倒をみたり、乳搾りやバターつくりなど、いろいろなことをいっぱいさせてもらいました。自動車の運転も農場で練習をさせてもらいました。週末ごとにサムソンさんの農場へ行き、まだ家族の一員のようになっていました。

禁酒時代(1920年から1933年まで)


 私の少年時代は、あの有名なアメリカの禁酒時代と重なります。
 今でもよく覚えていますが、あの頃、私の家では夕食はいつも外食でした。昼間、両親は市内で洋服店を経営していたので、学校が終わると、市電に乗ってポートランド市内にある日本語学校へ通っていました。日本語学校で補習授業を終えてから、一日中働いていた両親と落ち合ってレストランで夕食を取るのが常でした。やはり、日本人だからどうしても米の飯が食べたくなります。主食がパンやポテトでは食べた気がしません。特に両親がそうでした。それで、いつも和食か中華のレストランに行きました。和食は淀川というレストランに決まっていました。木曽さんという人がオーナーシェフで、私たち家族は淀川の常連でした。注文した料理ができるまで待ちきれなくて、よくキッチンに行って料理ができる様子を見ていました。顔なじみだし私のことは小さい頃から知っているので、かわいがってくれてキッチンに入って見ていても何も言われませんでした。木曽さんや他の人たちが忙しそうに立ち働いているのを見ていると、面白くて空腹を一瞬忘れることができました。そうして見ていたら、そのキッチンには細工がしてあることがわかりました。何細工というのか、外からみると絶対開かないようにみえる木の小箱がありますね。ところが、どこかを押しながら決まった順番に、一辺ずつ押してずらしていくと開いてしまう、というあれです。キッチンの大きな柱に同じような仕掛けがしてあって、開けると中に蛇口がありました。顔見知りが来て日本酒を注文すると、そこから酒を出していました。柱全体が酒樽になっていたのです。ポートランドにいた日本の大工に作らせたのでしょう。そんな仕掛けなどアメリカの警官に見抜けるわけがありません。
 あの頃は、レストランも警察の手入れがあって、酒類をだしていると摘発されて罰金を払わされました。ところが淀川レストランには顔なじみの警察官もよく食事に来ていました。その警察官が、「例のあれを」などといって酒を注文していました。どこにしまってあるのか、見もしないし訊きもしないのです。自分が飲みたいものだから。
 同じ禁酒時代のことですが、親父が親しくしていたのはアメリカ人の刑事さんでした。その刑事さんは毎年正月になると、三日ほど泊まりがけで家に遊びに来ました。家に来る度に大きな箱を抱えていました。中には没収した酒が入っていました。それもヨーロッパから密輸で入ってきた高級酒ばかり。警察は没収した酒を全部処分せず、ローカルの密造酒だけ申請して処分し、密輸入の高級酒は処分しないで隠していたのでしょう。そうした酒を持ってきて、母の手料理のてんぷらやスキヤキを食べながら、飲んで食べて、歌って踊ってのパーティを三日ほど続けていました。日本人家庭ではふいに訪ねてくる白人の知り合いや、親戚などはいないので安心してそんなことができたからでしょう。日本人排斥があったので、親父としては刑事さんの知り合いがあれば何かと心丈夫、という計算もあったでしょう。禁酒だなんていったって、いいかげんなものですね。やっぱりみんな飲みたいものは飲みたいのだから。
この時はフーバー大統領の時代でした。フーバー大統領の禁酒時代がアメリカの歴史で酒が一番大きな問題となった時でした。禁酒時代だから誰も酒を飲まなくなったのだろう、と思ったらとんでもない、みんな飲んでいたのです。ただ密造などの悪い酒を飲むようになりました。密造が盛んになって、なかには質の悪いのがあり、そういうのを飲んで失明したり死んだ人がたくさんいました。メチルアルコールを飲んで、そのまま道路で行き倒れになった人もめずらしくなかったのです。いつも路上には倒れて動かない人が何人かいました。どの町にもそういう人たちがいたので、町外れにそういう人達やホームレスを収容する粗末なほったて小屋が建っていました。フーバー大統領の時代だったから、町の人たちはその建物のことをフーバー・ビルと呼んでいました。

13歳で取った運転免許


当時アメリカでは、通学用の免許証は13歳で普通免許証は14歳で取れました。
 なにしろアメリカの自動車産業全盛時代でした。13歳にならなくても、公の道路でなければ何歳でも運転できました。サムソンさんとジャッキーのお兄さんから、農場の私道で車の運転を教わりました。ジャッキーのお兄さんのロドニーに運転を習った記憶がある、ということは、彼はすでに免許をもっていたのでしょう。
 あれは13歳の誕生日を迎えた翌日でした。父の車を借りて警察署へ免許を取りにいきました。
 アメリカでは、日本のように教習所があるわけではなく、個人がそれぞれ練習して、大丈夫という自信がついたら警察署へ行ってテストを受け、受かれば免許証を発行する、というシステムでした。練習する場所は、農場や車のめったに通らない田舎道や住宅街のはずれなど、たくさんありました。
 父に借りた車は内装にマホガニーが使ってあり、車の先には銀で作ったギリシャの狩りの女神の飾りが付いている、ダイアナというモデルでした。銀の飾りはよく盗まれたのでその度に父は新しいのを付け直していました。フロントガラスは長方形で、スクリーンワイパーはまっすぐ垂直に端から端に移動するように出来ていました。
 最寄りの交番まで、この車を運転してテストを受けに行きました。免許のテストを受けるつもりで警察署に入っていくと、
「坊や、何しに来たんだね」と訊かれました。
「運転免許を取りに来ました」というと、相手はびっくりして、私を見直しました。なにしろ背の低い日系人のなかでも私はチビでした。
「13歳以上にならないと免許はとれないんだよ。坊やはいくつかね」
「ぼく、昨日で13歳になりました!」
「本当かね?」と相手はまだ半信半疑のようでした。
「ワシントンハイスクールの学生です」といって学生証を見せました。そうしたら、とにかく筆記試験を受けさせてくれました。交通規則のテストだけで、車の構造についてはありません。前もってよく勉強をして暗記していたのでスラスラと全部答えが書けました。一人の警官が答案用紙をチェックしている間に、もう一人が、
「じゃあ、運転実施のテストをしよう」といって、外に出ました。
「坊や、車はどこにあるのかね」と訊かれたので、父から借りてきた車を指さすと、驚いて私の顔をまじまじと見ながら、
「坊や、あの車を自分で運転してきたのか!」と叫びました。
「無免許でつかまらなくて良かったな」と言いながら、警察官は車のドアを開けました。運転席には10センチほど厚みのあるクッションが置いてあります。まだ体が小さいので、それに座らないと前がよく見えませんでした。運転席のクッションに座ると、警察官は心配そうな顔をして、
「坊や、本当に大丈夫なんだろうな、そこから前がちゃんと見えるかい?」と言いながら、不安そうに助手席に腰掛けました。
 道路に出て五分も運転すると、運転ぶりを見て警察官もだんだん解ってきたようで、緊張がとれてリラックスしたようでした。なにしろ一年以上もサムソンさんの農場で運転させてもらっていたので慣れたものでした。言われた通りに、バックで駐車をしたり、坂道で駐車をしたり、いろいろして十分もしないで警察署に戻ってきました。その時にはもうテストの採点が済んでいて、その場で所長さんのサイン入りの免許証を発行してもらいました。
 その時のうれしさといったら、なんと言えばいいのでしょうか、本当に天にも昇る心地でした。警察署からまっすぐジャッキーの家の前まで運転して行って、ホーンを鳴らすとジャッキーが家から出てきたので、運転席の窓を開けて免許証を振って見せました。ジャッキーとは、いつもいろいろなことで競争をして張り合っていたので、彼より先に免許を取ったので大得意でした。彼の口惜しがったことといったらありませんでした。


第4話 ポートランドの日系人社会


日系少年の夏休み


 私の少年時代はアメリカが最も不景気な時代でした。
 でも日系の子供たちは、夏休みにアルバイトのチャンスがありました。
 アメリカの学校は夏休みが長くたっぷり二ヶ月あります。日本のように宿題が出ることはなく、その間はスポーツをして体を鍛え、アルバイトをして社会勉強をしなさい、といってアルバイトは奨励されていました。ポートランドの日系の子供たちには、夏には毎年決まった仕事がありました。それは日系人が経営している農家の仕事でした。
 その頃の日系人が経営している大きな農家は本当に広かった。もう地平線まで届くか、と思われるほど広大で、耕したり植え付けたり、というのは機械でしていました。だけど夏になって収穫する時期になると、いちごなどの果物、野菜、ホップはどうしても人の手で摘み取らなければなりません。それで日系の子供たちが、そこでアルバイトができたわけです。
 補習校の日本語学校の友達は、みんな夏休みはそこでアルバイトをしました。それで私も一緒にアルバイトがしたくてたまらなかった。父に相談したら金に困っているわけではなし、そんなことする必要はないといわれました。金のためではなく日本語学校の友達がみんなやっているから、日本語の勉強にもなるし面白そうだからやらしてくれ、と説得してやっと許してもらいました。
 ポートランドの農家では、野菜はトマト、キュウリ、キャベツ、カリフラワーなどいろいろと栽培していました。果物はいちご、チェリー、木いちごなど、それにビールを造るときに必要なホップも植えていました。
 ポートランドは川向こうがワシントン州で、その向こうはカナダというアメリカの北部です。だからチェリーとか木いちご、ホップの栽培に適していてよく育つのです。
夏野菜やいちごの収穫はカリフォルニア州より少し遅く、ちょうど学校の夏休みにあたる時期になります。
 日系の子供たちは夏休みになると、着替えだけ持って泊まりがけで農家にアルバイトにいきました。報酬は日給や時給ではなくて出来高。とった野菜や果物を篭に入れて、それを大人に計ってもらって、その分だけお金をもらいます。一生懸命に早くやる子もいれば、のんびりとマイペースの子もいました。
 いちごを摘むときは、朝まだ暗いうちに起きて朝飯を食べいちご畑に行きました。畑に出ると、かすかに甘い香りがあたり一面に漂っていました。太陽が上がって日差しが強くなってくると、甘い香りがもっと強くなってきてむせるようでした。
 同じ年頃の子供たちが集まって仕事をするので、楽しかったですね。ただ、なにしろ真夏なのですごく暑い。広い所で日陰がない炎天下の作業です。すぐそばに川が流れていたので、暑さに耐えきれなくなると、みんな川に飛び込んでひと泳ぎしました。さぼるな、などと文句をいう人は誰もいませんでした。もちろんその間は、なにもしていないので金にはなりませんが、そんなことを気にする子もいませんでした。昼は農家で、にぎり飯などのランチを用意してくれました。夜は焚き火をして、肉やトウモロコシを焼いてのバーベキュー。みんなでわいわいがやがや言いながら夕食を食べるのがすごく楽しかった。畑のまわりには掘っ建て小屋がたくさんあって、夜は疲れて眠くなると、その小屋のワラの中にもぐり込んで寝てしまうのです。小屋はベッドもなくワラが積み上げられているだけ。もちろん毛布やシーツなどないし明かりもありません。けれど、みんな日の出るまえに起きて、日中働いたり泳いだりしているから、夕方腹がいっぱいになると、すぐ眠くなって起きていられませんでした。ワラの上に横になると、みんな直ぐに寝息を立てていました。
 ホップ摘みもよくやりました。ホップはぶどうと同じ蔦科の植物です。頑丈な30メートルほどもあるワイヤーが、地上3メートルぐらいの高さに張ってあり、その下に一メートルおきぐらいにホップが植えてあります。ホップの根本からは蔦が登っていけるように別のワイヤーが上のワイヤーに掛けてあります。ホップは薄緑色の平べったい松ぼっくりみたいな形をしています。そのホップを下から摘んでいくのですが、一二、三歳の子供で背が低いから上まで手が届きません。それで下から中程まで取りつくした頃に、大人が判断して横に張ってある太いワイヤーを降ろします。その時は大人が大きな声で「ワイヤー、ダウン!」と叫びます。その声を聞くと後ろに飛び退きました。横に張ってあったワイヤーが外れると、支えがなくなってホップの蔦がドサッと倒れてきます。重みがあって気をつけないと危ないのです。ワイヤーをダウンしたら、残りのホップを全部摘み取ります。ホップはタンニンが強いので、摘んでいる間に指先に汁がついて真っ黒になりました。ひと夏ホップを摘んでいるとタンニンが指に染みついて、元に戻るのに二ヶ月はかかりました。夏休みが終わって学校に戻ると、頭髪の黒い日系の子供たちは、前か後ろか見分けがつかないくらい真っ黒に日焼けしていました。
 農場では日系の子供たちの他に、フィリピン人の季節労働者も雇っていました。季節労働者はどういうわけか、みんなフィリピン人でした。彼らはカリフォルニアでいちご、葡萄と、だんだんと北上してきて、ポートランドではホップや木いちご、それが終わるともっと北に行ってアラスカの鮭缶工場、という具合にアメリカの西海岸を一年中、上がったり下がったりしていました。

母と椿油と大日本婦人会


 母は当時の日本女性にしては珍しく活動的な人でした。私が生まれる前のことなので、まだ30歳になっていなかったはずです。ロサンジェルスで父と洋裁店を経営していた1910年代に、カリフォルニアで大日本婦人会をつくった、といっていました。アメリカで初めておそらく海外でも初めての日本婦人会だったのかもしれません。
後にオレゴン州のポートランドに移ってからも大日本婦人会をつくって、いろいろと日本女性のめんどうをみていました。母は婦人会の会長だったので、会合の時などの諸経費を自分のポケットマネーでまかなった、といっていました。運営費がかかるのに会費は徴収しなかったのでしょう。出費が多いときは父に援助を頼んだようですが、その度に金を出してくれ、と父に頼むのが嫌で、何とかして自分で費用を作りたいと、いつも考えていた、ということでした。
 当時母は、キングという雑誌を日本から取り寄せていました。その雑誌を毎晩、寝る前にベッドで読むのが習慣になっていました。ある晩、キングを読んでいると、八丈島の椿油の記事がありました。それを読んでいて、椿油を輸入してアメリカに住んでいる日本女性も椿油が使えるようにしたらいいのではないか、と思い立ちました。というのは、当時の日本では洗髪の後や髪形を整えるときに女性は椿油を使っていました。それが海外では椿油が手に入らなくて、仕方なくオリーブオイルなど他の油を代用していました。だから、アメリカで椿油を販売したら日本女性が買ってくれるはずだ、と思いついて実際に商売を始めてしまいました。
 八丈島の椿油の記事を読んで閃きがあったとたん、すぐにペンをとって手紙を書いたということです。書き終わって、宛先の住所も名前もわからないことに気がついたが、島の一番偉い人に出せばよい、と思って日本国八丈島総督宛に出したら返事がきました。
「自分は以前から、八丈島の椿油を海外に輸出したいと考えていました。あなたのお考えには大賛成。まして海外にいる日本女性の役にたつのなら、こんなうれしいことはありません。さっそく島一番の良質な椿油を送ります。」と返事がきました。それからしばらくして石油缶に入った椿油が届きました。「これは純粋な絞りたての椿油です」と書いてありました。
 母は小ビンとレッテルをたくさん用意しました。それからは椿油を小瓶につめてレッテルを貼るのは、私の仕事になってしまいました。その分はアルバイトとして小遣いをもらいました。この良質な混ざりのない椿油は食用にも良いのです。てんぷらを作っても白くきれいに揚がりました。当時はよく椿油で揚げたてんぷらを食べさせられました。この頃、我が家のキッチンは油だらけでした。
大日本婦人会のメンバーの人たちがよく買ってくれ、思ったより早く売りさばけました。椿油といえば、当時の日本人はすでによく知っているので、宣伝してくどくど説明する必要はありませんでした。
 また注文したらポートランドではさばききれない程送ってきたので、シアトルの大日本婦人会にも送り、後にはワシントン州とカリフォルニア州の大日本婦人会にも売る権利を譲渡して少しは商売にもなったようです。といっても椿油のことですからたかが知れていますが、大日本婦人会の運営費ぐらいは十分まかなえたのでしょう。
 母はスピーチなども父より上手でした。父はポートランドの商工会議所の会長をしていた時もあったので、時々、会長としてスピーチをする必要がありました。その草稿は母が作っていました。父は時々家で夕食後にスピーチの練習をしていましたが、そういう時は、母がそばに付いて「あなた、ここで力を入れて」などとアドバイスをしていました。母は人前で話すのが大好きで、それも人数が多ければ多いほど張り合いが出るという、当時の日本女性としてはずいぶん変わった人でした。主婦よりは政治家に向いているタイプだったのかもしれません。

母とゴルフと藤原義江


 ついでに母の思い出話をもう一つ。
 母は1920年代の後半当時からゴルフをしていました。
 その頃、ポートランドの日本ゴルフ会のメンバーは全員男性でした。女性でゴルフをしたのは母だけだったので、女性のゴルフクラブの作りようが無かったのでしょう。男性のゴルフクラブに入れてもらって、紅一点でゴルフをしていました。コンペにも参加して二度優勝しています。もちろんハンディキャップがあってのことですが、まあまあプレーができたのでしょう。母の自慢話は「我等のテナー」として名声を博した藤原義江とゴルフをして勝ったことでした。
 当時、藤原義江はヨーロッパやアメリカで活躍する国際的なオペラ歌手でした。ある時、ヨーロッパからニューヨークを訪れて日本に戻る途中で、ポートランドに立ち寄ったことがありました。その頃、藤原義江はゴルフに凝っていたのでしょうか。ポートランドでゴルフがしたくてしょうがなかったようです。けれど日本ゴルフ会のメンバーの男達は、平日の昼間はみんな仕事をしています。青年達だってそれぞれ学校や仕事があって忙しい。世の中は不景気のまっただ中、いくら相手が藤原義江といえども、仕事を休んで昼間からゴルフするような日本の男はいませんでした。
 それで、母が「私でよかったら、お相手いたしましょう」と言って、かって出ました。藤原義江は、「女とゴルフか。仕方がないな、しないよりはいいだろう」という態度だったようです。ところが、母は彼を見事に打ち負かしてしまいました。彼は「女に負けたなんてコケンにかかわる」と言って、ものすごく悔しがったそうです。
 「この次には絶対に勝って屈辱をはらすから、必ずもう一度ポートランドに来る」
と言い残して日本へ帰っていきました。そして、本当に藤原義江はまたポートランドに来て母とゴルフをしました。その時は母が負けました。藤原義江は満足して、その後も渡米する度に、帰途にポートランドに寄ってゴルフをした、ということです。

「もし日米戦争が起きたとしたら?」松岡洋石外務大臣への質問


 1929年、ニューヨーク、ウォール街の株の暴落から始まった世界恐慌の影響で、1930年代の世界は激しく揺れていました。
 日本も大不況におそわれ銀行や会社がどんどん潰れていきました。都市では失業が、農村では凶作が庶民の生活を圧迫していました。貧困農作地帯では女衒による娘買いが横行し、彼女たちは東南アジアにまで売られてゆき、「からゆきさん」と呼ばれました。貧困と格差が広がる世の中で、行き場のない閉塞感は一部の若者を宗教、極端な思想やテロに走らせたようです。1932年(昭和7年)五月一五日に起きたテロ(後に五.一五事件と呼ばれる)では犬養毅首相が暗殺されました。
 中国大陸では、1931年(昭和7年)に満州事変勃発。満州にいた日本軍が奉天の郊外で鉄道爆破事件(柳条湖事件)を起こし、日本陸軍はこれをきっかけに戦線を広げていきました。翌年、日本はそこに満州国を建設。しかし1933年のジュネーブ会議で、リットン調査団が「満州国は日本が作った傀儡政権で民衆の意思で作られたものではない」と報告。満州国の存在は反対42、日本のみ賛成の42対1で否決されました。その結論に抗議して、日本の全権大使松岡洋石は席を蹴って退場。日本は国際連盟を脱退しました。この年ヨーロッパではナチス政権が成立しました。
 松岡洋石外務大臣は、ジュネーブ会議を退場して日本に帰る途中、アメリカ経由でニューヨークとポートランドに立ち寄りました。
 松岡洋石は1890年代、私の父親より10年ほど前にアメリカに渡り、青少年時代をポートランドで過ごした人でした。イザベル・ベバリッジという人に世話になって、苦学しながらオレゴン大学法学部を卒業されました。
 彼は、13歳の少年時代から世話になったご母堂同然のベバリッジ夫人が眠る墓地に、墓石を贈呈しました。その墓石の除幕式のために、ジュネーブからの帰りにポートランドに立ち寄りました。
 私はハイスクールの学生で13歳になっていました。
 除幕式には大勢の日系人が墓地に集まりました。なにしろポートランドに長く住んでいた日系人が帰国して、母国で外務大臣となったことだけでも大変なことでした。その彼が現役の外務大臣の時にポートランドを訪れたのですから、日系人にとっては一大事でした。私も母と一緒に除幕式が行われた墓地に行きました。
 その日の夜は16歳から21歳までの日系アメリカ人が加盟しているポートランド日系青年アメリカ市民の会が、特別ゲストスピーカーとして松岡さんを招待しました。私はまだ16歳になっていなかったのですが、聖書をもって講演を聴きに行きました。なぜ聖書を持って行ったかというと、松岡さんはクリスチャンで、ポートランドにいた時は、牧師さんが病気の時などは、ピンチヒッターとして教会で説教をしたぐらいの人でした。だから聖書を持って行って松岡さんにサインをしてもらおうと思ったのです。その夜、松岡さんがどういうスピーチをしたのか、残念ながら内容について記憶がないのですが、はっきりと憶えていることが一つだけあります。松岡さんがスピーチを終えて、
「では、何か質問がありますか? あったら何でも訊いてください」と言いました。一人の青年が手を挙げて、こういう質問をしました。
「もしも日米戦争が起きたら、我々日系人はどうしたらいいのでしょうか? 松岡さんのお考えをお聞かせください」
 松岡さんの答えはこうでした。
「もしも日米戦争が起きた場合は、あなたがたはアメリカ側に立つべきでしょう。あなたがたはアメリカで生まれ、アメリカで教育を受け、アメリカの法律で守られているアメリカの市民です。日本の武士道からいっても、あなたがたは当然アメリカのために戦い、アメリカに命を捧げるのが本道でしょう。それについては疑う余地はありません」
松岡さんが日本の武士道を例にあげ、そう答えたのをはっきりと憶えています。講演の内容はおぼえていないのに、なぜかこのやりとりだけは妙にしっかりと記憶に残っています。これは日本が真珠湾を攻撃する8年も前のことでした。当時、まだ13才だったので世界の出来事を新聞やラジオのニュースで知るぐらいで、国際情勢やその背後については解っていませんでした。しかし、その頃、すでに日本は中国に進出し、国内では五、一五事件があり、中国では満州事変が起きていました。それに対し、アメリカをはじめとする列国が日本を非難していた時でした。時代に敏感な青年は、あの頃すでに何かを感じ取っていたのかもしれません。
ただ、今でも、私には理解できないことがあります。それは、アメリカで青年時代を過ごしてアメリカ暮らしが長く、アメリカの産業、経済の実力を十分知っていたはずの松岡さんが外務大臣をしていて、どうして戦争が避けられなかったのか、ということです。なぜ国際連盟を脱退して日米の戦争突入の方に傾いていったのか。日本に帰国してから松岡さんが反アメリカになったのは、日本排斥が激しかったアメリカで、多感な青年時代を過ごしたことに関係があるのか。日本の外務大臣として、なぜ日米の衝突を避けようとしなかったのか、松岡さんは日本に勝利の可能性があると思っていたのか、では、なぜそう思ったのか、理解しがたいことです。

日系家族の親子の対立


 日本は1933年のジュネーブ会議で、満州国を否認されると国際連盟を脱退。その翌年にはワシントン海軍軍縮条約を破棄。1936年にはロンドン軍縮会議を脱退。軍備を拡大させていきました。
1936年、中国大陸では日本軍が満州から華北に侵攻。宣戦布告のないまま、翌年、上海、続いて南京を占領しました。
この時の様子が、そこに滞在していたアメリカやヨーロッパの一般人、牧師、ジャーナリストを通じて、ナンキン大虐殺として新聞、雑誌に写真入りで世界に大きく報道されました。この頃、テレビはありませんでしたが、映画館でニュース映画が放映されていました。日本軍が南京を占領した当時の様子を撮ったニュース映画はセンセーショナルな衝撃を世界に与え、日本非難の声が沸き起こりました。
しかし日本では、この頃すでに言論統制がしかれていて、日本のニュース映画は軍の検閲を通り、日本軍が承認済みのマークが入ったものしか上映できませんでした。新聞は中国での日本の勝利を華々しく伝え、むしろ戦争を煽っていました。日本の民衆は、中国で日本軍が何をしていたか、知る機会はなかったでしょう。
一方、1930年代後半のアメリカ日系人の家庭では親子の対立が起きていました。その原因は母国日本でした。
アメリカで育った二世たちは、アメリカの学校に通い、英語で教育を受け、英語の本や雑誌を読んでいるから、たとえ両親は日本人でも、複雑な日本語は解らないし、日本語の読み書きはほとんどできませんでした。英語を使う方がずっと楽だったのです。しかし親の世代は、アメリカに何年住んでいても英語の読み書きは苦手でした。日系人のほとんどは農家だったから、単純な英語の日常会話ができればことたりました。だから英語では簡単な手紙一通書けない人が多かったのです。それで一世たちは情報を得るために、日本から新聞、雑誌を取り寄せていました。しかしこの頃の日本の新聞、雑誌は、軍や政府から与えられた情報をそのまま流して、国民の戦意を煽り立てるような記事ばかりでした。日本の新聞では、日本は中国を植民地主義から守るために戦っているのだ、と報道していました。
しかし私が知る限りの日系青年は英語の新聞、雑誌を読み、ラジオを聴いていたから、世界や母国のニュースは英語を通して知りました。アメリカの新聞は、日本は中国を侵略していると非難して、ナンキンでの日本軍の残虐行為を写真入りで報道していました。親と子のニュースソースがまったく違っていたのです。
日本の新聞しか読まず、日本語の活字で書かれたものを信じて、疑おうとしない一世の親と、英語の情報がどんどん入ってくる子供との間に見解の相違が起きてきました。子は親を批判し始めました。アメリカの教育を受けアメリカナイズされてきた二世にとって、日本の教科書に出てくる修身や軍国主義は受け入れがたくなっていました。母国に関連したニュースが報道されるたびに、親子の意見が対立しました。
「日本は、なぜ、今、中国を侵略しているのか」とか「日本はどうして鎖国をしたのか」などと親に質問すると、「お前は何ということをいうのだ!」という怒りの声が返ってきて、日本を擁護する親と、批判する子供の間で言い争いが起きるようになりました。

アラスカの鮭缶工場


 15才になると私は直ぐに街の柔道クラブに入りました。
この柔道部では上級生たちが企画して15歳になった部員は、アラスカへアルバイトに行けることになっていました。親から許しが出た15歳以上の部員20人ぐらいが、毎年夏にアラスカの鮭缶工場にアルバイトに行きました。
アラスカの鮭缶工場というと、日本ではなぜか、すごく暗い印象を受けるようです。小林多喜二が書いた「蟹工船」という悲惨な状況を書いた小説があるからだ、と教えてくれた人がいましたが、私が行った鮭缶工場は悲惨な状況とは程遠いものでした。
 シアトルから船に乗ってアラスカまで行き、鮭の缶詰工場で働くのですが、前に行った人からいろいろと面白い話を聞いていたので、15歳になったら夏休みにはアラスカへ行く、と決めていました。日系の柔道部に入ったのも柔道よりもアラスカへ行きたい方が先でした。アラスカへ行くためには親の許可がいるので、父親に相談したらまた反対されました。親父にもいろいろと情報が入っていたのでしょう。その工場では日本の青年とフィリピンの季節労働者が働いていました。
「あんな連中と一緒にいたら、ろくなことを覚えないからダメだ」というのが理由でした。フィリピン人の男は女たらしのプレイボーイというのが、その頃の日系人の間で定評でした。だから女遊びでも覚えてくるのが関の山、とでも思ったのでしょう。
「ポートランドの15歳以上の日系柔道部員はみんなアラスカへ行くのに、ぼくだけ町に残っているなんて絶対に嫌だ」と言って、やっと許してもらいました。
 シアトルから船で5日ほどのカナダの国境近くでした。普通の観光旅客船なので、上部の一等や二等船室には着飾った乗客たちがいました。みんな白人の観光客でした。私たちは船底の大部屋でしたが、そんなことは全然気になりませんでした。
 アラスカの鮭缶工場には、工場以外何もありませんでした。だから米や野菜、卵を産ませるための生きたニワトリなどの食料品から、石鹸やトイレットペーパーまで、生活必需品すべてを船に積んでいきました。
 その工場が操業しているのは七、八月と夏の二ヶ月間だけで、あとの十ヶ月は誰もそこにいません。宿舎や食堂、風呂場、集会場、工場などの建物は、その間ずっと空き家になっていました。毎年八月の終わりに工場を去るときは、きちんと戸締まりをしておくのに、それがどういうわけか冬の間は周辺の森に棲む野生の動物たちに占領されていました。
 船が着いて荷揚げをすませたら、初仕事は、みんなで大声を出して鍋、釜などを、太鼓のように叩きながら建物にむかって行進していくことでした。こうして動物たちを追い出すのが仕事始めでした。別に動物に襲われるような危険はありませんでした。こちらのたてる音や動き、話声で、気配を察して動物たちはもうとっくに逃げ出していました。ただ、糞などの獣の臭いがものすごく強くて、建物の中は息ができないくらいでした。まずドアや窓を全部開け放って、糞などをシャベルで掻き出して、ホースで洗い流す大掃除をしました。それから米俵など、岸壁に置いてある荷物をそれぞれの建物に運び込みました。
 工場のオーナーはアメリカ人だと聞いていましたが、一度も見かけませんでした。白人はドイツ人のエンジニアが一人だけいました。機械の具合が悪くなった時に直しにくるだけで、オーナーやマネージャーには三回行った三年間で会ったこともありませんでした。働き手は日系の青年たちが20人ぐらいで、そのほかにフィリピン人の季節労働者が70人くらいでした。現場監督は全員一世の日系人でした。
 工場のある辺りに人家は無く、カナディアン・インディアンがいましたが、ずっと離れた所に住んでいました。視界の続く限りあたりは森でした。川や湖もあって、川には鮭がたくさん泳いでいました。紅鮭もいました。そこで初めて紅鮭を見たのですが、本当に体中真っ赤でした。森には熊や狼、アメリカ豹などの危険な動物がいたので、森の中に勝手に入って行くのは禁じられていました。鹿、狐、やまあらし、スカンクなどもいました。空にはいつも大鷲がゆっくり旋回していました。大昔のアメリカ大陸とあまり変わらない状態だったのでしょう。
 青年たちは22口径のライフルをポートランドから持参していました。当時のアメリカでは13歳からライフルの携帯を許されていたので、みんなライフルを持っていました。仕事が暇な時は現場監督から許可をもらって、グループで猟をしに森に入っていきました。ポートランドで先輩から熊うちに行く話などを聞いていて、早く15歳になってアラスカへ行きたい、とずっと思っていたので、念願がかなって満足でした。
 仕事は色々な種類がありました。なにしろそこには缶詰めの缶を作る工場までありました。缶詰の作業は、オートマティックと手作業のコンビネーションで、桟橋には鮭を工場に運ぶベルトコンベアーの施設がありました。工場内では鮭の皮を取る機械、輪切りにする機械、缶に詰める機械などが設置されていて、コンベヤーベルトが常に動いていました。
 船に乗って漁をするのはアメリカインディアンの男たちの仕事。彼らの家族、女や子供たちも工場の周りに二ヶ月の間移動して、テントを張った仮小屋に住んでいました。
 漁に出た船が毎日のように鮭を満杯に積んで戻ってくるピークは、だいたい二週間ぐらい。桟橋に船が着くと、何トンもの鮭がベルトコンベアーで工場に運ばれてきます。ほっておくと腐るので、その間はもう休む間もなく働いていました。あとは食べて寝るだけ。夜は疲れ果てて風呂に入るのもおっくうになって、ウロコだらけでベッドにもぐりこんで寝ました。仲間たちはこの期間を地獄の二週間と呼んでいました。15歳から20歳ぐらいまでの元気な盛りだからできたのでしょう。 
 食事はコックがいて三食ちゃんと作ってくれました。だけど、たまに肉が出るくらいで、あとは来る日も来る日も毎日おかずは鮭でした。いろいろ工夫してくれて、毎回変わった姿で出てくるのですが、鮭は鮭なんです。アラスカから戻ってしばらくは、鮭を見るのも嫌でした。スズコもよく食べました。当時は鮭の卵は全部捨てていました。それで誰かがほんの少しだけ取っておいて醤油づけにしました。けれど、ほとんど生のようでした。熱いご飯に乗せて食べると、まあ初めの二、三回は旨いと思ったけれど、毎日食べているとうんざりしてきました。
 広い食堂があってフィリピン人たちと一緒でしたが、テーブルは別々でした。八人ずつ四角いテーブルについて食事をしました。各テーブルには飯が一杯入った大きな入れ物が天井からぶら下げてありました。おかわりは自分で立ち上がって、自由によそってくるようになっていました。
 食堂の隣は風呂場で、日本人が作った日本式のゴエモン風呂が二つありました。一度に十人は入れるほど大きく、底は鉄板で筏みたいなのを底に沈めて入りました。日本人用とフィリピン人用と分かれていて、人数は日本人がずっと少ないのに大きさは同じなので、なんだかフィリピン人に悪いような気がしました。風呂はみんなが交代で沸かしました。もちろん薪を焚いて沸かすのですが、そのとき雑魚を串に刺して焼いて食べました。これが実に旨かった。鮭を積んだ船が着いたとき、鮭以外の雑魚も一緒に入ってきますが、そういった魚は全部海に捨てていました。その時、あれは確かニシンだったと思うのですが、取って置いてもらって、ちょっと塩を振っておきました。それを木の枝で作った串にさして、その日の夜に焼いて食べると、鮭よりよっぽど旨かったですね。15、16歳の頃は、いくら食べてもまたすぐ腹が減っていたのでいい夜食になりました。
 この鮭缶工場には郵便受けがちゃんとあって、不定期ですが手紙が届くようになっていました。手紙が届いた時は、郵便受けから手紙の束を取ってきてみんなに配ります。そこで面白いと思ったのは、フィリピン人には一人の男に複数の女から手紙が来ていることがよくありました。それも一カ所ではなくアメリカの西海岸一帯に広がっているのです。
「ずいぶんもてるんだね」と言ってひやかしたら、
「俺のワイフたちからさ」といって自慢げに手紙をみせてくれました。
 季節労働者として西海岸を上がったり下がったりしていて、各地に女がいたようです。それだけでなく彼女たちには、自分だけが彼のワイフだと思い込ませているのです。だからアラスカにいるときは、各地のワイフたちからいっせいに手紙が届くということになります。
親父がフィリピン人は女たらしだ、といったのはこういうことだったのかな、と思いました。彼らは自分たちのことを、女たちにはフィリピン人とはいわないでスパニッシュといっていました。皮膚の色もかなり白かったような気がします。
 彼らフィリピン人はお洒落でしたね。季節労働者は一般に肉体労働者ですが、働いていないときの服装に気を使っていました。服や帽子、靴など、スタイルにこだわっていました。アメリカの前は長い間スペインの植民地だったから、その影響なのか、スペインの男みたいな格好が好みのようで、体にピタッとあった服を着ていました。
 ポートランドでは休みになると父の洋装店に来て、バッシと決まったスーツを仕立てていました。父は彼らを敬遠していました。もちろんフィリピン人だからというわけではなく、客としてウルサイ注文をする連中だったのです。背広はありきたりの形が嫌いで、ちょっと差をつけたがりました。タックを多めに入れたり、折り返しを変えたりして、しかも体にピッタリしたのを着たがりました。だから作る方にしてみれば、かなりめんどうな客なわけです。体型も日本人とはちょっと違っていました。仕立て下ろしの背広を着ると、ピタッと決まって格好よかったですね。それを着てリュウとした格好で街にくりだして行きました。女には日本人には真似のできないほどあつかましいということでした。そういうことが平気で自然にできるというのは、根っからのプレイボーイだからだ、といわれていました。もちろん、フィリピン人の男がみんなそうだ、というわけではありませんが、遊び人が多かったのでしょう。
そうかというと、中には非常に熱心なクリスチャンがいました。機会をみては、説教をして信者になるよう勧める人もいました。お説教を聞かされるのが嫌で、そういう人からは逃げ回っていました。 
 鮭缶工場では、実に感心させられたこともありました。
 この鮭缶工場のオーナーはアメリカ人で、現場監督は日本人でした。そして従業員は全員組合に入っていました。アラスカ・カナリー・ユニオン、日本語ではアラスカ缶詰組合です。日系青年も年にたった二ヶ月間働くだけなのに、組合員になっていて、二週間に一回くらいの割合で集会があり、参加して後ろの方で聞いていました。
 一口にアラスカの缶詰工場といっても、色々な仕事がありました。缶を作ることから、魚の処理機械の操作、車やフォークリフトの運転、缶を箱に詰める仕事、コックに皿洗いなど様々です。その持ち場、持ち場で、技術や経験に応じて時給や日給が違ってくるわけですが、そういうことも組合の会合で決めていました。
 後ろで聞いていると、完全にイギリスの議会法に従って議事が進められていました。
議長から発言の機会を与えられると、これ、これこうだから、こうした方が良いと、とうとうと意見を述べていました。その人が話し終わるまで誰も邪魔はできません。みんな終わりまできちんと聞き、ヤジを飛ばす人などいませんでした。そうやって労働時間とか時間外手当とか、あそこはこうした方が良いとか、自分たちで変えたりして決めていました。それにはビックリさせられました。 
 とにかくたったの二ヶ月間でしたが、すごい社会勉強になりました。学校では学べないことをたくさん体験しました。当時の肉体労働者の労賃は一日一ドルが平均でした。日系青年たちは一日一ドル八十セントもらっていたから、残業手当を入れると二ヶ月間でかなりの金額になりました。けれど日系青年は、働いていた現場では払ってもらえませんでした。仕事が全部終わって帰るときに小切手をもらいました。だからポートランドの家に帰って、いったん銀行に持っていかないと使えない仕組みになっていました。私は自転車やタイプライターを買いました。タイプライターは最新式の一番高いのを買いました。
 ハイスクールになってからは、15歳までは日系の農場でアルバイトをしていたし、15歳になってからは、日系の柔道クラブの連中とアラスカの缶詰工場へ行っていたので、夏休みはジャッキーとは別々に過ごすようになりました。
 ジャッキーはそのことをあまり良く思っていなかったようでした。学校が終わってから日本語学校へ通うのは、日本語の勉強のためだから仕方がないとしても、私が夏休みまで日系人たちと過ごすようになったので淋しかったのでしょう。夏休みが終わって学校が始まったばかりの頃は、私に対して批判的でした。ちょっとマナーが悪かったり、変なことを言ったりしたりすると、日系二世と遊ぶから、そんなことを覚えるんだ、などと時々言うようになりました。けれど、すぐにまた元にもどってハイスクールを卒業するまで兄弟のように一緒に過ごしました。
1


第5話 シカゴ(1930年代後半)


将来の選択 オプトメトリスト(検眼医)


 17歳になってハイスクールを卒業する年に、店を継ぐ意志があるかどうか父に訊かれました。できれば父の仕事は継がないでいたいと思っていました。特に父の仕事が嫌だとか拒否していたわけではなく、そのまま後を継いでしまうのは、何か夢がないように思えました。しかし当時のアメリカ社会が、日系人に開かれていたわけではありません。能力と運があれば何でもできる、というわけではありませんでした。日系人がいくらアメリカ人だと自分では思っていても、同じ移民でヨーロッパ系の白人には帰化権があるのに東洋人にはありませんでした。もちろんアメリカで生まれれば自動的にアメリカ人になったのですが、政治、法律、経済界、大企業への就職の道は日系人には閉ざされていました。だから、いずれにしても個人業しかありません。父は医者か歯科医がいいのでは、という意見でしたが、どちらも今一つピンときませんでした。いったい何をしたらいいのか、自分でも解らなくて将来の道を決めかねていました。
 ちょうどこの頃、日系社会で名士として知られていたニュートン・ウェスリーというオプトメトリスト(検眼医)がポートランドにいました。この人は第二次世界大戦後にコンタクトレンズを世界中に広めた人で、日本のコンタクトレンズ開発にも非常に貢献した人です。本来の姓は上杉ですが、スペルがUで始まると知らなかった患者が、電話帳で連絡先を見つけ出せなかったことがきっかけで、ウェスリー(Wesley)姓を使うようになったということです。
 その上杉氏が、ポートランド大学付属のオプトメトリー専門学校の理事をしていました。それでオプトメトリー(検眼学)に興味を持ちました。普通オプトメトリーというのは独立した分野で大学付属ということはないのですが、ポートランド大学の場合だけ例外的にそうなっていて、オプトメトリーも大学の眼科の研究部門の一部として一緒に研究できるようになっていました。上杉氏がそのようにしたのだ、という話でした。当時のポートランドの日系社会では、ウェスリー上杉の名前を知らない人はいませんでした。そんな上杉氏への尊敬というか憧れのようなものがあったのでしょうか。もう一度父から何をしたいのか、と訊かれた時は「オプトメトリストになりたい」と答えました。そうは言ったものの、オプトメトリストとは具体的にどんなことをするのか知りませんでした。それでポートランドのオプトメトリストを何軒かまわって、どんなことをするのか、どんなカレッジがあるのか調べました。ほとんどのオプトメトリストはポートランドのカレッジを出ていましたが、一人だけシカゴのカレッジを出た人がいました。この頃シカゴといえば、ギャングのアルカポネの名前が全米にとどろいていた時でした。まだ一七歳だった私は、ちょっと面白そうなところだな、と思いました。それと、この頃ポートランドの日系人の中では、シカゴまで行った人の話は聞いたことがありませんでした。それでシカゴによけい魅力を感じました。自分でもなぜか家を離れてみたい、と思い始めていました。父には色々と取り寄せたカレッジの案内書を見せて、
「これだけ調べてみたけれど、オプトメトリーのカレッジは、シカゴの専門カレッジが一番いいらしいよ」と言いました。そうしたら簡単に
「では、シカゴのカレッジにしなさい」と言われて、シカゴのオプトメトリーのカレッジに行くことになりました。
ところで、私がオプトメトリーを学ぶきっかけとなった上杉氏の興味深いエピソードがあります。戦後日本でご当人から直接聞いたのですが、ここで話しておきましょう。

日系名士上杉氏、カレッジを譲渡される


 上杉氏はポートランドのオプトメトリー専門カレッジを卒業して直ぐにポートランドで開業しました。しかし開業したばかりの時というのは、そうそうお客さんがあるわけではなく、暇な時の方が多いものです。そんな時期に卒業したカレッジの校長から手紙が届きました。
 その後どうしていますか。あなたは開業したばかりで、たぶん暇で時間がたっぷりあることだろうから、午前中だけでもカレッジで教えてみませんか、という内容でした。それほど彼は優秀な学生だったのでしょう。
「教授になるためにカレッジに行ったのではありません。私は開業医になりたいのです」といって断りましたが、それにも関わらず、
「人手が無くて困っているので、是非教えにきて欲しい」と熱心に頼まれました。直ぐに返事をしないでいたら、ある日、突然、校長が自ら店に来て、受付のデスクの上にポケットから鍵の束を出して置きました。
「校長先生、何ですか、これは」
「見たとおり、鍵の束だよ。私のカレッジの」
「どうして、ここに置かれるのですか」
「君にカレッジを譲りたいのだ。受け取って欲しい」
「校長先生、どうかなさったのですか? 大丈夫ですか?」
 上杉氏は校長の頭が変になったのではないか、と思ったそうです。
「いや、実は、私はもう引退したいのだ。だけど後を継いでくれる子供もいない。だが、あのカレッジは私の努力の結晶だ。廃校にはしたくないのだ。だから君にカレッジを引き継いでもらいたい。金は要らない。君に献上するから運営を続けて欲しい」と言われました。
「引き受けてくれるね。では今日から君のカレッジになるのだから、一度、一緒に見ておこう」そういわれて、その場で店を出て、校長が運転する車に乗ってカレッジへ行きました。校長室や事務室など校内を案内されて一緒に見て回り、最後にずしりと重い鍵の束を手渡されて、
「さあ、今日からこのカレッジは君のものだよ」といわれました。
 しかし、上杉氏はもともとカレッジを経営するつもりはありませんでした。ただ、譲り受けた以上つぶすわけにはいかないし、なんとかしなければならなかった。それで、いろいろと奔走して、そのオプトメトリーの専門校をポートランド大学の付属にしてしまいました。それ以来、ポートランド大学ではオプトメトリーも大学の眼科の研究部門の一部になって、一緒に研究できるようになりました。上杉氏はそのポートランド大学付属オプトメトリー専門カレッジの理事になりました。ほとんど名前だけの理事だったようですが。

シカゴへ


 ポートランドからシカゴまでアメリカ大陸を横断するのに、汽車で四日かかりました。1937年のことです。
 カレッジに着いた日のことは今でもよく憶えています。入学手続きを済ませたあとで、寄宿舎の事務室のようなところに通されました。
 正面に大きなデスクがあってものすごく太った人が座っていました。まるで相撲さんが座っているみたいでした。生まれて初めてそんなに太った人を見たので驚きました。その人はその人で、入ってきた私を見てビックリして、あわてているような印象を受けました。
 互いに自己紹介をした後、両親のこと、ポートランドのことなどを問われて、少し話をしてから、カレッジの規則と寮生活の説明を受けました。その後、部屋に残されてだいぶ待たされました。しばらくして今度は別の人が来て、
「あなたの入学手続きと入寮手続きは終わりましたが、まだ部屋割りが決まらないので、明日の夜までには決めるから、今夜はとりあえずここのソファで寝てください」といわれ、その夜は事務室で寝ました。
 これは後でわかったことですが、カレッジ側は、それまで私が日本人だということを、知らなかったらしいのです。アルファベットで書かれた私の氏名からはなに人か解りません。イタリア人かスペイン人かもしれないぐらいに思っていたのでしょう。カレッジの事務局の人は、私が初めての東洋人だったので習慣などが解らないし、かといって、私だけを一人部屋にするわけにはいかないので、他の学生と同室にしてもよいものかどうか、困っていたらしいのです。それで学生に日本人と同室になってもいいか、直接訊いたそうです。そうしたら全員、同室になってもよい、という返事だった、ということです。当時アメリカの東部では、西部のカリフォルニアにあったような東洋人に対する偏見はほとんどありませんでした。それに若くて好奇心の強い連中が多かったので、同室になりたいといった学生もいたそうです。
 これはシカゴに来て、オプトメトリーの学生になって初めて解ったことなのですが、オプトメトリストというのは、ほとんどがユダヤ人でした。私が学んだ「イリノイ・カレッジ・オブ・オプトメトリー」では、教授は全員ユダヤ人で、学生は半分以上がユダヤ人でした。
 どうしてそんなにユダヤ人が多いかというと、昔は眼鏡の専門店というのはなくて、貴金属店が眼鏡も一緒に扱っていました。なぜかというと、プラスティックができる前は、眼鏡の縁は金属だったからです。それで貴金属店が眼鏡を扱い検眼もしていました。アメリカの貴金属店はほとんどがユダヤ人だったから、オプトメトリストにはユダヤ人が多い、ということになります。
 貴金属店と眼鏡店が分離した後、アメリカではさらに眼鏡と検眼が分かれて、検眼の方はオプトメトリーという眼科の専門部門となって、この分野を修得したオプトメトリストにはドクターの称号がつくようになりました。
 1930年代のアメリカでは、オプトメトリーというのは、まだ確立されていない新しい専門分野でした。

シカゴの上杉氏とコンタクトレンズ


 先にポートランドで上杉氏が学校を譲渡された話をしましたが、その上杉氏は偶然にもちょうど同じ頃にシカゴに来ていました。私はオプトメトリーを学ぶために、彼はシカゴで開業するために来ていました。当時、そういうことは知る由もなかったのですが、戦後、彼が度々来日し、私が通訳をして親しくなってから上杉氏からその頃の話を聞きましたので、当時のシカゴのことを少し話しましょう。

 シカゴにはオプトメトリー専門のカレッジがあったくらいだから、すでにオプトメトリストはかなりいました。そこに行って、ただみんなと同じように開業したのでは、シカゴという大都会にオプトメトリストが一人増えるだけのことです。
 ここで仕事をしていくには、他のオプトメトリストと同じようなことをやっていてはダメだ、何か、みんなと変わったことをしなければならない、と上杉氏は考えました。それで、ある案を思いつきました。 
 どのオプトメトリストも相性が悪いというか、どうしてもうまくいかない患者を一人か二人抱えているものなのです。いくらこちらが誠意をつくして、いろいろとやってみても相手は満足しないで文句をいうばかり、というやっかいな患者がいます。
 そういう患者を自分が引き受けたらどうだろう、と考えました。このアイデアを知り合った人に話して意見を聞いたところ、「それでは、あなたの方が優秀だといわんばかりじゃないですか。そんな新来者に自分の患者を回す人がいると思いますか」と言われました。そう言われて気持ちが一度はひるみましたが、いや、そうとばかりは言えないのではないか。とにかくあの患者は嫌だ、もう来て欲しくない、と思っているオプトメトリストが必ずどこかに居るはずだ。また、そういう患者はまったく同じことをしても、別の人がすれば納得する場合がしばしばある。やるだけやってみよう。そう決心しました。そして、上杉氏は実際にやり始めました。
 どのようにしたかというと、その頃シカゴではオプトメトリストの会合が定期的にありました。毎月どこかで定期集会が開かれていました。彼はどんな集まりにも必ず出席して、会の終わりの方で少し時間をもらい、
「あなたの患者のなかで、相性が悪いために手こずる患者がいたら、私を紹介してください。私は普通の患者よりそういう人に興味をもっており、これからそういう患者を主に診ていきたいと考えています。それと、コンタクトレンズに興味を持っている患者もぜひ私に回してください。私はコンタクトレンズを研究、制作しています」
と熱心に説きました。
 1930年後半の当時、こんなことを言うオプトメトリストはアメリカでも他にいませんでした。シカゴのオプトメトリー業界でウエスギの名前が少しずつ知られるようになりました。そのうちに患者がぼつぼつ回されてくるようになりました。うるさい難しい患者ばかりだったそうですが、彼はそういう人たちを上手に丁寧に扱ったのでしょう。だんだんと彼の良い評判が聞かれるようになり、他から回されてくる患者ばかりではなく、普通の患者と特にコンタクトレンズについて知りたい、という人たちが直接彼を訪ねて来るようになりました。
 上杉氏はシカゴでオプトメトリストとして成功の糸口を掴みました。
 太平洋戦争が勃発した時も、カリフォルニアなど西海岸にいた日系人は、収容所に強制連行させられましたが、この政策は他州にまで徹底されたわけではありませんでした。
 上杉氏にとって幸いだったのは、シカゴで開業していたために、ポートランドの収容所にいったん家族と抑留されたものの、短期間で単身釈放されて仕事が続けられたことでした。
 上杉氏とコンタクトレンズのそもそもの関わり合いは、彼が二十代のはじめに円錐角膜症という病気にかかったことから始まります。
 円錐角膜症は角膜が円錐状に出っ張ってくる病気で、そのままほっておくと失明します。 彼は、コンタクトレンズを被せることによって、出っ張りを押さえられるのではないか、と考えて自分の目で実験をしました。彼が考えたとおり、コンタクトレンズを被せることによって、その後も失明せずに視力を保ちました。 
 後に、上杉氏はプラスティックのコンタクトレンズを開発し、世界一のコンタクトレンズ会社を作ってコンタクトレンズを世界中に広めましたが、残念ながら、このことは日本ではほとんど知られていません。
 世界で最初にプラスティックのコンタクトレンズを考案したのは、カリフォルニアのケビン・トゥーイーという人でした。トゥーイーがプラスティックのコンタクトレンズの特許を申請したのと同じ頃、上杉氏も同じような申請をしました。10年にわたる特許訴訟の後、上杉氏はトゥーイーと法廷外和解に至り、彼から特許権を買い取りました。百万ドル以上の当時では莫大な金額だったということですが、彼は後に、それをはるかに越える収入を得たでしょう。 
 上杉氏はシカゴで、ジョージ・ジェッセンという教え子と二人でコンタクトレンズ開発の仕事を開始しました。ジェッセンは、もとはレンズの研磨や眼鏡の枠を作る職人でした。上杉氏は彼に「学費や生活のめんどうをみるから、オプトメトリーを学んでドクターの資格を修得してはどうか」と勧め、四年間彼のめんどうをみて、オプトメトリストのドクターの資格を取らせました。それから、上杉氏は自分の名前のウェスリーとジェッセンの名前をとって、ウェスリー−ジェッセンというコンタクトレンズの会社を作りました。それが後の、世界のマーケットシェア90%を占めるようになるコンタクトレンズ会社の始まりでした。
 第二次世界大戦後、上杉氏はアメリカで第一回世界コンタクトレンズ・シンポジュウムを開催しました。世界各地から参加者があり、日本からも眼科医が数名、私も出席しました。シンポジュウムは大成功をおさめました。
上杉氏は世界一のコンタクトレンズ会社を作って、コンタクトレンズを世界中に広め、事業に成功したというだけでなく、他のことでもいろいろと社会に貢献しました。
 そのうちの一つに、近視、遠視、乱視などの人でもパイロットになれるようにしたことがあげられます。それまでは、目が悪くて眼鏡を掛けている人はパイロットにはなれませんでした。それに対して上杉氏はアメリカで訴訟を起こしました。
 事故があった場合、眼鏡は外れることがあるが、コンタクトレンズをはめていれば外れることは滅多にない、二つ一緒に外れることはまずないから、眼鏡よりは安全である。だから視力に障害がある者でもコンタクトレンズをはめて矯正していれば、パイロットになる資格を与えるべきである、と訴えました。
 ちょうどその頃、飛行機事故が起こりました。眼鏡を掛けていた人の眼鏡は、どこかへ吹っ飛んでみつからなかったが、コンタクトレンズをはめていた人の場合は、コンタクトレンズは事故の起こる前の状態と変わっていませんでした。
上杉氏は訴訟に勝ってアメリカの法律を変えたのです。そして、彼は真っ先に自分でパイロットの資格を取りました。
この頃の上杉氏はアメリカで一番有名な日系人といわれ、テレビのインタビューなどにも時々出ていた、ということです。
日本でコンタクトレンズが広まる一翼を担ったのも彼でした。
戦後しばらくして、順天堂大学のある教授が日本で初めてコンタクトレンズの開発を始めた時、上杉氏はダンボール箱いっぱいの資料を何箱もアメリカから送って、無料でその教授に提供しました。彼は母国の役に立ちたかったのでしょう。

アーミッシュ村訪問


 最初の年は、アーミッシュの上級生と同室になりました。
 アーミッシュといっても日本では知らない人が多いと思いますが、宗教上の同じ生活信条を持った人たちが集まって、自給自足の共同生活をしているキリスト教の一派です。昔のままの生活をすることが良い、と自動車などの近代的なものを一切使わないで暮らしています。発祥の地はヨーロッパで確かドイツの辺りだったと思います。
 アメリカではオハイオ州にアーミッシュ村があって、同級生はそこからきていました。大学の寮では一年間、彼と同じ部屋で寝起きをし、最初の年のイースター・ホリデーは、彼と一緒にアーミッシュ村で過ごしました。
 普通学生たちはイースター・ホリデーには、家に帰って家族と一緒に過ごしますが、私の場合は家がポートランドだから、汽車で往復するだけでも八日もかかるので休みごとに帰るわけにはいきません。
「トミー、休みはどうするんだ」と訊かれたので、
「僕はどこにも行かないで寮で本でも読んでいるよ」と言ったら、
「じゃあ、よかったら僕の家に一緒に来ないかい」とさそわれました。
「ピッツバーグにあるアーミッシュ村のただの農場だけど、君にとっては珍しくて面白いかもしれないよ」
「それじゃあ」ということになって、その年のイースター・ホリデーはアーミッシュ村で過しました。
 行ってみて驚いたのですが村全体が整然としていて、どこもかしこも手入れが行き届いてきれいで清潔でした。絵や写真で見るモデル農場といった感じでした。個人の家は意外に質素なのに馬小屋などが大きくて立派でした。馬小屋というのは家畜の飼料だとか、農具などを収容するところでもあるのでかなりの面積が必要なのですが、なんだか住宅よりも大きくて立派に見えました。中もきちんとしていて掃除や手入れが行き届いていました。こういう建物も自分たちで建てたということでした。今度は誰それの小屋を建てるとなると村中総出で手伝って建てるし、住宅も同様ということでした。
 道は広いのに自動車は一台もありませんでした。その頃のアメリカでは子供でも十三歳になったら運転免許が取れたのですが、村ではみんな馬車を使っていました。電気もなくて明かりはランプで十八世紀そのままのような暮らしでした。男は大きな顎ひげをたくわえて黒い服を着ていました。女性はみんな長いスカートをはいていて、はじめはなんだかタイムマシーンで中世の世界に入り込んでしまったような異様な感じがしました。出会ったとたん、なぜか一瞬こちらが身構えてしまうような感じにさせられました。ところが、実際はとっても親切で人なつこくて好奇心にあふれた人たちでした。
 私のことはもう村中の評判になっていました。それまで日本人は見たことがなかったのでしょう。道を歩いていると「あっ、来た」という感じで、待ちかまえていたようなのです。わざわざ家の中から出てきて、
「さあ、どうぞ、中に入ってお茶を飲んでいきなさい」とか、昼に近いと「お昼を一緒にいかがですか」などといって、家の中に招き入れてくれました。ほとんどが農家なので食料が豊富でした。肉類は牛、にわとり、ぶた、七面鳥と種類もたくさんありました。それに新鮮な野菜や果物も豊富でした。イースターなのでどこの家でもご馳走をたくさん作っていました。遠慮しないで家の中に入っていくと、あれもこれもと色々と出してきてテーブルに並べ、これを食べてみなさい、あれはどうですか、と勧めてくれました。幸い食い盛りで、いくらでも食べられたので、向こうも喜んでくれるので、うれしかったですね。貴重な楽しい体験をさせてもらいました。

ユダヤ人の同室生


 二年目はプレル・ホックバークというユダヤ人の学生と同室になりました。
 彼と私だけが十七歳で入学して、ほかの学生はみんな年上でした。一番の年長者は四十歳でした。アメリカではあの頃からそうでした。一緒に入学しても十七歳から四十歳までの年齢差がありました。
 プレルに会うまでユダヤ人のことは何も知りませんでした。私の育ったオレゴン州はアメリカではユダヤ人の少ない州でした。学校中でユダヤ人は一人しかいませんでした。誰もユダヤ人に偏見などもっていませんでした。ユダヤ人に対して偏見があるということは聞いて知ってはいましたが、実際にそういう場面に出会ったことは一度もありませんでした。アメリカの西海岸ではアジア人、特に日本人に対する偏見が強かったのですが、ユダヤ人に対する偏見はあまりなかったと思います。ところが、シカゴに来て初めて知ったのですが、ここでは西海岸とは反対で、ユダヤ人に対する偏見が強くて日本人に対する偏見はまったく感じられませんでした。私が初めての日本人だったので、偏見の持ちようがなかったのでしょう。異質な者がたった一人の場合は、興味を持ち珍しがることはあっても、偏見まで発展しないようです。それが、数が増えてグループになったり、そのグループが有能で実力を発揮しだしたりすると、脅威を感じるのか、排除しようとする傾向が出たり、偏見が生まれてくるようです。
 私のいたカレッジでは、ユダヤ人のグループとそうでないグループと完全に二つに分かれていました。クラブ活動の場合など両方のグループから勧誘されて困りました。いつもユダヤ人のグループはさけていました。ユダヤ人が好きだとか嫌いだとかいう問題ではなく、ユダヤ人のグループに入ってしまうと、私一人だけが異質で孤立してしまうからです。
 ユダヤ人でない人たちは、ユダヤ人のことをジューと言いますが、ユダヤ人はユダヤ人でない人たちのことをゴイと言っていました。私はいつもゴイの方にいました。ゴイの方ではイタリア系、ギリシャ系、ドイツ系、フランス系などみなそれぞれ違うので、それほど違和感がありませんでした。それでグループに分かれる時は、いつもゴイの方に行きました。けれど一年間ユダヤ人の学生と同室だったので、その間にユダヤ人の習慣とか言葉とかを覚えました。一口にユダヤ人といっても、その中にまたいろいろとあって、ユダヤ人はみんな習慣が同じというわけではありません。とても厳しくしきたりを守っている人から、我々に近い人まで差があります。その差は同じ家族のなかにもあるようで、同室生のプレルは、母親の方がユダヤのしきたりを厳しく忠実に守る人で、彼も母親に従っていましたが、父親の方はわりあい自由にしていたようです。彼は「お父さんは豚肉まで食べる」といって、批判していました。
 ユダヤ語にコーシャという言葉があります。「清浄な食べ物」という意味で、ユダヤ人にとって食べ物はコーシャとコーシャでない物の二種類。厳格なユダヤ人はコーシャな物しか食べません。豚肉はコーシャではないので豚肉は食べません。海産物ではウロコの付いた魚がコーシャで、ウロコのない物はコーシャではない。だからウロコのないうなぎやアナゴ、タコ、イカ、エビ類はコーシャでない食べ物です。牛も上半身はコーシャですが下半身はコーシャではありません。シカゴや東海岸の都市にはユダヤ人が多いので、レストランもコーシャな物しか出さないコーシャ・レストランとか、普通のレストランでも「コーシャ、特別注文承ります」の看板を出しているところとありしました。
 私は一度、彼に悪いいたずらをしたことがありました。
 普通の料理とコーシャ料理と両方出すレストランに彼と一緒に入った時のことです。 私はポークカツレツを注文して、彼は子牛のカツレツを注文しました。
 出された料理を食べ始めてから、
「おい、ぼくのポークカツレツは子牛の味がするぞ! 君のはどんな味がする?」と言いました。すると彼はナイフとフォークを握ったまま、すべての動きをハタと止め、顔がみるみる蒼白になっていきました。
「ノー、ノー、そんなはずはない! ぼくの胃がコーシャでないものを受け付けるはずがない」と言いました。
 そんなことがあってから、彼は私とレストランへ行かなくなりました。それだけでなく、コーシャ・レストランだけに行くようになりました。それでもまだ安心できないと思ったのか、週末には必ずユダヤ教の教会に行くようになりました。そこの牧師さんとは知り合いだったので、その牧師さんに頼んで、そこで食事をさせてもらっていました。
 それくらいだから「お父さんはコーシャでないものまで食べる」と食べ物に関しては、父親に批判的でしたが、他のことでは良い父親として尊敬もしていました。
 父親から毎週一回、きちんと手紙が届いていました。お父さんが、こんなことを書いてきた、といって時々手紙を見せてくれました。
 いつも二頁びっしりと書いてあって、一頁はビジネスについて書いてありました。
 プレルのお父さんは貴金属店を経営していて、その近況が書いてあり、必ず次ぎに《こういうビジネスの話が持ち込まれているが、君だったらどうするかね》と質問していました。17歳の息子に。私は感心して、
「君のお父さんは、いつもこうやって君の意見を聞いてくれるの」と言ったら、
「いや、そうじゃないんだ。これはただの設問なんだよ。親父は僕に例題を出しているのさ、これは宿題みたいなもんなんだ」といっていました。
 宿題の内容は、小さいビジネスを売りたい、という話があるが買った方がいいかどうか、という問題でした。値段はいくらで、今の自分の資本金はいくらあって、銀行から借りた場合の利息はいくらで、今はインフレだが、とか細かい数字がいっぱい書いてありました。彼はそういう数字を考慮に入れて計算をして、こういう理由で買っておいた方がいい、という結論を出して返事を書いていました。
 すると次の父親からの手紙で、《あなたのこの前の返事はとても良くできていた。しかし、銀行に払う利息と、インフレーションの率を考慮に入れることを忘れませんでしたか?本来なら、これはこういうわけで、今は買い得ではないという結論が出るはずですが》というような返事でした。内容はもっと複雑だったかもしれません。私はびっくりして、
「君、いつ頃からこういうことをしているの?」 と聞くと、
「これに似たようなことなら七、八歳の頃からしているよ」という返事だったので、ますます驚いてしまいました。
 彼はシカゴのオプトメトリーのカレッジで、いつもトップの成績でした。子供の頃から年中こういうことをしていれば、普通の人はたちうちできないですよね。もちろん全部のユダヤ人の家庭がそうだというわけではないけれど、こういうことはユダヤ人の家庭では決して珍しいことではないようです。だから、ユダヤ人は商売が非常に上手。他の人がユダヤ人の悪口をいったり、偏見を持ったりするのは、こういうことができる、してしまう彼らに対して、羨望を超えて否定的な感情を抱いてしまうことに、原因があるのではないかと思います。

第二次世界大戦勃発


 アジアでは宣戦布告のないままに、中国大陸で日本軍が戦線を拡大していました。
1937年、北京郊外の盧溝橋で起きた鉄道爆破事件をきっかけに、日本軍と中国軍が衝突、これをきっかけに戦線は上海、南京へと広がりました。
日本国内では1938年に国家総動員法が成立。これにより国家は国民を徴用(徴兵、勤労奉仕など)し、民間会社や国民から物資を調達できることになりました。
1939年、日本軍は海南島を占領。中国大陸のモンゴルの国境近くでは、日本の関東軍とモンゴル・ソヴィエト軍が衝突、ノモンハン事件が起き、日本軍は多大な損害を出しました。
ヨーロッパでは、1939年、ドイツのヒットラー、ナチス政権がチェコスロバキアに侵攻、合併。続いてドイツはソヴィエトと不可侵条約を結んでおいて、直ぐにポーランドに攻め込みました。これに対しイギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。と同時に、ナチスがヨーロッパでユダヤ人を迫害しているニュースが伝わりました。ユダヤ人のヨーロッパ脱出が始まりました。
アメリカにいるユダヤ人は、ヨーロッパに親戚のいる者が多かったので、これらのニュースに神経を尖らせていました。私がいたカレッジでは半分以上がユダヤ人で、ユダヤ人同士はイーディッシュというユダヤ語を話していました。
 この頃、彼らは顔を合わすと、「ドイツから何かニュースが入った?」というのが、イーディッシュの挨拶代わりになっていました。
 日本はドイツと同盟国だったのですが、彼らの私に対する態度に変化はありませんでした。私が日本人だということを忘れていたのか、そんなことは意識もしていなかったようです。カレッジでは、私自身にも日本人という意識はほとんどありませんでした。

卒業


 四年間でオプトメトリーのカレッジを無事卒業してドクターの称号を授かりました。
 いよいよ開業することになるのですが、卒業を半年前にひかえて帰郷した時、父から将来の仕事について聞かれました。
「開業するには、オレゴン州でもカリフォルニア州でもどちらでもいいと思うが、お前の希望を言ってみなさい」といわれたので、
「東京でやってみたい」と答えました。父はびっくりして、
「どうして、また東京なのだ。お前は日本語もまともに話せないじゃないか」といって、私をまじまじとみつめました。
「言葉は勉強すればじき覚えられる。日本にはまだオプトメトリーという分野がないし、オプトメトリストは一人もいないそうだ。眼鏡屋さんが検眼しているそうだが、アメリカのように検眼をするための器械も技術を学ぶカレッジもない。アメリカにはオプトメトリストがたくさんいて競争相手も多いけれど、日本へ行ったら、おそらくぼくが最初のオプトメトリストになる。どうせするならそういうところの方が、やりがいがある。日本のためにもなると思う」と、まあ、たいそうなことをいったのです。
 それには母からのアドバイスもありました。母は出産や椿油の輸入、それから、私を連れての里帰りなどで、日本とアメリカを何回も往復していました。その度に、日本にはこんなに眼鏡を必要としている人たちが多いのに、なぜ、きちんと検眼をする人が一人もいないのだろう、と言っていました。それで私に、 
「アメリカにはオプトメトリストが沢山いるけれど、日本にはまだ一人もいない、あなたが日本へ行って開業したら新しい分野で母国に貢献できる」とアドバイスしてくれました。私もアメリカで、ただのオプトメトリストの一人として働くよりも、日本へ行ってパイオニアとして仕事をしてみたいと思いました。私の返事を聞いて、
「うーん、そうか」といって、父は腕組みをしていました。
 その時、父はおくびにも出しませんでしたが、後で母から聞いた話によると、私の返事を聞いてとても喜んだそうです。 
 あの当時、父のように明治時代にアメリカへ渡った日本人は、アメリカに移民はしても出稼ぎという軽い気持ちで出かけた人が多く、アメリカに骨を埋める覚悟で行った人は少なかった、ということです。ほとんどの人はアメリカで一旗揚げて、財産を作ったら日本に帰るつもりでいました。だから最初は無我夢中で働きました。それで生活の見通しはどうにかたつ、というところまでいっても言葉や人種的偏見の壁があって、一旗揚げて帰るほどの財産はとてもつくれません。そこで、では結婚して家庭を作ってひとまず落ち着こう、ということになります。相手はやはり日本女性ということで、ほとんどの男性が写真で見合い結婚をしました。私の両親も写真だけの見合い結婚でした。結婚して子供ができ、家庭という基盤ができて仕事にますます張り合いが出て、頑張って働いているうちに蓄えも増えてきました。この調子でいけば一財産できる望みもありそうだ、という頃になって、思ってもみなかった計算違いが出てきます。それは家族の問題です。一世の親たちは「アメリカに住んでいる日本人」のつもりなのですが、子供たちはもうアメリカ人なのですね。アメリカの国籍を持っているからというだけではなく、言葉にしても両親が日本人であっても、日本語よりは英語の方がずっと楽に話せるし、日本語の読み書きなんてできません。アメリカの学校で教育を受けて考え方もアメリカ人とあまり変わらない。日本のことを外国だと思っているのです。こうなることをさけるために、中には子供を日本の親類へ送って、日本で教育を受けさせた人もいました。日本語がおぼつかないくらいだから、二世には日本に帰るなんて意識はありません。親たちはそういう我が子をみて、日本に帰ることを諦めざるをえないわけです。
 こういう事情が一般的だったのに、私が日本へ行って開業したい、と言いだしたので父は、とてもうれしかったのでしょう。
「それでは、卒業したらすぐ母さんと日本へ行って、どこで開業したらいいか、下調べをしておきなさい。わたしはアメリカで仕事を続けて、お前の日本での仕事の見通しがついたら、こちらの家や店や車を処分して後からいくから、一足先に行きなさい」ということになりました。
 その「一足先」が、戦争を挟んで十年ちかくになってしまいました。お互い生きて会えただけでも幸運だった、といわなければならないでしょう。

 卒業式には母が来てくれました。
その帰郷の道すがらナイアガラへ行ったりして、二人で観光旅行をしながら十日ぐらいかけてシカゴからポートランドに帰りました。ところが後でわかったのですが、この旅行は、アメリカの秘密警察にずっと後をつけられていたのです。なぜ私がシカゴにいたのか、日本人親子がシカゴからポートランドまでどんな行動を取るか、調べていたのです。当の私たちはそんなことは全く知りませんでした。そんなことをされる心当たりがないので、露ほどの警戒心も持っていませんでした。
 母は日本とアメリカの間を何度も往復していたから、当時の日米の国力の差を十分承知していました。日本が中国で戦争をしていたことはもちろん知っていましたが、まさかアメリカやイギリスを相手に戦争を始めるとは思ってもみませんでした。だから大戦前夜といった状況の時に、私たち親子は日本でオプトメトリーを開業しようなどと考えてしまったのです。しかし、もしあの時日本へ行かなかったら、私たち家族はアメリカで収容所送りになっていたでしょう。そして私は日系青年としてヨーロッパ戦線でドイツと戦っていたかもしれません。アメリカ、日本どちらにいたとしても、日系人に襲ってきた戦争の大津波を逃れることはできませんでした。
 私たち家族は中途半端な日本の知識があったばかりに、間際になっても太平洋戦争の勃発を予想できませんでしたが、アメリカ側はちゃんと予測していたのです。それで私たちのような無邪気な家族にまで尾行をつけていたのでしょう。
 カリフォルニア州などの西海岸では、日系の漁師がラジオで天気予報を聞いていただけでも、日本からの特別な電波をキャッチしようとしていた、スパイ行為をしている、と非難されました。漁師にとって空模様は命に関わる大事な情報だから、それだけ真剣に耳を傾けます。その様子が特殊な電波を聴き取ろう、としていたように見えたのでしょう。だから「真珠湾奇襲攻撃」といっても、何も知らずに平和に暮らしていた国民を、寝耳に水と言う状態で不意に襲った、というのとは事情が少々異なると思います。通告が遅れたことは確かでした。それをアメリカは、国民を一致団結させ、戦意を高揚させるために十分に活用しました。
 ポートランドに戻ってからは、三ヶ月ほど日本へ行く準備にかけました。
 日本は中国と戦争をしていて物資が不足していると聞いていたので、持って行ける物は何でも持って行くことにしました。オプトメトリーに使う器具はもちろんですが、家具もポートランドの日本人の大工さんに手伝ってもらって、ベッドやソファまで箱詰めにしました。箱に使う板も日本へ行ってからも使えるようにと、わざわざ水に強い船舶専用の板を買って作りました。日本に着いてから税関で調べられる時、箱を壊さないで開けられるように、クギを使わないで全部ネジ止めにしました。家具だけでなく下着や石鹸まで、二、三年も使えるくらい詰め込みました。米もカリフォルニア米を五十俵も用意しました。だから準備に三ヶ月もかかってしまいました。
 いよいよアメリカを発つというとき、育ての親ともいえるジャッキーのお母さんは、私を抱きしめて、「トミー、日本へ行かないで! もう、二度と会えなくなるような気がする。あなたが日本へ行ったら、首を切られるような目にあうかもしれない。もうこれっきり生きて会えないような気がする。行かないで!」と目に涙をいっぱいためて言いました。
 私の父も明治時代に日本を出る時、「行かないで」と祖母に泣いて止められたということでした。






第6話 軍国日本


特高に睨まれて


 母と横浜港に着いたのは太平洋戦争が始まる一年ほど前。十才の時に母と一緒に来て半年滞在して以来、二度目でした。
 中国と戦争をしていて食糧不足だから、ということで衣類や家具の他にもカリフォルニア米の米俵を五十俵持参したのですが、これが原因で横浜の税関でひと悶着ありました。日本には米を持ち込めない、ということを知らずに持って来てしまったのです。
「米は一粒たりとも持ち込めません」と税関でいわれました。
「では、この米はどうするのですか」と母が訊くと、送り返すという返事でした。
「送り返すといっても、送り主はわたしらで、アメリカに受け取る人はいません」というと、困ったようすで、
「処分する」といいました。
「処分するとはどうすることですか。海にでも捨てるのですか」というようなやりとりが、母と税関の人との間でありました。米のことは諦めることにして、ひとまず東京の借家に落ち着きました。
 それからしばらくして、突然、税関から、
「米を引き取りに来るように」という電話がありました。税関でも処分に困ったのでしょう。日本人には米を捨てる、ということはできないのでしょうね。かといって自分たちが勝手に収得して横流しする、というようなことは当時の正直な日本人にはできなかったのでしょう。処分に困って持ち主に引き取らせることにしたのではないでしょうか。
 この時は、米をめぐって将来日米間で貿易摩擦のような問題が起こるとは、夢にも思いませんでした。米俵はトラックを雇って家まで運びましたが、廊下に積み上げてもまだ置き場がなくて、近所の人に挨拶に行くときに持って行き、知り合いの人にあげました。当時、米は配給制で制限されていたのでとても喜ばれました。もしかしたら、あの米は日本に初めて大量に持ち込まれたカリフォルニア米だったのかもしれません。
 世田谷に家を借りて仮住まいを始めました。日本の生活に慣れていない母を助けるために、田舎から祖母が上京して一緒に住むことになりました。兄は徴兵されて軍隊にいましたが、休暇が出た時は東京の私たちの家に帰ってきました。
 東京の第一印象は意外にアメリカナイズされているな、というものでした。銀座に出るとジャパンタイムズという新聞社がありました。ワシントン靴店というカタカナの英語名の靴屋さんがあり、ダンスホールとかカフェなどがあって、ランデブーなんていう名前がついて、音楽もクラシックやジャズが流れていました。
 日本に着いたばかりの頃は、まだ東京の映画館ではヨーロッパやアメリカの映画を上映していました。アメリカ映画では「駅馬車」など、ヨーロッパ映画ではフランスの「望郷」、ナチスドイツの宣伝映画「民族の祭典」、「美の祭典」なども上映されていました。野球にも人気があって、ちょっと意外な感じがしました。
 服装も東京では男性は背広を着ている人がたくさんいました。学校の制服もみな洋服でした。それにもかかわらず、母がアメリカから持ってきた長い毛皮のコートを着て歩いていると、すれ違いざまに「非国民!」と罵倒する人がいて、するどい視線で振り返って見る人がいました。日本は1931年の満州事変以来、中国との戦争が続いていて物資が不足し、「贅沢は敵」というスローガンが叫ばれていました。
 母はどこへ行っても、そこの状況に合わせて自分の信条や生活態度を変える、ということをしない人でしたから色々なことがありました。
 あれは日本に着いて間もない頃でした。
 用事で母と一緒に区役所へ行きました。たぶん住民登録か何かの件だったのでしょう。長い間待たされて母の番になった時、窓口の係りの人が横柄な態度で書類をめくりながら、「なんですか」といいました。アメリカだったら相手の目を見て、「キャン アイ ヘルプ ユー、マダム(何をいたしましょう?)」というところです。それを長く待たされたあげく、顔も上げないで「なんですか?」といわれて、母はカッとなったのでしょう。それには返事もしないで、他の窓口へ行って、
「区長にあわせてください。区長室はどこですか?」といいました。
 その頃の日本婦人はたいがいモンペをはいていましたが、母はスカートで毛皮のコートを着ていました。様子の変わった人のケンマクに押されて、いわれた人は母を二階の控え室に案内しました。偉い人の愛人か二号さんとでも思ったのでしょうか。しばらくして区長さんが部屋に入ってきました。
「どんなご用件でしょうか?」と丁寧に訊かれて、
「下の窓口の人は人の顔も見ないで、なんですか、とは非常に失礼な態度です」といいました。区長さんは驚いて、
「失礼ですが、どなた様でいらっしゃいますか?」と訊きました。
「誰でもいいではないですか。私は一市民で納税者です」と母は答えました。
 母がそれまで日本国に、税金を払ったことがあるのかどうか知りませんが、アメリカでは、きっとかなり払っていたのでしょう。私は側でハラハラし通しでした。
 その日はそれで済んだのですが、翌日、四人の私服の秘密警察、特高というのですか、その人たちが来て家中を調べていきました。「どんな本を読んでいるか見たい」といって、本棚の本を一冊ずつ調べました。
「役所に来てあんなことを言うなんて、とんでもない女だ。あれは気違いか、でなければアカじゃないか」とでも思ったのでしょう。母は動揺した様子もなく、
「どうぞ、全部見ていってください」といって、家の中をぜんぶ見せていました。私は本当にびっくりしましたが、母は平然としていました。
 それから間もなくでした。サーベルを下げた近所の交番のお巡りさんが、家によく来るようになりました。
「奥さんはアメリカに長い間いっとったそうですね。どんなところですか。良いところでしたか。話を聞かせてくださいよ」などといっては玄関で話こんでいきました。ある時など、
「奥さん、卵を産むニワトリをあげましょう。養鶏場に手づるがあるので手に入れられますから、今度来るときに持って来ます」と言って、「昼間はちょっと目立つので」と、わざわざ夜にニワトリを二羽届けにきました。それからは、「ニワトリはどうしているか」、「卵は産んでいるか」と言ってはしょっちゅう来ていました。こいつ、変なヤツだな、母に気があるんじゃないか。おかしなことにならないようによく見張っていよう、と思いました。ところが実は逆で、この巡査は私たち親子の言動を見張っているように、命令されていたようでした。

痛恨の講演会


 私はまず日本語を覚えるために早稲田大学の国際学部に入学して、日本語の勉強を始めました。同時に、頼まれて近所の子供に英語を教えました。どこから聞いてきたのか、「ずっとアメリカにおられたそうで英語がお上手でしょう。うちの子供に英語を教えてやってください」といって、子供さんを連れてきました。ほんの少数の人でしたが、あの頃でも英語教育に熱心な親がいたのは意外なことでした。
 肝心のオプトメトリストとしての開業の方は、まだ何の見通しもたちませんでしたが、ある日、母と一緒に銀座の松島眼鏡店へ行きました。母がつてを通して話をつけておいてくれたのです。
「はあ、この方がアメリカでオプトメトリーとかいうものを勉強された先生でいらっしゃいますか」といわれて、私は検眼について少しだけ話しました。といっても、日本語はまだおぼつかないので、ほとんど母がしゃべっていました。
 その頃、日本の検眼の分野は非常に遅れていました。レンズは遠視と近視だけで、乱視は無く、検眼法も壁に貼った紙の文字と記号を読むだけでした。松島眼鏡店の人は、「ぜひもう一度いらして、他の人にも話を聞かせてやってください」と言ったので、「ええ、いいですよ」と、気軽に返事をしたのはいいのですが、これが大変なことになりました。せいぜい二、三人に、プライベイトに話すのだろうと思っていたのですが、当日行ってみたら別室が用意してあって、中には三十人くらい東京の眼鏡屋さんが集まっていました。そうとわかっていれば、それなりの準備をして行ったのですが、もう後の祭りで、度胸を決めて話をする以外ありませんでした。とにかく検眼について話を始めましたが、まだ日本語がただでさえおぼつかないのに、検眼について話をするのは無理なことでした。目についての専門用語を使わないと説明できないことが山ほどあるのに、日本語でなんと言うのか知りませんでした。というよりは、日本語に検眼に関する言葉がなかったのです。だから訳すことも出来ませんでした。本当はわかりやすい日常の言葉を使って説明すればよかったのですが、その頃の私の日本語ではとても無理でした。仕方がないから専門用語は英語をそのまま使って説明したので、半分以上が英語になってしまいました。それまであんなに冷や汗をかいたことはありませんでした。
この時、私の話を聞いてくれた人たちに戦後何年か経って再会しましたが、「あの時の話はさっぱりわからなかった」と言われました。 

徴兵検査


 あと一か月で二十一歳になる、という時に日本にきましたが、来てしばらくして私宛にハガキが届きました。母が留守の間だったので何のことか解らず、そのままほっておいて夕方母が帰ってから見せました。「明日、徴兵検査がある」ということがわかって、「さあ、大変だ」といって、大あわてで前の晩に準備をしました。しかし徴兵検査をする、といわれても何のことかよくわかりませんでした。令状には、下着は越中ふんどし、頭は丸坊主、印鑑持参のこと、と書いてありました。ところが、その時はまだ印鑑が家にはありませんでした。それで夜中にはんこ屋さんを起こして、三文判を買ってきました。その間に祖母が「ふんどし」を作ってくれました。「ふんどし」とは、男が身に付けるパンツのような物、とは知っていましたが、どのようにして身につけたらいいのか知りませんでした。祖母が「付けてみなさい」といったので、僕はまず前を隠そうとして、前掛けみたいに前に下げて結んだので大笑いになりました。頭の髪は長いままだったので、といっても今でいう長髪ではなくて、せいぜい三、四センチの普通の大人の髪型だったのですが、翌朝早く床屋さんへ行って、生まれて初めてバリカンで丸坊主にしてもらいました。印鑑、ふんどし、丸坊主と家中で準備に大騒ぎをして徴兵検査に行きました。
 行ったらこれがまた初めての異常な体験でした。とにかく言葉がよく解りませんでした。普段、家で使う日常の日本語の会話は、だいたい理解できるようになっていましたが、軍人が使う命令口調はまた別の日本語のように聞こえました。その上、なぜかみんな大声で怒鳴っていました。普通の口調で話す人は誰もいなくて、みんな大声の命令口調で怒鳴っているので、声が部屋中にこだまして、ますます混乱して何も解らなくなってしまいました。たぶん「キサマ!それでも、日本人か!」などと怒鳴られていたのでしょう。初めての異様な体験なので気持ちが動揺してしまい、よけい言葉が理解できなくなっていました。何か怒鳴られているのは解るのですが、どうしたらいいのか、わかりませんでした。
「お前は、日本語がわからんのか!」
と怒鳴られて、この時は初めて何を言われているのか理解できました。その時、パスポートも持ってきていたので、それを見せて、二ヶ月前に日本に来たばかりだ、と一所懸命説明してなんとか解ってもらいました。
「なんだ、そうか」といって、その場はそれで許してくれました。
次の部屋で身体検査を受けました。この時は他の人の様子を見ていれば、だいたい何をすればいいかわかったので、あまり問題はありませんでした。体格は私が一番良かったようです。胸囲なんか計る紐が足りないぐらいでした。
「アメリカで、何、食ってたんだ」と言われました。
この身体検査では、素っ裸になって肛門の検査までされました。いろいろな人に怒鳴られ怒られて、屈辱的な調べが終わりました。最後に別の部屋に行って、裁判官のように少し高いところに座っている、軍服を来た偉そうな人の前に連れていかれました。その人は一人ずつ名前を呼んで兵隊の階級を言い渡していたのです。名前を呼ばれると、その人の前に行って、直立不動の姿勢で言われたことを復唱し、「自分は何々に合格しました」といって、敬礼して部屋を出る。ところが、私の番になってその人の前に出たのはいいのですが、その人の言うことが速すぎてよく聞き取れませんでした。「第三、乙、第二補充、合格」といわれたらしいのですが、今までに聞いたこともない言葉で意味も解らなかったので、何回言われても上手く復唱出来ませんでした。ゆっくり区切っていわれて、やっと復唱できたのですが、なんのことだかさっぱり解りませんでした。最後に、
「日本語を勉強して来年また検査をうけろ」と言われました。言われたことを一生懸命暗記して、部屋を出るなり紙にローマ字で書いておきました。家に帰って一時帰郷している兄に訊くつもりでした。兄に見せると、「第三乙、第二補充」、「お前、兵隊に行かなくても大丈夫だよ」といわれました。
 しかし、しばらくして「教練」というものに呼び出されました。
 教練では、ゲートルの巻き方、敬礼の仕方、木の鉄砲をかついで行進の仕方などを訓練しました。近くの中学校の校庭でしましたが、みんな一四、五歳の子供たちで私だけが大人でした。この教練が本当に嫌で、嫌でたまりませんでした。けれど、嫌だからといってしないわけにはいきません。子供たちに混じって仕方なくやりましたが、この時、どうしても兵隊にだけは絶対になりたくない、と思いました。それと同時に、いったい自分は何のために日本へ来たのか、と思わずにはいられませんでした。
 兄はもう何度か召集されて、中国のどこかの駐屯地へ行っては戻ってきていました。その兄から軍隊の話しを聞かされました。
 天皇陛下のお言葉、とかいう長い文を暗唱しなければならなくて、途中でつかえたりすると、往復ビンタをくらうとか、新兵が入ってくると「しごき」というリンチを受けて、もの凄くいじめられる、大切に育てられた気の弱い人の中には、二週間くらいで自殺するものがでるとか、新兵が便所に入ってなかなか出てこない場合は、自殺している場合があるとか、いろいろと聞かされました。私のように言葉がよく解からないアメリカ育ちの新兵が入ってきたらどんなめにあわされるか、言わずとも知れたことなので、軍隊にだけは絶対に入りたくないと思いました。 

太平洋戦争突入


 早稲田の国際学部に通いはじめて半年以上経ち、日本語もだいぶ解るようになってきていた時でした。
 ラジオで昼のニュースを聞いていたら、「日本帝国海軍は米国真珠湾攻撃に成功、米英に宣戦を布告」、と言っているようでした。
 1941年12月8日のことでした。
にわかには信じられなくて、聞き間違えたのだろうと思いました。他の人に訊いてみたら、確かにそうだといわれたので本当に驚きました。これは大変なことになった、どうしよう、と思いました。日本はムチャクチャにやられて直ぐに負けると思いました。もう翌日にはアメリカからの空襲があると思ったのです。
 私はアメリカで洋服の仕立て屋の倅でした。それも従業員四、五人の洋裁店です。友達のジャッキーは市電の運転手の息子でした。当時のアメリカでは不況だ、なんだといっても、洋裁店主や市電の運転手の息子が、余暇に農場へ行き、一三歳やそこらの子供が免許を取って車を乗りまわしている、という国だったのです。そんな国を敵にまわして戦っても勝てるはずがありません。
 私は「明日、アメリカが空襲に来るよ!」と叫んで、庭に飛び出してスコップで夢中になって防空壕を掘りました。本当に翌朝には空襲がある、と思いました。それまでに防空壕を作らなければと、死に物狂いで夜中までかかって、やっと家族が入れるほどの大きさの防空壕を掘りました。休む間もなく穴堀りをしたので、掘り終わったら先のことを心配する間もなく、疲れ果ててぐっすりと寝てしまいました。
 翌朝起きて防空壕を覗いてみたら、水がいっぱい溜まっていました。近くに地下水脈でもあったのでしょうか。
「これじゃ、爆弾が落ちてくる前に水死しちゃうね」といって、笑ってしまいました。
 幸いその日、空襲はありませんでした。その翌日も翌々日も、翌週も、翌月にも、なにも起こりませんでした。おかしいな、アメリカは一体何をしているのだろう、と不思議でなりませんでした。

 これは、ずっと後になって父から聞いたことですが、日本が真珠湾を攻撃した時、アメリカは12月7日、日曜日だったので父はゴルフに行っていました。
 午前中ゴルフをして、ゴルフクラブの食堂で昼食を食べ終わった時でした。
 ラジオで日本が真珠湾を攻撃したというニュースを聞きました。
 これは大変なことになった。これからいったいどうしたらいいのだろう、ああ、どうしよう、どうしよう、と思うだけで、頭の中が真っ白になって、どうしたらいいのか見当もつかなかったそうです。それで家に戻る途中で映画館に入りました。人目をさけて暗いところに座って考えようと思った、といっていました。何の映画を上映していたのか全く記憶になくて、何も考えられず、そのうち映画が終わってしまいました。仕方がなく外に出たら、知り合いの警官が表で待っていました。
 父には刑事や警官の知り合いがたくさんいました。知り合いの警官は、
「ジョージ(父はアメリカではジョージと呼ばれていました)、なぜ、私が今ここに立っているか、あんたはわかっているだろう」
「ああ、だいたいの見当はつく」
「車はどこに置いてあるのかい?」
「あそこに駐車してある」
「じゃあ、ついて来てくれ。私はあんたを警察所に連行しなければならないんだ、悪く思わんでくれ」
 そう言われて、彼の後について運転して警察所に行ったら、もう中は日本人会の役員の連中でいっぱいでした。
 ということは、もし戦争が起きたら商工会議所、日本人会の役員、学校の先生、牧師とか、日本人コミュニティーのリーダー格の連中をすぐ逮捕するように手はずができていた、ということでしょう。
 父はそこで取り調べを受けました。部屋に入って行ったら、調査官のデスクの上には三センチほどの厚さのレポートが置いてありました。
 日本ではどこで生まれて、どこの学校へ行ったか、アメリカに来るまでに日本で何をしていたか、アメリカにはいつ来てそれまで何をしていたか。家族のことも全部調べてありました。私がシカゴのオプトメトリーのカレッジを卒業して、シカゴからポートランドに母と一緒に帰ってきた道中のことも、どのホテルに何泊して、どこでなにをしたか、そんなことまで全部レポートしてあったそうです。
「奥さんと子供は、いまどこにいますか」と訊かれて、
「昨年から日本に行っています」と答えると、
「では、あなたは、やはりアメリカと日本が戦争をすることを知っていたのですね」と言われたので、
「もし、知っていたら私も一緒に日本へ行っていたでしょう。今日のような日にゴルフに行ったりしません」と返事をしたと言っていました。
 それからすぐに、父は家と店と車を処分しなければなりませんでした。事情が事情だったし、買う方もそういうことは全部承知しているので、買いたたかれて、市価の四分の一以下の値段で売らねばなりませんでした。
二ヵ月後には、他の商工会議所や日本人会の役員の人たちと一緒に、軍の基地内のキャンプに収容されました。父の話しでは、待遇は悪くなかったそうです。当時の写真を見ましたが、皆こざっぱりとした格好でゴルフもできたそうです。父は嫌な思い出は、息子に話したくなかったのかもしれませんが、同じ日系人でも、収容所に入れられた人と入れられなかった人がいるし、待遇も収容所によって、かなり差があったようです。
場所は終戦になるまでに三回移動させられて最後はニューメキシコでした。
 ある日、突然大きな爆音がしたので音のした方角を見たら、空に閃光が走って明るくなるのが見えました。あれはいったい何だろう、とみんなで話し合ったそうです。
 たぶん、それが最初の原子爆弾の実験だったのでしょう。
もし私もアメリカにいたら、父と一緒に収容所に入れられていたでしょう。

日本が真珠湾を攻撃した二ヵ月後に、ルーズベルト大統領は「大統領行政命令9066号」に署名しました。この行政命令9066はアメリカの日系人には、忘れがたい忌まわしいものとなりました。なぜなら、これによってアメリカの西海岸沿いに住む日系人は敵性外国人とみなされ、強制収容所に送り込まれたからです。強制収容所に連行された人の半分以上は、アメリカで生まれた二世を含むアメリカの市民権を持っている人たちでした。これはアメリカの憲法に違反します。ただこれが適用されたのはアメリカの西海岸沿いの州でした。シカゴにいたオプトメトリストの上杉氏もそうでしたが、東部にいた少数の日本人は収容所で過ごさずにすんだ人もいます。このあたりがアメリカらしいというか、州の独立権が強くて、法律も州ごとに異なるからなのです。
この時アメリカの西海岸で収容所におくられた、アメリカで生まれアメリカ国籍をもっていた日系二世の青年には、特に過酷な運命が待っていました。アメリカに忠誠を誓って米軍に志願するか否かの問題でした。忠誠を誓わなければ収容所を出られず、忠誠を誓えば軍隊が待っていました。志願した日本人二世の青年の多くは、ヨーロッパの特に危険な激戦地に送られました。その激戦地で、日系青年部隊はアメリカへの忠誠を示すために、果敢な戦闘行為をしたので、日系人部隊の死亡やケガの率は他の部隊と比べて比較にならないほど高くなりました。なかでも日系人志願兵によって編成された442部隊は、ヨーロッパで数々の戦果を上げましたが、戦死、戦傷者の率は他の米兵に比べ余りにも高く、敵対する日米の狭間で、日系青年は尊い犠牲を払わねばなりませんでした。

父はアメリカで敵国人として収容所に入れられましたが、日本にいた母の方は反対にスパイの疑いを解かれました。
 戦争が始まった直後に、それまで会ったこともない男の人が家に訪ねてきました。
 母が応対に出て玄関の戸を開けると、直立不動の姿勢で敬礼しながら、
「自分は、今まで一年間ずっと奥さんを尾行してきましたが、なにも怪しげな行動がなかったので、本日をもって尾行を中止します」と告げました。
 これを聞いて母と私は腰が抜けそうになるほどビックリしました。母が一年間も尾行されていたなんて夢にも思いませんでした。その上、わざわざ中止する、と報告にくるとは。
 母はそれまでに兄と私を産んだ時と、私が十歳になった時、私を連れて日本に来ました。その他にも、椿油のこととかで五、六回、日本とアメリカを往復しています。
 今では何でもないことですが、およそ70年も前のことで、男なら仕事ということもありますが、女の身であの当時日本とアメリカを行ったり来たりしているというのは、あまり例がなかったのでしょう。それで怪しいと思われたのでしょう。母は活動的な人でしたから、日本へ来てもしょっちゅう出歩いていました。外出から戻って来る度に、今日は電車を降りる時に手を貸してくれた人がいたとか、今日は鞄を持ってもらったとか、都電を待つ間に、男の人がコーヒーをご馳走してくれたとか言っていました。日本には意外に親切な人がいる、と思っていたらしくて、母は最後まで尾行されていたとは気が付かなかったのです。
 私たちの家族はアメリカで行動をマークされ、日本でも母がずっと尾行されていました。アメリカと日本の両方からスパイではないかと疑われて、知らなかったのは当人たちだけだったのです。今になってみればおかしな話で、実際はアメリカで洋裁店を経営していた、ただの日系家族に過ぎなかったのですけれど。

徴兵を逃れて


 戦争がはじまって、オプトメトリストとして開業するどころの話ではなくなってしまいました。兄はもうとっくに戦地に送られていました。私は宙ぶらりんな状態で、何をするということもなく母と祖母と一緒に家にいました。壮健な男子はまわりから姿を消していました。家の向かいには若い絵描きさんが住んでいましたが、いかにも芸術家タイプといった感じで、肉体労働には縁がなく、絵筆より重い物は持ったことがないように見えました。彼も私と同じで、徴兵検査で「第三乙第二補充」だったのです。その人がただ一人、身近にいた男性でした。時々、互いに訪ねあって話をするようになりました。ある日、玄関のベルが鳴ったので出てみたら、その絵描きさんが軍服を着て立っていました。
「僕にも召集令状がきましたので行ってきます。では、お元気で」と言われたので本当に驚きました。
 この絵描きさんは戦地へ行くまで命がもつのだろうか、と思いました。と同時に、(じき自分にも召集令状がきて兵隊にさせられる)と思いました。私のような者が最下級で軍隊に入ったら、どんな目に遭わされるか目に見えています。教練に駆り出されて、子供たちと一緒に木の鉄砲を担いで行進の練習をしていたとき、絶対に兵隊にはなりたくない、と思いました。兵隊になることだけは何としても避けたいと思いました。
 そんな時、母が耳寄りな話を聞いてきました。軍のための半官半民の会社に現地で働いていれば召集されない、ということでした。それを聞いて、アメリカを発つ時に父が持たせてくれた手紙のことを思いだしました。
「この人は、わたしと同じ県の出身で、半官半民の会社の重役をしているから、オプトメトリスト以外の仕事をしなければならなくなった時は、この人を訪ねなさい。必ず何か仕事をみつけてくれるはずだから」といって、紹介状を渡してくれました。
 さっそく紹介状を持って、その人を東京の事務所に訪ねて行きました。直ぐに会ってくれました。オフィスの大きなデスクの向こうで、
「うーむ、そうか」と言ってしばらく考えていましたが、
「君の日本語は少しおかしいが、英語はできるのか?」ときかれました。
「はい、英語ならまったく問題はありません」
「そうか。実は我々の会社はリン鉱石も扱っている。赤道直下にあるナウル島が、世界で一番リン鉱石がとれるらしい。今は英領になっているが、これから日本軍がそこを占領することになっている。そうしたら我々の会社が埋蔵量その他を調査することになる。英領だから英語をしゃべる者が必要だ。君に丁度いいだろう。どうだ、行ってみる気はあるか」
「はい、ぜひ、お願いします」
「実は、英語をしゃべる二世を二人、もう採用することになっている。しかしもう一人いてもさしつかえないだろう。三人でまずトラック島へ行ってくれ。そこで人を集めてナウル島調査隊を編成することになっているから」
「解りました。ありがとうございます」
ということで、その会社に採用されて、まずはトラック島へ行くことになりました。
 トラック島は初めて聞く名前で、どこにあるかも知りませんでしたが、兵隊にならずにすむなら何でもするつもりでした。
 一緒に行く二人の二世に紹介されました。私より五、六歳年上のようにみえました。会社からいろいろと説明を受けた後、他の二人は条件が合わなかったのか、怖じ気づいたのか、それとも賢明だったのか、その仕事を降りてしまいました。それで結局、私一人がトラック島へ行くことになりました。
「君は特別に書記として採用しよう。待遇は、そうだな、課長待遇でいいだろう」
といわれましたが、その頃は書記や課長が何であるかも知りませんでした。しかし、そんなことはどうでもいいことでした。とにかく兵隊にならず、ナウル島で燐鉱石の埋蔵量を調べる調査団の通訳として働く、ということが決まってほっとしました。会社に採用された4日後には、日本を離れてトラック島に向かいました。



第7話 ナウル島侵略


まずはトラック島へ


 トラック島は第二次世界大戦中、日本の真珠湾とも呼ばれたところで、日本海軍最大の根拠地でした。場所はグァム島を東に南下した東カロリン諸島のほぼ中心にあります。ここは第一次世界大戦でドイツが負けるまでドイツが統治していました。第一次世界大戦では、日本は日英同盟を結んでいて同盟国の戦勝側だったので、大戦後の1920年からドイツに代わって日本が統治を委任されていました。この領域ではアメリカ領のグァム島を除いて、サイパン、パラオ、トラック島などが日本の委任統治下でした。武装化は禁止されていたのですが、日本が1933年に国際連盟を脱退し、1936年にワシントン条約を破棄してから、トラック島は急速に基地化されていきました。
トラック島へは、ある水産会社の社員として下関から乗船しました。船旅は退屈だし運動不足になるので甲板をよく歩き回りました。それで気づいたのですが、その船には、前と後ろに大きな大砲が積んでありました。上から重たい布のキャンバスが被せてあったが一目で大砲とわかりました。ある時、下から覗いてみたらこの大砲は木材で作ってありました。本物ではなかったのです。戦争が始まって間もないというのに偽砲だなんて、まったくこの先どうなるのだろう、もし攻撃されたら反撃もできずにそのまま沈んでいくのか、と思うと心細くて情けなかったですね。幸い途中で攻撃されることもなく、無事トラック島につきました。
 小さな港の桟橋に船が着いて乗客たちが下船しました。みんなそれぞれ出迎えが来ていて、いつの間にかいなくなってしまいました。出迎えが来ていなかったのは私だけ。仕方がないので荷物を抱えて桟橋を一人で歩いて行きました。ものすごく日差しが強く蒸し暑い日でした。暑いからこの分なら、いざとなったら野宿しても大丈夫だろう、と思い、それでも一応泊まるところを探してみよう、と歩いて行ったら港のすぐそばに宿が見つかりました。しかし小さな宿で、さっき船で降りた人たちでもう満員でした。
「相部屋でもいいですか」
「いいですよ」
ということで案内された部屋へ行ってみると、さっき船から降りた連中が雑魚寝していました。そこにふとんを敷いてもらって、とにかく一晩そこに泊まりました。
 翌朝は早くから外が明るくなって目が覚めました。住所もなくてどうやって会社をさがしたものか、と思案したのですが、まず手始めに部屋にいる人たちに訊いてみることにして、そばにいた人に尋ねると、「その会社は隣だよ」と言う返事。「なあんだ」と思って窓からのぞいてみると建物が見えました。さっそく行ってドアをノックしてみると、しばらくして小使いのような人が眠気まなこで出てきました。
「どなたですか?」と、まぶしそうな顔で訊くので、
「マツウラです」といったら、飛び上がるほど驚いた様子で、
「えっ! マツウラさん! いつ、着きましたか?」
「昨日ですよ」
「みんな、明日、着くと、思ってますよ!」
 それで、迎えが来ていなかった理由がわかりました。
 小使いのような人は、「みんなが来るまでこれでも食べて待っていてください」といって、黄色いマクワウリという果物を切って出してくれました。それまでマクワウリという名を聞いたこともなかったので、これが南洋の果物か、と思いながら食べました。 後になって知ったのですが、その時マクワウリを出してくれた人は、朝鮮人の小使いさんで、いつもそこに泊まり込んでいたのです。日本人の社員は、そこから歩いて一時間くらいかかる農場に住んでいました。
 八時頃になって、みんな事務所にどやどやとやってきました。
「いやー、迎えに行かなくて本当に悪かった」といって謝ってくれました。ところが、そのすぐ後に言ったことは、
「長い間アメリカに住んでいたということですが、オート三輪の運転はできますか」という質問でした。
「いや、自動車なら運転できますが、オート三輪は運転したことがありません」と答えると、
「大丈夫ですよ。自動車を運転したことがあるなら、オート三輪も運転できるでしょう。ちょっと、一緒に来てください」そう言われて事務所の裏に出てみると、オート三輪が停めてありました。ちょっといじっているうちに、すぐ動かせるようになりました。
「ああ、良かった、良かった。あなたが来てくれて本当に助かった」と、みんな大喜びでした。以前は現地の運転手を雇っていたのが、その人が辞めてからは誰も運転出来る人がいなく7人の日本人社員は、みんな朝晩一時間かけて、事務所と農場を歩いて往復していた、ということでした。舗装もしていないガタガタ道でも、私が来てからは荷台に乗って往復できるようになった、とみんなとても喜んでくれました。けれど私は複雑な気持ちでした。
 今では信じられないような話ですが、その頃の日本では、一般人で車を運転できる人はほとんどいませんでした。車の運転というのは特殊技術だったのです。東京でも車は珍しく、民間の車はめったに見ませんでした。戦争中はガソリン不足で、たまに木炭車がノロノロ走っているのが目に留まるぐらいでした。 
 私が三輪車の運転ができることがわかって、みんな喜んでくれたにしては、着いたその日の夕食は、外地育ちの者には食べにくそうなカツオの塩からが主なおかずでした。そして私が食べる様子をみんなでじっと観ていました。私の両親はカツオの塩からが好物で、アメリカにいた時も時々食べていました。私もわりあい好きだったので、「うまい、うまい」と言って食べました。そしたら、みんなほっとした様子で、
「ああ、よかった。実は松浦さんは、アメリカから来られた方だと聞いたので、どんな物を食べるのだろう。ぼくらと同じ物でいいのだろうか、と心配していたのです」
と言いました。それで、一番食べにくそうな物を出して試してみたのでしょう。

 それからしばらくして、日本軍はナウル島を攻略することになるのですが、日本海軍はまだナウル島の地形を的確に把握していませんでした。
 ナウル島はトラック島からさらに東へ南下した位置にある赤道直下の島で、大きさは約21平方キロメートル、硫黄島や与論島とほぼ同じ大きさの燐鉱石でできた島です。車で30分もドライブすれば一周できるくらいの広さです。第一次世界大戦以前はドイツ領でした。ところが大戦が始まった1914年にオーストラリアが侵略、占領し、大戦後の1920年からは、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドに委任統治されていました。
 この時、海軍が持っていた地図は学校や公立の図書館にある程度のもので、旧英領の「ブリティッシュ フォスフェイト コミッション(英国燐鉱委員会)」というところで働いていたエリスという地質専門家が作った簡単なものでした。およそ戦略に使えるような代物ではないのに、それだけが唯一の頼りでした。
 その地図でみるとナウル島は大豆のような形をしていて、一カ所だけごく小さい港湾があって、ボートハーバーと書いてありました。船着き場ということです。両側が防波堤のように突き出ていて、入り口が狭くなっていました。
 海軍の計画では、夜陰に乗じてそこから上陸してナウル島を占領しよう、というものでした。ところが、そのボートハーバーの入り口の幅がわからなかったのです。
 問題は上陸用船艇がそこを通れるか、どうかということでした。
 海軍がトラック島で情報を集めたら、昔ナウル島へ行ったことがあるというジュリアスという人がみつかりました。
 20年以上も前に、17か18歳の時にナウル島で燐鉱石を掘っていたことがあるという人で、教会の日本人牧師の元で働いていました。ところが、ジュリアスは日本語が話せませんでした。たいがいのトラック島の住民は、日本統治の間に日本語が多少は解るようになっていたのですが、その日本人の牧師さんは英語が話せるので、ジュリアスは日本語を使わなくても仕事ができました。そのため肝心なジュリアスが日本語が解りませんでした。
 海軍ではジュリアスから直接情報をとろうとしても言葉が通じないので困っていました。それで、私に通訳をするように要請してきました。それどころか、私も一緒にナウル島に乗り込むハメになりました。
 軍人に言われた通りに、ジュリアスに状況を説明して、
「海軍はここから上陸するといっていますが、この入り口の狭いところを上陸用船艇が通れますか」と訊くと、ジュリアスは、
「はい、通れます」と答えたのですが、それからしばらく考え込んで、
「いや、もしかしたら通れないかもしれない」と言いだしました。軍人は怒って、
「何を言うか! はっきりしろ! 重要なことなんだぞ!」と怒鳴りました。しかしいくら「はっきりしろ」と怒鳴られても、二十年以上も前のことです。突然訊かれても答えられないでしょう。それ以来、ジュリアスは昔のことを思い出そうとして夜もろくろく眠れなくなったと言っていました。
 海軍ではナウル島上陸の際にジュリアスから情報を得るために、彼を連れていくことにしました。ということは通訳として私も同行しなければならない、ということです。

 日本海軍は「沖島」という機雷の敷設艦を先頭にして、まずラバウルに行って兵隊を乗せ、駆逐艦も同行した船団を組んでナウル島へ向かいました。
 ナウル島には夜中に上陸、攻撃し占領する計画でした。それで夜になると甲板に出て、顔や手に真っ黒に墨を塗って肩に手を掛け合い、上陸の訓練をしました。昼間は銃を磨いたりしていました。私の任務は、ジュリアスと一緒に真っ先に上陸して、
「ナウル島は今から日本軍が占領する。抵抗をしなければ危害を加えることはない」
と宣言して、英語で書いた同文の紙切れをヤシの木などの目立つところに張り付けることでした。真っ先に上陸するから危険な任務です。それで、
「ぼくにも銃を持たせてください」と言ったら断られました。
「兵器を民間の人に持たせることはできません。私たちが守ります」と言って、武器を持たせてくれませんでした。いくら「私たちが守ります」といわれても、実際はジュリアスと私だけが丸腰で真っ先に上陸していく、ということです。
 ところがラバウルを出て間もなく、ソロモン群島のそばで機雷の敷設艦「沖島」がアメリカの魚雷に当たって出火、撃沈されました。前に菊の御紋のついた大きな敷設艦だったのですが、輸送船に乗っていた私たちの目の前で沈んでいきました。みんな看板に出て敬礼をして見送りました。
「沖島」の乗組員は、ほとんどが海に飛び込んだようですが、半分も助けられませんでした。というのは「沖島」の周りは機雷だらけだったからです。しばらくして、氷川丸がきてだいぶ助けたようですが、全体から見れば人数は少なかったでしょう。
 その後船団はナウル島に向かいましたが、間もなくアメリカの「B24機」が飛んできて上空を旋回してから、そのままどこかへ飛び去って行きました。太平洋上のあの位置で、日本海軍の船団が向かっている方向を考えると、ナウル島以外ありません。それで、そのまま行ったら先方に知れるだけでなく、待ち伏せされる可能性もあるわけで、計画を変更していったん引き返すことになりました。

 これは戦後も、ずいぶん経ってから解ったことですが、この頃、アメリカ側は日本軍の暗号を解読していました。だから、日本軍から発信する通信はアメリカ側にキャッチされ行動予定などはほとんど知られていました。日本の軍艦や輸送船が次々と沈められたわけです。しかし、あまり的確に日本海軍の船を沈めていくと、暗号を解読していることを日本側に察知されてしまいます。それをさけるためにアメリカ側ではわざと偵察機などを飛ばしてカモフラージュをしていた、ということでした。
 あの時船上からみた「B24」は、そういう偵察機の一つだったのかもしれません。 

ナウル島


後日、ナウル島へ上陸した時は、連合国側はすでに引き上げた後でした。連合国側が、フランス船でオーストラリアやイギリスの民間人とその家族を乗せて退去を完了した後に、日本軍が上陸したので戦闘は全くありませんでした。
 しかし、島には七人の白人たちがいました。二人の神父さんとボランティアで島に残った五人のイギリスとオーストラリアの人たちでした。
 ドイツ人とスイス人の神父さん、それにイギリス人とオーストラリア人は総督と医者、薬剤師、発電所の電気技師、燐鉱石の工場の管理責任者の五人でした。
 この人たちはとても勇気のある人道的で立派な人たちで、みんな引き上げて行ったのに、彼らは志願して島に踏みとどまって日本軍を迎えました。私が通訳をしましたが彼らは日本軍に協力的でした。島で電気が使えたのも発電所の技師がいたからだし、医者は風土病のことなどをいろいろと説明してくれました。彼らがいてくれたことによって助かったことがたくさんありました。それなのに日本軍は彼らを教会に監禁して食料もろくに与えませんでした。夜暗くなってから島民たちが隠れて差し入れをしていました。 
 ナウル島は約21平方km、車だとたった30分で一周できるくらいの広さしかありません。ほとんど燐鉱石でできていて、土壌はないといってもいいくらいです。島民の数はあの当時で1500人くらい。日本軍の数は、島民の数よりははるかに多いようでした。しかし、その中で英語を話せる者は一人もいませんでした。だから通訳は私が全部しました。島民たちはみんな私を「ミスター・トミー」と呼んでいました。こんな小さな島に、島民の数を上回る大勢の日本の兵隊が来たので、たちまち食料不足に陥りました。
 日本軍の司令部は戦地に兵隊を送り込んで占領をさせても、食糧の輸送など兵隊へのバックアップはまったく考えていなかったようです。本国の日本でも食糧難で、海外の兵隊に食料を送る余裕がなかったのでしょう。それに制空権も制海権もほとんど失って、日本からの輸送船は島に着くまでに大部分沈められていました。
 アジア、東南アジアや太平洋の島々など、膨大な戦地での食料はほとんど現地調達、ということは現地の住民から食料を奪う、ということです。生き延びるために兵隊たちは原住民の食料を強奪せざるを得ない。戦争でただでさえ食糧不足のところに、日本の兵隊がきて銃口を突きつけて食料を奪っていくので、原住民は日本軍を憎み、ひそかに連合軍側についてゲリラになったりするわけです。
 私がナウル島にいた一年の間に、たった一隻日本の船が来ましたが、酒しか積んでいませんでした。ナウル島では、にわとりとかブタは放し飼いになっていて、島民たちは時々それを捕まえて食料にしていたのですが、日本の兵隊たちも同じことをしていれば、あっと言う間に食い尽くしてしまいます。残るはヤシの実と海から取ってくる魚だけ。土壌が少ないので野菜や果物はほとんどありませんでした。飲料水は雨水。主なタンパク源は魚でした。私らも食料を得るために釣りをしましたが、島民たちにはかないません。それで煙草などと物々交換をしてもらいました。燐鉱石の埋蔵量の調査どころか、日々、その日その日の食料を確保して生き延びるのが精一杯でした。

日本軍の虐待


 ナウル島を占領して間もない頃、日本軍は島民から自転車を没収しました。島民たちは自転車を乗り回して遊んでいるので軍がもっと重要なことに使う、というのが理由でした。ところが、ある日、島民の一人が私に自転車を返すように軍にかけあって欲しい、と頼みにきました。自分たちにとって自転車は生活のための必需品で、けっしてリクレーションに使っているのではない。ヤシの実や魚を取りに行って、それらを運搬するために使っているのだから、自転車を取り上げられたら、この暑い島ですべて歩いてしなければならない。そうしたら、食料を確保するのに今までよりもずっと時間がかかるし、みんなも今まで以上に早く疲れて能率が悪くなるから、それは島民のためにも日本軍のためにも決して良い結果にならない、という非常に説得力のある話でした。本当にその通りでした。私は軍の司令部へ行って島民の意向を伝えました。そしたら、軍は意外にあっさりと自転車を島民に返しました。軍の方でも食料が手に入らなければ困るので、現実的な処置を取ったのでしょう。ところが、島民はそうは取らないで、私が交渉してくれた、と思ったようでした。それからは、私を「ミスター・トミー」と呼ぶようになり、みんなに知られるようになりました。
 ナウル島の島民は日本軍がくるまでは非常にのんびり暮らしていたのでしょう。歌が好きで、夕方涼しくなると浜に出て車座になって歌っていました。一人が歌い出すと、それに合わせて他の人が次々に加わって、すぐに二重唱三重唱ができて、浜辺に素晴らしいハーモニーが響きました。食料などもその辺にある物を、そのつど、その時いる分しか獲りません。あくせく先のことを思い煩ったりしないで、その時その時を楽しんでいる、いかにも南の島の人々という感じがしました。しかし、こういう島の人たちの生活ぶりは、日本軍の軍人にとっては、だらけた怠け者としか見えなかったのでしょう。
 ある時、日本軍は島で運動会をすることにしました。
 理由は兵隊達が運動会をしたかった、と同時に運動会でもして島民たちのだらだら遊び暮らしている性根を鍛え直してやる、ということだったようです。
 運動会の主旨や競技のやり方などを通訳しました。ところが島民には競技をすることの意味がいっこうに理解できないのでした。二手に分かれて勝ち負けを争う、という理由が理解できなかったようです。徒競走や綱引きなどして、どうして勝った、負けた、と争わなければならないのか、どうしてそんなことをするのか、と訊かれました。それをそのまま通訳すると軍人が怒ると思って、その質問を直訳しないで、何か他のことに言い換えようとして大変苦労しました。
 ナウル島には約一年いましたが、一番嫌な経験は島の青年の処刑に立ち会わされたことでした。最近、島民がつけあがってきているから、見せしめをしてやろう、ということを司令部で決めたらしいのです。
 私を同伴して処刑をするから一人出せ、と島長の所へ出向いて行きました。小さな島ですから、村役場のようなのがあって、そこには牢屋やなにもかも一緒にありました。島の青年が一人投獄されていました。この青年は日本軍が占領したばかりの時に、海軍の軍人から女を世話しろ、と脅されて島の娘を世話したのが島長の耳に入り投獄された、ということでした。
 日本軍人は、その青年を見て、「ちょうどいい、そいつを出せ」といって、どうして投獄されたのか、理由も訊かずに引っ立てていきました。
 浜辺に連れていって、島民たちを集め、
「この者は強姦をしたので、これから処刑する。悪事を働き日本軍の命令に従わない者は、これからは容赦しないから、よく心得ておけ!」
といって、みんなの前で通訳するように言いました。私はそうではないことは知っていましたが、そんなことをいったら私自身の首が飛ぶかもしれません。仕方なく言われた通りに通訳しました。日本刀が振り上げられた時には思わず目を閉じました。軍人は島民に命令して、海岸に穴を掘らせて死体を埋めさせました。
 それから、こんなこともありました。
 司令部の軍人が、憂さ晴らしにあの爺さんたちをからかってやろうじゃないか、といって、教会にとじこめられている二人の神父さんを連れてくるように、と命じました。一人の将校が、「俺も行こう」といって教会に一緒に行きました。教会ですからキリストの十字架の像があります。それを見て、
「毛唐は、あんな残酷なことをするから大嫌いだ、奴らに英語でそう言ってやれ」
と言いました。そんなことを通訳するなんて嫌だったので、適当なことを言っておきました。「お前、本当に俺の言ったことを通訳したか!」といってどなられましたが、「はい、しました」と言いました。車で二人の神父さんを司令部に連れていくと、いやがらせのような質問をなんだかんだと半時間ぐらいしました。そして、最後に肩をこづいて、「もう、いいから帰れ」と言いました。
 この神父さんたちは、一人はスイス人でもう一人はドイツ人。ドイツ人の神父さんは、旧ドイツ領の頃からこの島にいたのでしょう。カイザーという名前で白いあごひげをたくわえ七十歳くらいに見えました。スイスは中立国だしドイツと日本は同盟国。だから日本軍が来ると知っていても、二人は教会に留まることにしたのでしょう。まさか同盟国の日本軍からこんなひどい目にあわされるなんて思いもしなかったでしょう。ところが、日本の軍人は中立国だとか同盟国なんてことは、全く意にかけていないようでした。司令部と教会は歩けばかなりの距離です。「もう帰れ」と言われても、赤道直下のナウル島の昼下がり。教会に閉じこめられて食べる物もろくに食べていません。歩いて帰るのは大変です。私は司令部から解放された後、車でそっと追いついて教会まで送りました。「トミー、あなたはこの島で人の心を持った、たった一人の日本人ですね」とドイツ人の神父さんがいいました。なんと返事をしたらいいのか、情けない思いでいっぱいでした。
 前にもいいましたが、日本軍がこの島に上陸した時、米英の連合国側はこの島を放棄してみんな避難した後でした。日本軍は敵のいない赤道直下のナウル島に何のために駐屯しているのか、戦況はどうなっているのか、私にはさっぱりわかりませんでした。戦争の先の見通しが全くないままに、ただここに駐屯して島民の食料を奪い、上官は部下や住民をいじめ、ただ時間をつぶしているようにしか思えませんでした。
 それからしばらく経ったある夜、もの凄い爆音がして飛び起きました。一瞬、何が何だかわからなかったのですが、「空襲だ、爆撃されている。家の中にいたら危ない!」
という誰かの叫び声と共に、会社の同僚たちと外へ飛び出しました。飛行機が一機、夜空に銀色の機体をひらめかせて飛び去っていくのが見えました。
 私たちがいた家の前には道があって、その向こうには自分たちがジグザグに掘った塹壕がありました。その塹壕をめざして走って道を渡りかけたとき、もう一機が来ました。とっさに道路に伏せました。飛行機は私たちが伏せている道路に爆弾を落としていきました。私たちは丁度落ちた爆弾と爆弾の間に伏せていて、危ういところで命拾いをしました。塹壕にたどり着いた時、また一機来ました。それは道路には爆弾を落とさずに飛行場の方へ飛んでいきました。飛行場の上空が赤くなっていくのが見えました。その飛行場は滑走路など、島民と私たちが勤労奉仕でモッコを担いで作らされた飛行場でした。
 その夜3機が来ただけで、私がいた一年の間に空襲があったのは、後にも先にも、ただこの時だけで、これが私の最初の空襲体験でした。  
 ナウル島で空襲のあった翌日、島に残っていたオーストラリア人とイギリス人の五人は斬殺されました。民間人だし、まさか殺されるとは思わなかったのでしょう。家族だけ避難させて志願して残り、発電所の使用法も教えてくれて、医者と薬剤師は風土病や薬についてもきちんと説明してくれました。空襲の報復以外、殺す理由など全くなかったのです。私はその現場をみたわけではないですが、浜で斬殺されたと島民から聞きました。
 終戦になって日本に帰ってから、この件でイギリスの占領軍から呼び出しを受け尋問されました。連合軍側ではナウル島に牧師二人と民間人五人を残してきたことは、きちんと記録されているので、当然五人の行方を調査していました。私が呼び出された時は、すでに島民の協力を得て遺体も発掘していました。遺体の状態から爆撃によるものではなく斬殺によるもので、日本軍に殺された、と判断したようです。
「あなたは、1942年から1943年にかけてナウル島にいましたね」
「はい、いました」
「あなたについては島民の評判も良く、悪い報告は何もないので心配することはありません。ただ、訊きたいことがあります。島にイギリス人とオーストラリア人が五人残っていたのを知っていますか」
「はい、知っています」
「どうして知っているのですか」
「私は彼らの通訳をしました」
「彼らが殺されたことは知っていますか」
「はい、知っています」
「あなたは、その現場を実際に見ましたか」
「いいえ、見ていません。島民から聞きました」
「それは残念だ。本当に見ていないのですね。」
「見ていません」
「残念だが、あなたが実際に見ていないのなら、あなたから証言をとることはできません」  
 私が実際に現場を見ていなかったので、証言として取り扱えない、とイギリスの調査官は非常に残念がっていました。ナウル島を占領していた時の日本軍の大尉は逮捕されて、戦犯として後に処刑されたと聞きました。
 戦後になって、戦争中に日本軍のしたことが明るみに出て、特に捕虜、民間人への虐待が問題にされましたが、日本軍は、捕虜を虐待する前に自国の兵隊をずいぶん虐待していました。このことは虐待された兵隊が訴えることがないので、問題にされることもなく、明るみに出ないまま、事実は時と共に消え去っていくのでしょう。しかし、このことが捕虜の虐待にもつながっていたと思います。
 ナウル島の日本軍の兵舎では、毎朝、兵隊を一人殴り飛ばしていました。
 軍隊では毎朝点呼をとります。起床の合図があってから5分ぐらいで身支度をして兵舎の前に並ぶのですが、その兵舎では最後に出てきた者を、上官が殴り飛ばしていました。兵舎の出入り口は一つで幅だって狭いから、みんな一緒に出ることはできません。どんなに速くしたって、どうしても最後になる者は必ずいます。最後と最後から二番目の差は一秒か二秒ぐらいだから、そんなことをしても全く意味がありません。殴る理由をつくるためにしている、としか考えられません。
 こういうこともありました。
通訳の仕事で司令部に呼び出されて行ってみると、兵舎の外で両手に水の入ったバケツを持って立っている兵士が見えました。バケツを下げているのではなく、肩の高さまで持ち上げていました。バケツの位置が少しでも下がると、一人の将校が行ってベルトのムチで背中を叩いていました。赤道直下のナウル島の炎天下です。どんなことをしたのか知りませんが、悪いことといってもたいしたことはしていないはずです。どうせ返事の仕方が悪いとか、上官の気に障ったとか、そんな程度のことでしょう。ああいう行為はサディズム以外のなにものでもありません。長い間あんなことをさせられていたら、戦う以前に頭も体もおかしくなってしまいます。年も私とあまり変わりない二十歳ぐらいの若い兵隊でした。戦う前からあんなことをさせられていると親が知ったらどう思うでしょう。それでも日本の親は天皇陛下のため、お国のためだから、と思うのでしょうか。日本軍は自国の兵隊にそんなことをするぐらいだから、捕虜を虐待することなど、なんとも思わなかったのでしょう。日本人にとって捕虜になるということは、生き恥をさらすことだから、捕虜になることは屈辱で、その前に死ななければならなかった。それなのに、おめおめと生き残っているとは見下げ果てた奴だから、どんなことをしてもいい、という考えが日本軍人にはあったのでしょう。

宴の終わり


ナウル島では、私自身が大きなトラブルにあいました。
 軍の司令部が慰みに、島の高台で島民に踊りを踊らせることにしたのです。私たち会社員もそこで働いていたメイドもみんな一緒に出かけていきました。踊りの後でヤシ酒が出て、みんな一緒に飲みました。高台の隅には高射砲が据えてありました。日が暮れてからその辺りに砲兵隊の人たちが十人ほどドヤドヤとやってきました。そのあたりまではなんとなく覚えていたのですが、ヤシ酒がまわったのか寝込んでしまったらしいのです。どのくらい寝ていたのか自分でもわかりませんが、誰かに揺り動かされて目を覚ました時は、もう辺りは真っ暗になっていました。揺り動かしたのはメイドのお母さんでした。
「トミーさん、お願いです。兵隊さんのしていること止めてください。私のムスメ、とても嫌がっています」
 寝ぼけ眼であたりを見てみると、暑いからでしょう、兵隊たちはフンドシ一枚で酒盛りをしていました。その中の一人がメイドを膝に乗せて抱いているのが見えました。目が覚めたばかりで、ためらいもなく、ごく自然にその人の所へ行って、
「ちょっと、それは止めてください。この人のお母さんも一緒にここに来ていますから」と言いました。その人は、私をじっと睨みつけてからメイドを膝から降ろしました。それで、私は前にいたところに戻って、また寝てしまいました。
 次ぎに目が覚めた時は、会社の同僚が一人いただけで、あたりには誰もいませんでした。
「みんな帰ったようだから、じゃあ、ぼくらも帰ろうか」といって帰りかけた時でした。向こうから兵隊が五、六人やって来ました。この時はみんな軍服を着ていました。その中の将校が私の顔を見て、
「あいつか!」と叫びました。
「そうです」と他の兵隊が答えました。するとつかつかと私の前に来て、
「きさま! さっき俺になんといったか!」と怒鳴りました。
「何も言っていません。今日、あなたに会った覚えもないですよ」と答えました。本当に、その日にその人と話した記憶がありませんでした。将校は「俺について来い」と命令しました。私と同僚は兵舎に連れていかれました。夜中の一時頃でした。将校は部下の兵隊に、「全員起こせ!」と命令しました。
「俺を侮辱するようなことをしたら、どんな目に遭うか見せてやるから、全員たたき起こせ!」といって、その兵舎の兵隊を全員起こしました。
 兵隊たちは目をこすりながら起きてきて一列に並びました。私は、みんなの前で殺される、と思いました。
「キサマ、さっき俺に何と言った!」とまた怒鳴られました。
「わかりません」というと、いきなりゲンコツが飛んできました。それから数え切れないほど、気絶するまで殴られました。水をぶっかけられて気がついたところを立たされて、また殴られました。けれど、その将校がなぜそんなに怒っているのか、私には見当もつきませんでした。胸ぐらをつかまれて
「返答をしろ!」と言われて、
「何をしたか、わかりませんが、何かいけないことをしたのでしょう」としか言えませんでした。それで、終いには「もういいから、帰れ」と言われました。フラフラになって、やっとの思いで、はうようにして兵舎を出ると、外で会社の同僚が心配して待っていてくれていました。
「大丈夫ですか。歩けますか?」と訊くのですが、顎の感覚がなくなっていて返事ができませんでした。部屋にたどり着いて同僚が手当をしてくれて、やっと口がきけるようになりました。
「何と言った!と訊かれたのだけど、全然覚えていない」と言うと、
「だけど、あんたは、あの将校と高台で話をしていたよ」
「いや、ぼくは今日一日、一度も将校とは話していない」
「でも、あの人がメイドを抱いて酒を飲んでいた時、そばに行って何か言っていたよ」
「あの人が将校だったのか。ぼくは寝ているところをメイドのお母さんに起こされて、兵隊さんが娘にしていることを止めさせてくれ、といわれて、止めに行ったのだけど、みんな裸でフンドシ一枚になっていたから、暗いし、誰が誰だか全然わからなかった」
と、その時になって、初めて自分が半殺しの目にあった理由が、やっと解ったのでした。
 それから間もなく会社から帰国辞令が来て、日本に帰ることになりました。
 マニラの水産会社で通訳が要るので、そちらに転勤になるということでしたが、本当の理由はわかりません。私と砲兵隊の将校の間でトラブルがあったことは、軍にも会社の上司にも知られていました。松浦は日本に帰さないと、あのままナウルにおいていたら命が危ない、と会社が判断したのかもしれません。事実、後で、「松浦さんが帰国した直後に、あの将校は、まだあんたを探していたよ」と知らされました。
 私は会社が直ぐに辞令を出してくれたことに感謝をしましたが、ただ帰国するだけでなく、ある任務を与えられました。
 社員の一人で、ナウル島にいる間に頭がおかしくなった人がいました。いつも帽子を二つも三つも重ねてかぶって座禅を組むような格好で、どこにでも長い間座り込んで動こうとしないのです。ジャックナイフを首からぶら下げていて、どんなことがあっても寝るときもそのナイフを外そうとはしませんでした。その人を日本に連れて帰る、というのが任務でした。船上では日本に着くまで、ずっと彼と一緒で寝るときも隣同士でした。別に乱暴を働くというような危険はなかったのですが、普通でないことは確かだし、気違いに刃物、という諺もありますから、やはりジャックナイフを首にかけていられたのでは、こちらもおちおち眠れません。眠るときぐらい外した方がいい、と説得したのですがダメでした。それで寝るときは、寝たふりをして薄目を開けて彼を観察しました。彼が眠ったのを確かめてからこちらも寝るようにしたのですが、そんなことをしていると眠りも浅く、睡眠不足になって、こちらまでおかしくなりそうなので途中で止めて、彼のことは気にせずに寝ることにしました。ともあれ彼と一緒に無事に日本に帰り着くことができました。これが、私の一年目の戦争体験でした。
 それから間もなく、マニラにある日本の水産会社で通訳の仕事をするために、輸送船でマニラに向かいました。
 



第8話 フィリピンの捕虜生活


捕虜になった日本兵たち


 私の生い立ちの話が、日露戦争停戦当時の父の渡米から始まって、ずいぶん長くなりましたが、これでマッカーサーが「アイ・シャル・リターン」といって1944年にマニラ奪還の総攻撃を開始した時に、何故、私がマニラにいたのか、お解かりいただけたと思います。
 マニラでの私とモリの朝4時に起きてキッチンで働く、オールド・ビリビット・プリズンでの捕虜生活は相変わらず続いていました。初めのうち、この捕虜収容所にいたのはみんな民間人でした。山下大将が山に入って持久戦をする決定をし、日本の民間人、朝鮮人、台湾人に最後の召集がかかって、マニラ防衛死守部隊が編成され、戦闘経験も訓練もなかった彼らがほぼ全滅したことは前にも話しましたが、この時に、なんらかの理由で召集をまぬがれた人たちがいました。私もそのうちの一人だったわけです。その人たちの中で、アメリカ軍がマニラに入ってきた混乱状態の時に、殺された人たちと生き残った人たちに運命が分かれました。生き残って私がいたような捕虜収容所に収容されたのは、やはり非常に運がよかった、としかいいようがないでしょう。 
 戦況が進み、時が経っていくにしたがって、この収容所に日本兵が捕虜となって収容されるようになりました。この日本兵たちは言葉では表せないほど悲惨でした。服も靴も原型を留めないほどボロボロになっていました。栄養失調でほとんどの人が骨の上に皮がついているような状態でした。歩く力もなくて担架で運ばれてくる人がたくさんいました。
 収容所に連れてこられた日本兵で歩ける者は、まず身につけているものを全部脱がされ素裸にさせられて、頭のてっぺんから足の先までDDT(殺虫剤)をかけられました。体中にシラミがわいていたからです。そしてシャワーを浴びた後、アメリカ兵が着ているのと同じ服が支給されました。まったく同じ物で、違いは背中に大きく白いペンキでPOW(捕虜)と書いてあることだけでした。靴も支給され、小さいサイズがちゃんと用意してありました。それでも大きいと、これは大きすぎるからこちらにしよう、と一人一人にちゃんと合わせていました。 
 日本の兵隊は、そんな扱いを受けて気持ちが混乱しているように見えました。服を着て靴を履き終わった兵隊には、それぞれに洗面用具のケースが渡されました。中には歯ブラシ、歯磨き、石鹸、ひげそり、くしがセットになって入っています。それをもらう時、兵隊たちは受け取りながら泣いていました。
 みんな米軍に捕まったら拷問されて殺される、と思い込んでいました。実際に日本軍では、これまで捕虜たちにそういうことをしてきていたので、当然、自分たちもそうされるもの、と思っていたのでしょう。ところが殴られることもなく、拷問もされないし、服や靴、洗面用具までくれるので、かえって精神的に混乱しているように見えました。
 日が経つに連れて、収容所に入ってくる日本兵の数がどんどん増えていきました。しかし、収容されても栄養失調やマラリヤで助からない人がたくさんいました。
 栄養失調の人は直ぐに普通の食事をさせると、かえって体調が悪化して死ぬ場合があります。あまり栄養の高くない消化しやすい食物を少しずつ与えて、体調をもとに戻さないといけないのですが、そうしても手遅れで死ぬ人がたくさんいました。それと、動ける人は残飯を食べてしまうのです。アメリカ兵たちが食べ残した残飯をドラムカンに捨てておくと、それを見つけて食べてしまうのです。もう少し待っていれば普通に食べられるようになるのですが、それができないのですね。残飯を食べて腹をこわして死んでしまう人がでてきたので、日本兵が残飯を食べないように、残飯は必ず穴を掘って捨て、上に土をかけるように、という指示が出たくらいです。
 日本兵が収容されるようになってからは、毎日、数人が収容所で死んでいきました。担架で運ばれてくる人たちには、人間とは思えない、なんともいえない死臭が漂っていました。ケガをしても手当をしていないので傷口にウジがわいていました。それでも生きているのが不思議なほどでした。
 戦況が進むにしたがって、手榴弾で自爆したり、爆弾でやられたり、餓死した日本兵の死体運びをしなければならなくなりました。餓死した人たちの死体は驚くほど軽かったです。重さは小学生ほどもなかったでしょう。トラックで運ばれてきた死体を、担架にのせて前と後の二人で運ぶのですが、小さくて軽いので担架に一度に何体も乗せて運べてしまうのです。
 日本軍は膨大な数の兵隊を東南アジアに送り込んでおきながら、物資の補給や補給路の確保などは全く考えなかったのでしょう。最低限度の食料のバックアップも満足にないまま戦線に送られて戦わなければならなかった日本兵は無惨でした。
 それだけでなく「生きて虜囚の辱めを受けず」という教育を徹底して受けていたので投降することもできなかったのでしょう。兵隊はみんな自決のための手榴弾を渡されていたということです。自国の兵隊に捕虜になることを禁じておいて、自決か餓死の選択しか残さない、というのはあまりにも残酷です。
 この収容所に連れて来られた人たちは、自ら投降した人は非常に少なかったと思います。ほとんどの人がケガをして気絶したり、病気や栄養失調で動けなくなっていた状態で、フィリピン人やゲリラ、アメリカ兵に見つかったという人が多かったようです。
 捕虜に関する国際協定があるということすら、日本兵は知りませんでした。捕虜になる前に死ね、といって自決用の手榴弾を渡すくらいだから、そういうことは知らせなかったのでしょう。だから日本の兵隊は万が一捕虜になったときの教育を全く受けていませんでした。西洋の軍隊では命を無駄にせず、状況によっては捕虜になってもいいことになっています。その代わり、万一捕虜になった場合の教育もきちんとしています。捕虜になって尋問された場合は、名前と階級と兵隊番号は知らせてもいいが、それ以外は絶対にしゃべるな、といわれています。
 ところが日本の軍隊では、兵隊は捕虜にならないタテマエだから、捕虜になったときの教育など考えもしなかったのでしょう。捕虜になる前に勇ましく「天皇陛下バンザイ」といって、敵に突っ込んで死ぬことになっているのですから。しかし、日本の兵隊全員がそうするわけでもないし、しようと思っても出来ない人もいたでしょう。ケガをして気を失って気が付いてみたら捕虜になっていたという場合もあるわけです。
 西洋の兵隊は捕虜になったら、可能性が見つかれば脱走して再び戦うようにと教えられています。死ね、などという事は絶対にいわれません。味方が死ねば、その分敵に有利になるわけだから、そんな不合理なことをいうはずがありません。
 ところが「生きて虜囚の辱めを受けず」と手流弾まで渡されていた日本兵は、捕虜になって拷問もされず、死ななくても済む、となったらどうしたらいいのか、全く解らなくなっていました。優しく扱われて穏やかに尋問されると、何からなにまでみんな喋ってしまって、アメリカ側に全部情報を教えてしまうのです。山のどこに何部隊がいて、人数はどれくらいか、どこに武器、弾薬を隠したかなどと、ここまで言わなくてもいいのに、と思うようなことまでしゃべってしまうのです。
 なぜ私がこんなことを知っているかというと、日本兵が収容されるようになってからは、キッチンの仕事ではなく通訳をさせられていたからです。英語の話せる日本兵はほとんどいませんでした。そのうちに、ただ情報をしゃべるだけでなく、実際にアメリカ兵と一緒に爆撃機に乗り込んで、この丘のこのあたりに何々部隊がいる、と教える者まで出てきました。信じられないような話ですが、爆撃機に同乗した従軍記者に、日本人捕虜が地上を指さしているところを写真に撮られています。米軍キャンプで発行していた新聞にその写真が掲載されました。「ファニー・ピープル・ジャパニーズ(おかしな日本人)」というタイトルがついていました。
 アメリカ人にとって、日本人はますます理解しがたい民族に思えたでしょう。
 日本兵のこのような行為には、捕虜になったときの準備がなかった、というだけでなく、上官に対する恨みもあったのではないかと思います。日本軍の一部では自国の兵隊を虐待するようなことは平気でやっていました。ナウル島ではそういう場面を嫌と言うほどみせられ、自分でも体験しました。
 日本兵はフィリピンの山の中に入る時、一握りの米と塩、それに自害用の手榴弾を一人一人渡されていました。山に入った目的は本土防衛のための時間かせぎでした。ここで戦っても勝てる見込みはないが、本土防衛のためにマッカーサーの軍隊を少しでも長くフィリピンにくい留めて置くこと、そのためにお前たちは捨て石となって、フィリピンのジャングルで死ね、ということだったわけです。これは戦闘機や戦艦に乗っていない、というだけで特攻隊と変わりがないでしょう。
 敵に殺されるか、手榴弾を爆発させて死ぬ以外に道はない、と思いこんでいた者が捕虜になって生き残れる、という選択もあったのだ、とアメリカの捕虜になってみて初めて知り、その結果、クレージーな行動に走ったとしても誰も非難はできないでしょう。日本兵は食料もなくジャングルに入っていって、何ヶ月かを過ごし死線をさまよっていました。その間に何が起こったか、我々の想像を絶するものがあったでしょう。数は少なかったが、こういう兵隊もいました。白旗を掲げて降伏するとみせかけて、迎えに出ていった米兵が近づいたときに、自爆用の手榴弾を爆発させて道連れにして死んでいきました。日本側からすれば忠誠心のある立派な死に方かもしれませんが、アメリカ側にとっては、これほど卑怯な行為はありません。白旗を掲げて、まいった、といっている相手をこれ以上どうにもできません。それでは、ということで迎えにいくと、手榴弾を爆発させて道連れにする、「日本人は絶対に信用できない」といって怒っていました。アメリカ兵がそうやって何人か殺されてからは、例え日本兵が白旗を掲げていても、日本兵を撃っても咎められない、と非公式に認められることになりました。白旗を掲げている者を撃つというのは国際法違反なので、公に許可することはできません。それ以後、本当に降伏したくて白旗を掲げて行ったのに、撃ち殺された日本兵もいたかもしれません。その様子を見ていて、投降しようと思っていたのに、できなくなってしまった兵隊もいたでしょう。
 日本軍が兵隊に捕虜になることを禁じ、国のため天皇陛下のために命をおしげなく捨てることを強制したことによって、生きて日本へ帰れたはずの命がどれだけ無駄に失われたかしれません。 
 それでも捕虜となって、収容所に収容される日本兵の数がだんだん増えてきました。収容されても手遅れで亡くなってしまう人もいましが、次第に健康を回復して元気になってくる人もいました。
 人間というのは面白いものですね。生命の危険もなく、毎日食べる物が食べられるとわかってくると、今度は、だんだん贅沢になってきます。
 この収容所ではアメリカ兵も日本人捕虜も同じ物を食べていました。ところが、捕虜の中にこんなことを言い出す人が出てきました。
「われわれ日本人は、先祖代々米を食べて生きてきたので、肉にパンやじゃがいもばかりでは、体の調子がおかしくなってくる。米を食べさせてもらえないだろうか」
 私が将校にこのメッセージを通訳したところ、意外なことにそれを受け入れて、米を焚くようになりました。ところがアメリカ人のすることは大ざっぱで、給仕の兵隊がめんどうくさいものだから、従来通り全部同じに盛りつけて、捕虜の日本兵の分にさらに焚いたご飯を付け足しました。日本兵はついこの間までジャングルで飢餓を経験して死線をさまよった人たちばかりなので、食べ物を残すとか、捨てるという事は絶対にできません。出されたものは全部食べてしまうので、今度は食べ過ぎて胃腸をこわし、太ってくる人が出てきました。それで捕虜の中で、もと料理人だった人が申し出て、日本兵の捕虜の食事を作るようになりました。少し日本風に食事が改善されました。
 このようにして、だんだん落ち着いてくると、これまで、今、現在を生き延びることが最大の関心事だった捕虜たちも、将来のことを考えるようになりました。神風が吹くとか、日本は絶対に負けない、などということを信じる人はもう誰もいませんでした。収容所の誰もが日本はもうすぐこの戦争に負けると考えていました。今度は、日本に帰ったらどうなるのだろう、というのが捕虜たちの最大の心配ごとになりました。
 信じがたいことですが、「お国のため天皇陛下のために立派に死んでください」、と肉親や恋人にいわれて日本を発った人もいました。そういわれた人たちは、それなのに死ななかった。アメリカの捕虜になって太って日本に帰ったら、みんなからどんな目で見られるだろう、どんな風に扱われるか、自害しなかったことを非難されて、村八分に会うのではないか、肉親が世間に顔向けができないのではないか、と非常に心配していました。ここまできても、まだ「生きて虜囚の辱めを受けず」ということが、心理的に重い枷になっていました。アメリカだったら捕虜になろうが、なるまいが、生きて帰れば国のために戦ったということで、花吹雪で迎えられます。
 アメリカ兵も日本兵も、戦場で戦う兵士、という事では変わりはないはずなのに、その社会的背景、命の重さ、軍隊での処遇、物資のサポートには雲泥の差がありました。それは死んだ後々までも、その扱いに表れています。
 捕虜の中には日本へ帰るよりも、むしろアメリカへ送られた方がましだ、と思っている人もいました。アメリカ軍に協力したら、戦争が終わったらアメリカへ連れていってもらえるかも知れないと思って、卑屈なまでにアメリカ軍に協力する人が出てきました。

敗戦 帰還


 終戦を知ったのはこの収容所でした。私には強い衝撃も感慨もありませんでした。すでに捕虜になって半年も収容所で働いたし、その間、日本の敗戦は時間の問題だ、と誰もが思っていました。終戦になったからといって特に変わったことはありませんでした。
 ただ一つ変わったことといえば、半年いたこのオールド・ビリビッド収容所からモンテンルパの収容所に移されたことでした。これまで通りモリと一緒で部屋も同じでした。
 移って間もないある日、モリがMP(ミリタリーポリスの略)に呼ばれて行ったまま、なかなか戻って来ませんでした。 
 五、六時間も経って部屋に戻ってくると、一言もいわずに寝台に身を投げたまま、長い間じっと天井を見つめていました。それから向き直ると、これまでずっと尋問を受けていたのだと言いました。
 マニラでモリの部下だった者が、彼のやっていたことをアメリカ側に通報していたこと。アメリカ側はモリの任務や仕事の内容をすでに知っていたことなどを打ち明けてくれました。初め彼はすべて否認したけれど、アメリカ側は証人も押さえているので、こんどまた尋問されたら、いさぎよく全てを認めようと思っていること。その場合、アメリカの市民権を持っているモリは銃殺、絞首刑になる可能性もあるといいました。
「ぼくは、人を虐待したり拷問したり殺したり、ということは決してしなかったけれど、アメリカという国家を裏切っているからね」とモリは低い声で言いました。
 この仕事を引き受けた時、アメリカの市民権を持っている自分が捕まった場合、そういう危険性があることも十分承知していた。だから自分には覚悟ができている。しかし、ただ一つ心残りなのは、日本にいる親戚には、フィリピンで自分に何があったのか、知らされず解らないだろう。それで、今から手紙を書くので、もし自分に万が一のことがあったら、その手紙を日本へ持って行って欲しい。そう言って、モリは手紙を書き始めました。
 私は何も言うことができないまま、モリが手紙を書くのを見ていました。必ず手紙を届けると約束すること、それ以外にできることはありませんでした。
 モリは手紙を書き終わると封をして、これを日本へ持って帰って、ある人に届けて欲しい、と言って手渡しました。
 翌日から、彼は、いつ次の呼び出しがあるかと待っていました。ところが、次の日も、その次の日も、次の週になっても、二回目の呼び出しはありませんでした。三週目に入ったとき、モリは、これでたぶん最悪の事態は免れたと判断したようでした。私はモリの遺書が入っている封筒を彼に返しました。
 なぜ彼に二度目の呼び出しがこなかったのかは、わかりません。追求するほどのことではないと判断したのか、モリが日本の貴族の血縁だったからなのか、モリの二人の兄さんがアメリカの軍医だったからか、フィリピンの上流社会のガールフレンドが手を廻してストップしたのか、真相を知るすべはありませんでした。
 
 モンテンルパの収容所でも、また通訳の仕事をしました。捕虜病院で病人とアメリカ側の医師、看護婦との間の通訳でした。
 ここでも非常に感心させられました。アメリカ人の医師をはじめとする医療班は、捕虜たちを患者として人道的にめんどうをみていました。この捕虜病院に入れられたおかげで、命を助けられた日本人捕虜がたくさんいました。衛生施設も整っていて、薬なども捕虜の病人のために惜しげもなく使っていました。栄養失調やマラリヤで、もう死の一歩手前まできているのが素人目にもあきらかで、たぶんあの人は助からないだろう、というように見えた人でも、一ヶ月入院している間に回復に向かっていきました。このことは、回復して無事日本に生還したご本人が一番良く知っていると思います。ところが、こういうことは日本ではあまり知られていません。捕虜になって連合国側からどんなに屈辱を受けたか、どんなに酷い扱いをされたか、ということを本に書いた人は何人もいます。連合国側を非難する方が日本では受け入れられるのでしょう。しかし、敵の捕虜になってみると相手は人道的で病気を治し日本に帰還させてくれた、アメリカ軍の捕虜になって命拾いをした、とは言えないのでしょう。
 八月十五日の終戦の日に戦いのすべてが終わったわけではありませんでした。ジャングルに入った日本の兵隊のなかには終戦を知らない人もいたし、知っていても上官の命令で投降できない部隊もありました。直ぐに投降して捕虜病院で手当を受ければ助かった人がかなりいたと思いますが、その機会に恵まれずに亡くなった人が大勢いました。
 重体だった捕虜たちが船旅に耐えられるまでに回復して、彼らを乗せた最初の病院船が日本に向けてモンテンルパを発ったのは、終戦から三ヶ月経っていました。
 重病の人を除いて、病気の重い人から先に帰還が始まりました。病気の重い人から先に帰す、というのは病院側の人道的配慮だったのですが、実はこれは実際的ではありませんでした。なぜかというと当時の日本には満足な医療施設も薬品も食料も無かったからです。モンテンルパの病院に居たほうがずっと回復率が高かったでしょう。
 アメリカ人の病院長は桟橋に出て帰還船を見送りました。兵士の中には目を潤ませて感謝の礼を述べる人がたくさんいました。
 その頃、私はわりあい健康だったので帰還兵を見送るばかりで、なかなか帰してもらえそうもありませんでした。捕虜の中で英語を話す人はまれだったので、アメリカ側では私が必要だったのでしょう。日本にいる母や兵隊の兄、アメリカの父はどうしているのか、身の上が案じられてなりませんでした。自分の番はいつくるのだろうと思って、
「ぼくはいつ帰してもらえますか」と訊いたら、
「あなたのような健康な人は、きっと最後になります」と言われ、がっかりしました。ところがある朝、顔を洗った後で鏡を見たら、顔がいやに黄色くなっていたのです。だるくて熱もあるような気がしたのでドクターに診てもらったら、「黄疸だ」といわれました。
「本当ですか!では、ぼくはじき日本に帰れるのですね。病気だという証明書を書いてください」と頼みました。病気になって喜んだのはこの時ぐらいでしょう。ドクターはすぐ証明書を書いてくれたので、帰還の許可をもらうことができました。モリが帰国した二週間後に、私もようやく船上の人になることができました。 
 終戦の年の十二月に、高砂丸という船で帰りました。日本の輸送船はひどい状態でした。
 戦争中、東南アジア各地で捕虜になった連合軍の捕虜たちは、輸送船で日本へ運ばれて強制労働をさせられました。連合軍の捕虜たちはこの輸送船を「地獄船」と呼んでいたそうです。船室は蚕棚のようになっていて、過密状態で押し込まれるので、臭いなどひどいものでした。酸欠状態に近かったです。戦後、連合国側はこの時点で、すでに日本側を捕虜虐待といって非難しましたが、この場合に限っては、日本側は捕虜を虐待するつもりで故意にしたわけではないと思います。なぜかというと、日本の民間人も全く同じ状態で輸送されたのです。当時の日本軍ではあれが普通だったのです。
 船室にいたたまれなくて、みんなよく甲板に出ていました。
 ナウル島から日本に帰るときもそうでしたが、今回も気がかりなことがあって安心できませんでした。ナウル島の時は、島にいた間に気がふれてしまった会社の人に付き添って帰国したのですが、この人がジャックナイフを持っていて、寝るときも絶対に体から離さなかったことは前にも話しました。
 フィリピンから帰るときは、沖縄出身のハワイヤンの相撲取りがいつも私と一緒でした。この男も頭が少しおかしくなっていました。この時は彼の付き添いだったわけではなく、彼がわたしのそばから離れてくれないのです。彼は日本語が上手く話せませんでした。それで私が英語を話すと知ったら、いつも後をついてきて離れてくれないのです。誰かと英語で話したかったのでしょう。彼は身体が大きくてがっちりしていたので砲兵隊でした。見るからに力がありそうだったので砲兵隊に入れられて、砲台を引っ張るのが彼の任務でした。詳しい事情は知りませんが、戦争体験が彼の精神に異常を起こしたのでしょう。別に暴力を振るったりする危険な男ではなかったのですか、頭がおかしくなっていたのは確かですから、何かの理由で怒りだしたら、私のような男の一人や二人簡単に海に投げ込むぐらいはできたでしょう。そんな男がいつもそばにいたので、不安で気持ちが落ち着きませんでした。日本へ帰るのだ、という感慨よりも、船の中でその日その日を無事に過ごすことに神経を使っていました。
 その他に非常にショックを受けたことがあります。
 日本到着も間近いある時、いつものように甲板に出てみたら、顔見知りの日本の人たちが集まっていて、紙切れに何か書き付けたりしていました。退屈だったのでそちらに行ってみました。半年から一年近く収容所で一緒に過ごした人たちですが、日本に着いたらみんなバラバラになってしまうので、連絡先などを知らせあっていたのです。
 ところが彼らが書いている名前は、私の知っている名前とは違っていました。ヘンだな、と思っていると、一人の人が言いました。
「実はわたしたちは捕虜収容所にいた間、偽名を使っていたのです。捕虜などになったことが後でわかって、家族や親戚に迷惑がかかるのではないか、日本軍や国からどんな扱いを受けるか、心配だったからです」
「わたしは田中と言いましたが、実は中田というものです」
「わたしは川口といいましたが、ほんとうは川村です」
「わたしは磯村ではなく、磯山です」
などと、みんな口々に言い出したので本当にビックリしました。
 捕虜になった約十ヶ月の間、彼らと一緒にいた期間が多く、モンテンルパの捕虜病院で通訳として働いていた間でも、病気の彼らのために一所懸命通訳をして、その人たちの名前は全部覚えていました。その時々の痛みを訴える彼らの姿や快復して行く様子なども名前と共に覚えていたので、それが全て偽名だったなんて直ぐには信じられませんでした。
 私はアメリカで育ちましたが、両親は日本人、日本で生まれたので国籍も日本ですが、このときほど自分と日本人との間に深いへだたりがあることを痛感させられたことはありませんでした。やはり自分は100%日本人にはなれないだろう、ハーフ・アンド・ハーフなのだと思いました。
 その翌日でした。甲板で誰かが、
「おーい、陸がみえるぞ」と叫びました。
 私にとって、それはまだ一年半しか住んだことのない母国でした。
日本で最初のオプトメトリストになるつもりで、開業するためにアメリカを発ってから五年という歳月が流れていました。
 
 終戦のこの年、日本男性の平均寿命は23.9歳だったということです。
 フィリピンの日本将兵の死者数は47万6千8百人。これには現地召集された日本の民間人、朝鮮人、台湾人の数は含まれていません。
 1945年(昭和20年)8月6日、広島に投下された原子爆弾の当時の推定死亡者数14万人。その後の原爆による50年間の死亡者総数26万3千余人。
 8月9日に長崎に投下された原爆の当時の死亡推定数7万人。その後の50年間の死亡者総数15万2千余人。
 長崎の原爆投下から5日後に、日本はポツダム宣言受諾。8月15日に昭和天皇により、ラジオで終戦宣言がなされました。 
 太平洋戦争による日本側の戦闘員、非戦闘員を含む総死者数は310万人を超えるといわれます。終戦当時、中国大陸、アジアの各地、太平洋の島々には、600万を越える日本軍人や軍属、一般人が残されていました。これらの人々の復員船による日本帰還が始まったのは、終戦の年1945年の10月でした。

1


第9話  戦後の日本 


母のいる長野へ


 私が乗った復員船高砂丸が名古屋埠頭に着いたのは十二月でした。フィリピンの捕虜収容所で着ていた夏の半袖の服のままで着いたので、みんな寒さで震え上がっていました。
 日本国政府からはわずかな金が支給されただけで、汽車賃を払うと、手元にはあまり残りませんでした。
 日本には着いたものの帰る実家があるわけではなく、どこへ行って何をしたらいいのか、直ぐには分かりませんでしたが、母が長野の病院で勤労奉仕をしていたことは知っていたので、ひとまず、母がいるはずの長野の親戚の家に行くことにしました。とりあえず一泊したあと、同じ復員船で知り合った新潟へ帰る五十は過ぎていると思われる年配の人と途中まで一緒に行くことにして、上諏訪行きの切符を買いました。
 翌日、上諏訪を通る汽車に乗ることができましたが、この汽車は窓ガラスが壊れていて、ガラスが入っていませんでした。汽車は身動きでいないほど満員で、乗客は入り口のドアだけでなく窓からも乗り降りしていました。だんだん山に入っていくに従って、寒くてどうにもならなくなってきました。マニラの収容所を出てきた時と同じ格好で、日本の一二月に窓ガラスの入っていない汽車に乗ったので寒いのは当然です。こんなに寒い思いをしたのは初めての経験でした。アラスカでも、夏に行ったのでそれほど寒くはありませんでした。途中まで道中を共にすることになった彼が、
「このまま汽車に乗っていたら肺炎になってしまう。せっかく何度も九死に一生を得て、日本にたどり着くことができたのだ。ここで肺炎なんかで死ねない。とにかく一度降りよう。温泉宿でも探して身体を温めよう」
と言ったので、いったん汽車から降りることにしました。ところが下車したものの、泊めてもらえる宿がなかなか見つかりません。味噌と醤油を持ってこなければ泊められない、といって断られるばかりでした。
 この頃、宿に泊まるのに味噌、醤油が要るとは知りませんでした。その味噌、醤油も店に行って金を払えば買える、というものではありません。途方に暮れていた最後の一軒で、私が英語を話せることがわかって、子供たちに英語を教える条件で泊めてもらうことになりました。そばに米軍が駐屯しているが、英語が解る日本人がいなくて困っている、少しでもいいから子供たちに英語を教えて欲しい、ということでした。
 その宿から母に連絡を取ってもらいました。
 電話の向こうで、喜びに弾む母の声が聞こえてきました。
「今すぐ、そちらに行きます」といって電話が切れましたが、この頃の交通事情なので、一日がかりでした。母がセーターやオーバーコートなど暖かいものを同行者の分まで、いっぱい抱えて宿に着いたのは翌日でした。
 その宿に一週間ほど滞在して、中学生の子供たちに英会話を教えてから、長野の母の親戚の家に行きました。

 母の疎開先の長野に一週間ほど滞在した後、東京に行きました。
 家は奇跡的に空襲をまぬがれていました。翌日、会社の事務所にも顔を出してみました。
 事務所の人は私を見て驚いて、
「いつお帰りでしたか?」
「2週間ほど前に日本に帰ってきました」
「2週間ほど前? それで、今までどこにいたのですか?」
「長野にいました。母の生死を確かめに行ってきました。無事で元気でいたので安心しました」そう答えると、相手は呆れ顔で、
「そういうことは、まず会社に顔を出して、挨拶してからするものだよ」
と言いました。それを聞いて、私の方があきれかえってしまいました。
 日本は全国各地で空襲を受け、最後に広島、長崎に原爆を落とされて降伏。無数の死者が出ています。そのような状況で、私にとっては、まず母親に会いに行くのが当然のことで、自分の親の生死も確かめず、会社へ行く方が異常な行動です。
 両親は日本人ですが私はアメリカで育っているので、会社、第一という日本人の考え方が理解できませんでした。
「なぜ、最初に会社に来なかったか?」といわれて、無性に腹が立ちました。
 それは、たぶん会社に対してだけではなく、日本軍、日本の社会、母国、自分の運命に対するムラムラとしたやり場のない怒りだったのでしょう。事務所の人が、
「マニラにいた間の給料を保管してあるから払ってあげよう」と言いましたが、
「そんな、腐った金はいりません」と言って、その部屋を出たきり、二度と会社へは戻りませんでした。 

モリとの再会


 日本に帰ってしばらく、何をしたらいいのか見当もつかず、その日その日をやり過ごしていたら、なんだかふいにモリに会いたくなりました。フィリピンで別れたときに渡してくれた住所をたよりに彼を訪ねてみることにしました。
 探し当てた住所には邸宅がありました。立派な門をくぐり玄関のドアをノックすると、中年の執事が出てきて書斎へ通されました。待っているとトントントンと軽やかな音がしたので、そちらに目をやると、金髪の女性が髪をかき上げながらスカートの裾をひるがえして階段を降りてくるところでした。それから間もなくモリがガウン姿で2階から降りてきました。朝10時頃だったので、ちょっと早く来すぎたかな、と後悔しました。
「いやー、よく訪ねて来てくれました。それにしても、よくここが見つかりましたね」
と言った後で、
「彼女に会いましたか?」ときかれました。
「さきほど階段を降りてくるところを見かけました」と返事をすると、
「彼女は、僕の昔からの友人です。今、米軍のエンターテイメントの仕事をしています」という返事でした。しばらく世間話をした後で、
「銀座にぼくのオフィスがあるので、ぜひ一度、訪ねてきてください」と言って名刺を渡されました。
 数日後に、銀座に出てモリのオフィスを訪ねました。銀座は焼け野原でした。まともな建物がほとんどなかったので、視界の端から端まで見渡せました。住所が書いてある所に建物などあるのかと半信半疑で歩いて行きました。そうしたら、辛うじて焼け残ったというような半分崩れかけた2階建ての建物がみつかりました。中に入ると廊下は真っ暗で、こんなところにオフィスなんてありそうもない、と思いましたが、せっかくここまで来たのだから、と気を取り直して2階の番号が書いてある部屋を探し当てました。ドアをノックして中に入ってみて驚きました。そこは別世界でした。床にはふかふかの絨毯が敷いてありました。奥には立派な大きなデスクがあり、肘掛の付いた回転椅子にモリがこしかけていました。部屋の隅には小さなバーが設えてあって、日本の庶民が見たことも無いような洋酒のビンが並んでいました。
「よく来てくれました」
と言って、モリは机の引き出しから洋モクをとり出して勧めてくれました。私は信じられないような気持ちでした。部屋の一歩外に出れば、ボロボロになってしまった日本があり、上野駅の地下道は、空襲で家と両親を失った浮浪児たちが、ぼろをまとって雑魚寝をしていました。人々はまだ飢えていて、今日と明日の食料を得るために必死になっていました。
 それなのにここだけが別天地でした。モリはフィリピンの捕虜収容所から戻って、まだ三ヶ月ほどしか経っていないはずでした。彼はもうすでに東南アジアに行ってきた、ということでした。もう旅行などが可能なのか、と私には不思議でした。
「喫茶店にいきましょう」と誘われて、一階にある喫茶店へ一緒に行きました。
「この店どうですか? 気に入りましたか? 僕の店なんですよ」といいながら、そこにいた華族のいとこや知り合いの人に、紹介されました。
 モリがどうしてこんなことができるのか、私は不思議でなりませんでした。彼とはフィリピンの捕虜収容所で、同じ部屋で一年近く寝起きを共にしましたが、日本に戻ってみると、彼のオフィスと同じようにモリも自分とは別世界の人間なのだ、と思いました。それっきり、二度とモリとは会いませんでした。お互いに住む世界が異なっていて、それぞれに忙しくなってしまったからでした。

マッカーサーの眼鏡


 仕事をみつけて働かなければ、と思いながらジャパンタイムズの職業欄を読んでいたら、米軍がオプトメトリストを募集していました。
 戦争中は、敵国の言葉、英語の使用が禁止され、野球用語も日本語に置き換えられ、ジャパンタイムズも例外ではありませんでした。伝統ある大和の国日本を、ジャパンなどと、英語で書いたり呼んだりするのはけしからん、という軍の意向に従い、戦時中は日本タイムズに変わっていたのが、敗戦と同時にまたもとのジャパンタイムズに戻りました。
 米軍のオプトメトリスト募集に応募してみることにしました。自分で開業することができなくても同じ仕事だし、まずは何事も経験だと考えて面接にいきました。
 面接が始まると、まず初めに、
「あなたは、オプティシャンですか?」と訊かれました。オプティシャンは眼鏡を作る人で、オプトメトリストは検眼をする人ですが、この頃はアメリカ人でも区別が付かない人が多かったのです。
「私は検眼をするオプトメトリストですが、オプティシャンの仕事は1週間も時間をもらえれば覚えられます」と答えました。
 オプトメトリーを修得していれば、オプティシャンの仕事は、わりあい簡単にできるので、虚偽ではありません。他に英語を話せるオプティシャンの応募がなかったのか、採用されて築地にある米軍が接収した旧日本海軍病院で直ぐに働くことになりました。
 職場にはアメリカ人のオプティシャンが3人いました。彼らは、終戦まで戦場で働いていた人たちでした。戦闘中に壊れた眼鏡を、戦地で直ぐまた使えるように直す仕事をしていました。
 私はこの職場でオプトメトリーとオプティシャンの両方の仕事をしました。クライアントのほとんどは進駐軍の兵隊でした。戦争中、彼らは日本兵と戦ってきたので、日本人に検眼してもらうのは抵抗があるだろうから、ということで階級の付いていない軍服を着て、アメリカの民間人が軍で働いているような格好で彼らを診ました。私の英語はアメリカ訛りの英語なので、初めから軍にいたような印象を与えて、兵隊たちとの間に摩擦がおきることはありませんでした。
 アメリカ兵のほかに戦犯として巣鴨の刑務所に入れられていた日本人も診ました。ポツダム宣言を受諾した時の日本代表団のメンバー、重光馨もその一人でした。刑務所から日本人が来た時は必ずMPが付き添い、検眼中も余計なことを話さないように監視していました。
 日本人以外では、戦後処理のために来日していたロシア人将校もいました。いつも通訳同伴で、もちろんMPの監視が付きました。
 私が非常に驚いたのは、朝鮮戦争が始まってからは、朝鮮人の捕虜にも検眼をして、正しい眼鏡をかけさせていたことでした。朝鮮で負傷をしたり病気になった朝鮮人捕虜たちを日本に連れてきて治療をしたり、検眼までしていました。朝鮮人の捕虜たちには日本語ができる人が多かったので、やはりMPが付いてきて監視していました。
 その他には、北朝鮮の捕虜になって捕虜交換で釈放され、日本に送られて来たアメリカ兵がいました。彼らを検眼する時もMPの監視付きでした。捕虜にされている間に洗脳された可能性があるからだ、ということでした。
 ある日、診療室に将校が粉々に壊れた眼鏡を持ってきました。彼はマッカーサーの部下で眼鏡はマッカーサーのものだということでした。眼鏡はまるで靴で踏み潰したように壊れていました。私はそれを見て、思わず「うーん」と唸ってしまいました。
「これでは新しいのを買った方がいいのではないですか」と言うと、その将校は、
「彼が特別愛着を持っている眼鏡なんだ」と言いました。
「だからぜひ直してほしい。あなたならできるはずだ」と言われたので、できるだけやってみることにしました。
 破片は40から50はありました。修復はまるでジキソーパズルをしているようでした。セルロイドでできていたので、アセトンデンを使ってちょっと溶かしながら、綿棒で破片をつけると付着しました。この方法を根気よく続けて元の形に戻すことができました。
 マッカーサー自身は検眼にきたことはありませんでしたが、奥さんのジーンと12歳になる息子さんは検眼に来ました。

米兵たちと眼鏡の枠


 アメリカ兵たちは、北海道から沖縄まで全国の基地から検眼に来ました。
 なかには面白い兵隊がいて、彼は札幌から検眼に来ていました。いつもどおり、
「どうしましたか? どこか具合がわるいのですか?」と問うと、眼鏡を取って目と目の間の鼻の部分を押さえて、
「ここが時々キーンと痛くなる」と言って深刻な顔をしました。
「どういう時に痛くなりますか?」と訊くと、
「アイスクリームを早く食べると必ず痛くなる」という返事だったので、私は思わず笑ってしまい、兵隊もつられて笑い出しました。
「あなたに必要なのは、検眼ではなくてホリデーでしょう。東京に来たからもう治っているはずですよ」というと、
「そうだといいんだが」と兵隊が答える、というようなことがありました。
 米軍は眼鏡の必要な兵隊には無料で支給していました。ところが兵隊たちは、軍から支給される眼鏡の枠が気に入らなくて、街に出て行って自分の金で勝手に眼鏡をつくっていました。そのこと自体には問題はないのですが、このころの日本の眼鏡屋では乱視を検査する機具もありません。それぞれの顔にあった枠の眼鏡に作り直してはいるが、肝心のレンズの焦点が合っていません。眼鏡屋は乱視について知らないから、枠に合わせてレンズを勝手に切ってしまう。私がせっかく検眼して目にあった正しいレンズで、焦点を合わせて眼鏡をつくっても無駄でした。焦点の合わない乱視の眼鏡をかけていると、よく見えないし、頭痛がしてくることがあります。それでまた私のところに戻ってくる。調べてみると、せっかく合わせて作ったはずのレンズの焦点がずれている。こういうことが問題になって、軍の支給するフレームがそんなに嫌なら、軍で仕入れを許可する。私なら兵隊たちの好みがわかるだろうから、兵隊たちの好みに合わせて選べるように何種類かのフレームを仕入れて販売してよい、ということになりました。
 日本人の私が米軍の中で商売をすることになったわけです。アメリカ兵は私が仕入れてきたフレームから自分の好きなものを選び、また、こういう形を仕入れて欲しい、と注文するようになりました。好みのフレームできちんと検眼して眼鏡が作れるようになり、兵隊たちは喜んでいました。私にとっては米軍内で軍の費用で開業したようなものでした。

運命のいたずら


 帰国してまだ長野にいた頃、兄の親友だという人から母宛に1枚の葉書が届きました。兄の戦死の知らせでした。
「今年の元日に、ザンバレス州マシンロック市に駐屯中、米軍の艦砲射撃により戦死されました」という内容でした。
 兄は無線兵でした。葉書を送った人は兄と同じ部隊で、何度も生死を共にした戦地での親友だった、と書いてありました。
 葉書を読んで驚きました。フィリピンでほんの数時間ですが、兄と私は数10メートルも違わぬ場所にいたことがあったのです。
 私がマニラで働いていた間に、軍人が会社に来たことがありました。
「米軍が放棄していったトラックが山の中にあるが、会社で使いたければ差し上げる。しかし山の中に置き去りにしてあるので、要るのなら自分たちで取りに行ってください」
という話でした。
 会社はそのトラックを引き取ることにしました。トラックは10台あるということで、フィリピン人の運転手10人をかき集め、護衛の日本兵2人と山に向かいました。行ってみると確かにトラックが10台、野ざらしになっていました。しかし3年近くも放置してあったのですぐには動きません。フィリピン人の運転手たちと日本兵とで整備をし、なんとか動くようになったトラックに乗って山を降りていきました。といってもトラックは途中で何度もエンコをするので、直しながらの道中です。暗くなってきて危険なので、途中のマシンロックという日本軍が駐屯している町に寄って行き、そこでもう一度トラックを整備させてもらうことにしました。懐中電灯の小さな明かりで一晩中整備をして、終わったのは朝の4時でした。それはクリスマスの晩のことでした。兵隊たちはまだ兵舎で寝ていました。そのなかに兄がいたとは知る由もありませんでした。私たちは兵隊たちが起きてくる前に、そこを発って無事にマニラに戻りました。
 年が明けた元日、マニラの日本語新聞に「マシンロックという町に、米軍の艦砲射撃があったが、わが軍は無事であった」という記事が出ました。いつものことで、どんなにやられても、わが軍は無傷というのが日本の報道の常だったので、私は文面をそのまま信じないようにしていました。味方の損傷は微々たるもの、と書いてあると、これはだいぶやられたな、と思いました。元日の新聞を読んで、(危ないところにいたな、長居をしなくて良かった)と安堵しました。その時は、兄がフィリピンにいることさえ知りませんでした。兄は3度召集されていましたが、いつも中国北部に行っていたので中国にいるものとばかり思っていました。この時、私たち兄弟は会って話をしようと思えばできる距離にいたのです。私はアメリカ、兄は日本で育った縁の薄い兄弟でしたが、それだけに、この時会えなかったのは残念でなりません。
米軍がマニラを奪還したのはそれから二ヵ月後。日本がマニラを占領してから三年後でした。正式な兄の死亡通知が日本政府から母の元に届いたのは、それからさらに二年経ってからでした。
さて、運命のすれ違いがあったのは日本の兄だけではありませんでした。
 米軍で働き始めてしばらくしてから、意外な人の訪問を受けました。アメリカの兄、ロドリックでした。
 アメリカ人とほとんど変わらない英語を話す日本人二世のオプトメトリストが、米軍で仕事をしている、という話を聞いて、名前を調べたら私だということが解って、休暇を取って立川から会いに来てくれたのです。
 ロドリックはポートランドでジャッキーと知り合うきっかけとなった人で、少年時代を一緒に過ごしました。私はロドリックを自分の兄のように感じていました。ジャッキーの家族からはたくさんのことを教わりました。ごく普通のアメリカ人の考え方や生活ぶりを外から観察するのではなく、内から肌で感じ取っていたのも少年時代を彼らと家族同様に過ごしたからでした。
 アメリカに住んだ経験があればアメリカのことが解る、というわけではなく、たとえアメリカに移住し何年住んでいても、家庭内で日本語を話し、日本語の新聞雑誌を読み、日本食を食べ、日本人社会を作ってそこだけで生きていれば、アメリカのこともアメリカ人についても、あまり理解はできません。私がその頃の日本人移民と多少違ったところがあったのは、ジャッキーの家族と知り合ったからでした。
 ロドリックと私は、互いに戦争を生き延びて再会できたことを喜び合いました。家族の消息や少年時代の思い出話に花を咲かせたひと時を過ごしたあと、
「ところで、戦争中はどうしていた」
と、どちらからともなく訊きました。
「僕はソロモン島にいて、太平洋地域で爆撃機に乗っていた」
とロドリックがいいました。
「僕はナウル島とフィリピンで通訳をさせられていた」
と言いました。するとロドリックの表情が変わって、
「トミー、ナウル島にはいつ頃いた?」と聞きました。
「戦争が始まって半年ほどたってから、一年間いたよ」
「そうか、トミーがナウル島にいたとは知らなかった」
そういって、彼は感慨深げでした。
「トミーは、空爆にはあわなかったよね」
「いや、それがあったんだよ」
「そうだったのか・・・・」
「ロドリック、まさか君がナウル島を爆撃したんじゃないだろうね」
「いや、実は一度だけ爆撃機に搭乗していた」
「そう、たったの一度だけだったね。三機しか来なかったけど、ロドリックはどれに乗っていた?」
「二番目、真ん中のだよ」
「うわっ、もう少しで僕を殺すところだったじゃないか。僕から三メートルくらいしか離れていないところに、君は爆弾を落としたんだぞ!」
「そうだったのか。あの時、トミーが真下にいたなんて、夢にも思わなかった」
「外れて良かった!!」
と二人が同時に叫びました。
 あの広い太平洋の真ん中で、針の先で突いたような小さな島の一点で、あの一瞬、地上と上空の同じ地点に二人がいたなんて、信じられないような気持ちでした。
 再会が、なおいっそう貴重で素晴らしいものに思えました。 

母の就職、結婚、父との再会


 私が築地にある米軍の旧海軍病院で働き始めて間もなく、母も長野から東京に出てきました。アメリカにいるはずの父からは何の音沙汰も無く、生死さえわかりませんでした。
 母は仕事をしたいと言っていましたが、手に職を持っていたわけではないので、どのような仕事をどのようにしてみつけたらよいのか解らないでいました。
 そんなある日、九段坂にある進駐軍が接収したホテルで人を募集している、と言う話を聞いてきました。
 戦争中の日本軍の戦争犯罪を裁くために、極東国際軍事裁判が東京で開かれることになりました。世にいわれる「東京裁判」です。この裁判に関わる連合国側の人員が東京に集まってくることになったので、進駐軍は彼らが泊まるためのホテルを接収し、管理する人を探していました。
 母はそのホテルマネージャーの仕事に応募しました。
 面接で「ホテル管理の経験はありますか」と聞かれて、母は「あります」と答えた、といいました。実際は未経験でしたが、まったくの虚偽ではありませんでした。
 アメリカにいた時に両親はホテルの共同経営者でした。
 当時、父のゴルフ仲間で親しく付きあっていた人がいました。彼はホテルを2軒経営していました。その彼が、「今、とても買い得なホテルが売りに出ている。駅の直ぐ前でモンタナホテルというのだが、一緒に買わないか」と話をもちかけました。両親は、彼と半額ずつ出し合って、そのホテルを買い共同経営者となりました。だから母は、戦前のアメリカでホテルのオーナーでした。
 九段坂のホテルは名ばかりで、戦争中は放置してあったのでしょう。中は荒れ放題で、その形態をなしていませんでした。まず絨毯を敷いて、カーテンをかけ、シーツや毛布を用意し、コックやメイドを面接して採用することから始めなければなりませんでした。
 英語が話せて経験もある、ということで母が採用されました。
「経験も無くて大丈夫?」と、心配してきくと、
「主婦だったらそれくらいのことはできます。私は主婦とお父さんの事業と両方していました。ホテルだからといって驚くことはありません。大きな家だと思えばいいのです」という返事でした。
 母は張り切ってホテル・マネージメントの仕事に挑戦し、采配をふるったようです。その姿がマッカーサー総司令部の目にとまり、東京裁判が終わった後は、マッカーサー司令部で働くことになりました。
 母の仕事は、丸の内にある第一生命会館に設置された総司令部の受付のチーフでした。司令部の入り口を入っていくと、広いホールがあって正面に大きなデスクがありました。そこが受付で、母と他に二人の女性が控えていました。たとえ総理大臣、警視総監といえども受付を通さなければ、それ以上中に入ることも、誰に会うこともできません。
 私は昼間、築地の旧海軍病院で働いて、帰りにマッカーサー総司令部に母を迎えに行き、一緒に帰宅するというのが日課になりました。その頃、マッカーサーを何度も見かけました。非常に身だしなみが良く司令部から出て行くときは、ホールにある大きな鏡で姿を確認し、頭にクシを入れる姿が印象的でした。

 それからしばらくして、アメリカにいる父と連絡が取れ、無事でいることがわかりました。終戦後、父は直ぐ日本に帰ることも考えたが、日本では、みんな食べることに精一杯で、着る物は暑さ寒さをしのげればそれで良い、という状態だ、と聞いていたので、しばらくアメリカに留まることにしましたが、激しく日本人を排斥した西海岸には戻る気がしないので、収容所で知り合った人と一緒にシカゴで仕事をしてみることにした、ということでした。
 私は、ちょうどその頃、知り合いの紹介で近所の女性と見合いをしました。会ったとたんの一目惚れでした。出会いは見合いでしたが、恋愛と変わらない状態でした。
 戦争、捕虜、敗戦、帰還という地獄を潜り抜けた後、荒れ果てた焼け跡の東京で、天使に出会ったような気がしました。歩いても行ける距離に住みながら、互いに知らなかったのが不思議なくらいでした。直ぐに結婚しました。
 それから3年経って、父がアメリカから帰ってきました。父の帰国を潮に、すでに五十を過ぎていた母は仕事を辞めました。だからといって、家にじっとしているような母ではありません。この頃からボランティアなどもして、始終あちこちに出かけていました。
 ある日、親戚の人に会いに行くといって出かけ、脳溢血で倒れました。それから十年以上、母は東京の家の二階で寝たきりの生活を送りました。父はまるで母の病気のめんどうをみるために日本に帰ってきたようなものでした。父もこの頃六十代になっていました。父は十年母を看病し、母が亡くなった三ヵ月後に、後を追うようにして逝きました。

日本縦断講演


 米軍の病院で働いている間に、特別に許可が出て、眼鏡のフレームを販売するようになりましたが、これがきっかけで東京眼鏡卸売業会の人たちと知り合いになりました。彼らは、浅草近辺に住んでいるチャキチャキの江戸っ子で、それまで私が聞いたことがないような日本語を話しました。戦前のアメリカでも戦争中の東南アジアでも、なぜか東京の下町に住んでいた江戸っ子に会う機会がありませんでした。彼らの言葉に慣れるまで少し戸惑いましたが、さっぱりした気持ちの良い人たちだったので、すぐに彼らが好きになりました。ただ、驚かされたのは、彼らは眼鏡の販売で生活の糧を得ていながら、レンズや目についての知識を、ほとんど持ちあわせていないことでした。彼らが知らなかっただけではなく、当時の日本ではそういう知識のある人はいませんでした。知っていたのは遠視と近視、老眼だけで、乱視についての知識は皆無でした。それで、目の構造やレンズ、検眼の方法などについて、それとなく話して説明をすることにしました。
 ある時、卸売り業界の人に集まってもらって、アメリカから持ってきた検眼の機械をみせて、実際に機械を覗いてもらうデモンストレーションをしました。みんな驚いて、口々に「不思議だ」「不思議だ」といっていました。
 この当時、日本にはオプトメトリー(検眼)という分野が存在しなかったから、それを説明する専門用語もありませんでした。それで、専門用語を説明するために、言葉を造語することから始めました。まずオプトメトリストは、日本には歯科医という言葉があるから、検眼医といえば解りやすいだろう、と考えて検眼医と呼ぶことにしました。機械を使っての検眼方法を説明する場合も、英語の専門用語を日本語で造語しなければ説明不可能。例えば、機械を使って検眼する時、患者の目に反射した光が反対方向に動くことを、英語の専門用語では、リフレックス・アゲインストといいますが、これを「逆動行」と呼ぶことにしました。この「逆動行」「検眼医」など私が造語した言葉は現在でも使われています。
 そのうちに、私は東京眼鏡卸売り業界の人たちと日本全国を講演して歩くことになりました。米軍でオプトメトリスト兼オプティシャンとして働いていたので、休みの土曜、日曜に出かけていきました。目的地に着くと、卸売り業界の人があらかじめ手配していて、土地の眼鏡屋さんが集まっていました。そこで目の構造、レンズ、検眼、眼鏡について講演しました。講演の後は土地の人と話しをし、郷土料理を食べ、温泉に入ったりしました。眼鏡の卸売業会としては、地方の眼鏡屋を集めて講演会をすることは、小売業者に対するサービスであると同時に、眼鏡に関する知識が広まれば、注文が増えることにも繋がるので、商売の一環でもありました。私には講演料が出ました。業界の人たちは講演料をはずんだつもりだったかもしれません。が、私にとっては僅かな額で、講演料は問題ではありませんでした。自分が修得した知識を日本の人たちに伝え、広められることが喜びでした。母親の血を引いたのか、人前で話すことは決して嫌ではありません。それに講演会は、私にとって母国を知る良い機会でした。南は九州、鹿児島から北は青森、北海道まで全国各地を回りました。講演の後で質問を受ける時など、方言がさっぱり解らなくて通訳をしてもらうこともありました。日本のような小さな国で、地方によって言葉や食べ物の味や種類がちがうこと、文化や気質まで異なることを、この講演会を通して初めて知りました。同時に日本にはこれほど近視、乱視の人が多いのに、検眼の分野が非常に遅れていることも痛感しました。日本は明治維新後、西洋の技術を修得し追いつくことに懸命に努力をし、国家の威信をかけた産業技術の結晶となる戦艦大和やゼロ戦闘機を作りました。しかし庶民の日常生活に必要な眼鏡などは後回しにされたのでしょう。
 ある時、2時間近くも講演した後で、
「検眼用のレンズを使わないで、検眼する方法を教えてください」と言われました。
 質問の意味が解らないので、よくよく聞いてみると、検眼用のレンズを買うのは金がおしいから、手元にある商売用のレンズで検眼したい、ということでした。何のために2時間もかけて、目の構造や検眼の話をしたのかと、がっくりしたこともありました。
 この頃の日本では、一般の人だけでなく眼鏡の仕事に携わる人たちでさえ、目に関する知識は驚くほど乏しいものでした。
 現在でも、眼鏡やコンタクトレンズの使用率は世界一ですが、視力の保護や治療法は、いまだにアメリカやヨーロッパに比べると遅れているように思います。

オプトメトリストとして


 ある日、話があると、オフィサーに呼ばれました。
「あなたは現在オプティシャン(眼鏡を作る)の仕事をしているけれど、本職はオプトメトリスト(検眼医)でしょう」
「はい、そうです」
「どうして、それをもっと前にいわなかったのですか」
「履歴書にも書いたので、ご存知だと思っていました」
「実は、今まで聖路加病院で働いていたオプトメトリストがアメリカに帰ることになったので、代わりの人を探しています。聖路加病院でオプトメトリストの仕事をしてみませんか?その方が今よりポジションもいいし、給料も上がります」と言われましたが、内心は変わりたくありませんでした。
「私はこの仕事が好きだし満足しています」と答えると、
「あなたが職場を変わりたくないのは、ここで眼鏡を販売しているからですか」
「はい、それもあります」
「それについては、こちらで考えておくから、あなたの方も今の話を考えておいてください」と言われました。
 それから1週間経って、「聖路加病院でも従来どおり眼鏡を販売する許可を取ったから移ってもらえないか」と言われて聖路加病院で仕事をすることになりました。
 聖路加病院では、いつも日本全国から医師や研究員が見学に来ていました。この頃の日本は、医学面のあらゆる点でアメリカに比べて遅れていました。戦争中の4年間で、科学的な面では全て遅れをとっていた、といっても過言ではないでしょう。
 駐留軍は日本の医師たちが聖路加病院で見学をし、医療や技術を学ぶことを許可していました。地元東京では順天堂病院の医師や教授が頻繁に出入りをしていました。
 日本人の医師たちが見学に来た時は通訳を頼まれました。それでこの頃、日本の医師を何人か知るようになりました。
 順天堂大学の教授と知り合ったのはこの頃でした。この教授は近視を手術で治す方法を(現在使われているレーザーではなく、メスを使う)考案して、実際に患者に手術をしていました。同時にコンタクトレンズにも興味を持っていて、
「コンタクトレンズを日本に導入したいのだけれど、どなたかアメリカでコンタクトレンズに関係している人を知りませんか?」と相談をもちかけられました。 
 この頃アメリカでコンタクトレンズといえば、ウェスリー上杉といわれるほどで、彼はコンタクトレンズ専門のカレッジを開校していたのは、前にもお話したとおりです。 
 上杉氏は第1回世界コンタクトレンズ・シンポジュームをアメリカで開催し大成功でした。私も招待され休暇をとって出席し、日本からは眼科医が数人参加しました。上杉氏はこの時参加した日本の医師たちとその後親しく付きあうようになり、それからは毎年のように来日するようになりました。上杉氏が来日のたびに、世界コンタクトレンズ・シンポジュウムが縁で知り合った医師たちが彼の世話をしました。
 彼は日本語が話せなかったので、はじめのうちは私が通訳をしました。日本の医師の一人の勧めで、来日のたびに日本の大学に出て論文を発表し、彼はとうとう日本の博士号まで修得しました。 

 聖路加病院で働き始めてしばらく経った1951年に、日本はサンフランシスコ講和条約に調印、翌年に平和条約が発効されました。沖縄と小笠原諸島、本土の一部の基地を除いて、アメリカの占領、統治が終わりました。米軍に接収されていた聖路加病院も返還されることになり、米軍は病院を座間に移すことに決めました。
 ということは、私は東京から座間まで毎日通勤しなければなりません。この頃は結婚して小さな子供がいました。毎日座間まで通勤するのは大変だな、困ったことになった、どうしようかと考えていたら、米軍の眼科のチーフだった人から、東京衛生病院で働かないか、と誘われました。このチーフは、セブンスデー・アドバンチストというキリスト教の一派で、彼らは土曜日を休日とし日曜日は普通に働きます。
 彼は原宿にあるビルのワン・フロアーを借りて開業していました。私にはその一角の一部屋をただで提供してくれました。
 それからは米軍の病院が座間に移るまで、5時まで聖路加病院で働いて、平日は6時から8時半まで原宿で働き、土曜日は休んで日曜日に働きました。場所柄、原宿に検眼に来る人はほとんどが外国人でした。
 ライシャワー大使も検眼にみえました。大使の名前で予約がしてあったので、そのつもりでお迎えしました。ドアを開けて入ってくる大使を見た時、前に一度あったことがあるような気がしました。そうしたら大使のほうから、
「いやーあ、6年ぶりだね」と言われたので、あわててしまいました。
「もうそんなになりますかね」といって、とりあえずその場をつくろいながら、大使の診療カードをなにげなくチェックしたら、6年前、まだライシャワー氏が大学で歴史を教えていた頃に、一度検眼している記録が残っていました。
 私は戦後、たくさんのアメリカ人を検眼したので、検眼した人を全部は覚えきれません。ところが検眼に来た人は、日本にいる間に1度か2度しか検眼しないので、その時のことを憶えています。私が、外見は日本人なのに、話す英語がアメリカ人とまったく変わらないので、よけい印象に残るようでした。
 たまに日本人も検眼にきました。その中には有名人もいて、ボクシングフェザー級のファイティング原田、禅の鈴木大拙も、検眼にみえました。

アメリカン・オプティカル


 日程をやりくりして、アメリカで開催された上杉氏の世界コンタクトレンズ・シンポジュウムに参加して日本に帰ってきてからしばらく経ったころでした。未知のアメリカ人から電話があました。患者の予約申し込みだと思って、向こう1週間は予約がいっぱいだから、来週の後半ならいいと言いました。すると、
「私はアメリカン・オプティカルの者だけど、あなたに折り入って話したいことがある。アメリカン・オプティカルは日本に支店をつくる計画があって、日本語と英語が話せるオプトメトリストか、その知識のある人を探している。あなたのことはハワイで聞いたので、早速ハワイから電話をしているところです」と、相手はいいました。
「ハワイ?」と思わず聞き返しました。ハワイには知り合いは一人もいませんでした。
「あなたにとって興味のあるいい話だから、とにかく会って話をしたい」そう言われて、一週間後に仕事が終わってから会うことにしました。
 アメリカン・オプティカルは、アメリカで一番大きなレンズ会社で、この当時は、銀座の服部時計店が代理店となっていました。しかし扱っていたのは、ほとんどが眼鏡のレンズだけでした。アメリカン・オプティカルはレンズを初めとして、レンズの研磨機、医療器具、電気器具、電子機具、レーザーガラスと様々な製品を製作していたので、そういう製品を日本に売り込む企画を立てていました。

 話がそれますが、レーザーガラスというのは、これを通すと暗いところでも見えます。細部が鮮明に見えるわけではありませんが、だいたいのものは見ることができます。
 第2次世界大戦での太平洋戦争中、日本の兵隊がずいぶんこのレーザーガラスの犠牲になりました。太平洋、東南アジアで、日本の陸軍は闇に乗じて突撃という戦法をとりました。ところがアメリカ軍では銃の焦点を合わせるところにレーザーガラスを付けていたので、日本兵は闇でも簡単に狙い撃ちされました。常識としては、一度闇夜の突撃をして人的被害が大きければ、相手が何か持っていると推察して、止めるとか他の作戦を考えるはずです。しかし、日本陸軍は、そういうことはまったく念頭になかったようです。第二次世界大戦中の日本軍では、兵は一銭五厘の葉書で召集でき、馬より価値がないといわれていたそうです。だから兵隊の損失はあまり問題にならなかったのでしょう。
 レーダーにおいても同じで、アメリカ軍は肉眼で見えない敵の動性を、特に航空機の動きをレーダーでキャッチしていましたが、当時の日本軍にはレーダーがありませんでした。このハンディキャップの大きさは言うまでもないでしょう。

 アメリカン・オプティカルでは、本店を東京に置き、さらに大阪、名古屋、福岡、札幌の4箇所に支店を置く、という企画を立てていました。私が東京の支店長になることを承諾すれば、アメリカのマサチューセッツ州で2ヶ月の研修を受けた後、日本で本店、支店の場所を決めることからスタッフの採用まで全てをまかせる、ということでした。断るにはあまりにも魅力的な条件でした。結局、アメリカン・オプティカルに移る決心をしました。しかしこの時、患者の予約は1ヶ月先まで入っていたので、アメリカン・オプティカルには1ヶ月待ってもらい、その間、新しい予約は取らないようにしました。当時、英語を話すオプトメトリストは東京では私しかいなかったので、診療所からは、ずいぶんと文句をいわれて引き止められました。
 マサチューセッツ州で二ヶ月の研修を受けた後、東京に戻り、ホテルオークラの隣のビルに部屋を見つけて、アメリカン・オプティカルの日本支店を開設しました。社員も六人採用していよいよ本格的にアメリカン・オプティカルの製品を日本で販売することになりました。大阪、名古屋、福岡、札幌に支店を置いて、眼鏡のレンズをそこで加工できるようにしました。これまで日本には凸レンズと凹レンズしかなかったので、乱視のレンズについて説明をし、測り方も教えました。乱視というものがどういうもので、どうやって調べる、ということがわかれば、乱視の人が検眼に来たら、調べて乱視のレンズを注文することができます。まずそういうことから仕事を始めました。マーケットを自分でつくるような状況で、競争相手はいませんでしたが、市場開拓に何年もかかりました。
 米軍で働いていた時に、眼鏡卸売り業界の人たちと日本中、講演をして歩いた経験が、アメリカン・オプティカルでずいぶん役立ちました。また、九州から北海道まで旅をして歩くことになり、日本について知る機会に恵まれました。専門の眼鏡以外にも、医療器具、胃カメラ、心電図の機械というようなものまで紹介しました。

ヘッドハンティング


 アメリカン・オプティカルで仕事を続けて、十年ほど経ったときでした。
 いつものように眼鏡屋さんたちを招待して説明会を開いたのに、どうしたわけか誰も来なかった。以前には一度もないことでした。不信に思って調べてみると、説明会を開いた同日に、日本のガラスとレンズの専門会社、保谷硝子が眼鏡協会の人たちをゴルフのトーナメントに招待していたことがわかりました。
 1960年代に入り、日本の産業や経済が戦争の痛手から快復して、民間会社も力をつけ始めていた時でした。保谷硝子は、日本でレンズを普及させようとした時に、私がすでに日本の主要都市五箇所に支店を設けて、アメリカン・オプティカルのレンズを大々的に販売していたから、私の存在は目の上のタンコブのようなものだったでしょう。
 ある時、この会社にレーザーガラスの説明に行きました。その日、説明会が終わった後、重役が、話があるから会いたいといっている、と伝えられました。私は早速レンズを注文してもらえるのか、と思って喜んで重役に会いに行きました。そしたら、
「うちの会社に来てもらえませんか?」といわれました。
 あまりにも突然で予想外のことだったので驚きましたが、直ぐに断るわけにもいかないので、考えさせてください、と返事をしました。
 考えた末、結局、私はアメリカン・オプティカルを辞め、保谷硝子に移りました。常務として高給、高待遇で迎えられたのです。終身雇用が常の日本の社会で、私のような部外者が名の通った大きな日本の会社で、いきなり常務としての中途採用されるのは、当時としては全く異例なことでした。それだけ会社にとって私の存在が目障りだったのでしょう。それと日本の企業が初めて海外に目を向け始めた時期でもありました。この会社も海外進出を考えていました。英語が話せて検眼とレンズに関する知識のある人を必要としていました。
 レンズ会社が日本で眼鏡のレンズを販売する場合、商売相手は眼鏡屋さんという商人です。しかしアメリカなど英語圏の場合は、オプトメトリストを相手にしなければなりません。彼らはドクターとよばれ医者と同じ扱いをされている人たちなので、日本国内と同じ商売の仕方では通用しません。そういうことを考えると、海外進出を考えていた日本のレンズ会社にとって、私のような者がどうしても必要だったのでしょう。日本の大手のレンズ会社が前例の無い待遇で私を引き抜こうとしたのも、確かな理由があってのことでした。
 私は戦後15年以上アメリカ関係の職場で働いた後、初めて日本の大手一流会社で働くことになりました。日本の会社で働くのは初めての経験でした。戦時中、日本の会社で働きましたが、勤務先は東南アジアの支店で働いている人たちもほとんどが現地人。その上、戦時中という非常事態ということもあって、通常の日本の会社という状態ではありません。まともに日本の会社で仕事をするのは、この時が初めてでした。
 日本語の方は、日常会話に不自由はしませんでしたが、会話の中で上下関係、人間関係がはっきり示される敬語の使用は、まだまだ慣れていませんでした。勝手が違うことが多く、初めのうちは仕事よりも習慣の違いや人間関係のプレッシャーの方が大きかった。仕事そのものよりも、言葉使いと人間関係に気を配ることへのフラストレーションは、さすがに神経に応えました。胃潰瘍寸前までいきましたが、しかし、私の真の仕事場は海外で世界が相手だったから、仕事で日本を出れば、自分の思い通りに仕事をすることができました。当時の主な仕事はボーダーレスレンズ(境の無いレンズ)のマーケットを世界に開拓することでした。
 仕事初めはオーストラリアでした。
 私の他に2世が1人と日本人社員が1人という3人でチームを組みました。
 シドニー在住の日本人から情報をとって、こういう場合、ビールぐらいは飲ませた方がいい、と聞いていたので、ホテルの1室を借りて、まずビールをサービスしてから実物のレンズを使い、幻灯機を使ってボーダーレス・レンズの紹介をしました。
 シドニーではオプトメトリストを25人集めて説明会を開きました。参加者はボーダーレス・レンズを見るのが初めてならば、日本のレンズ会社の名前を聞くのも初めて、レンズの値段を聞いて、なおびっくり、という状態でした。
 「それではドイツのレンズよりも高いではないか」といってあきれていました。
 彼らは日本のレンズなら、アメリカの五分の一くらいの値段だ、と思っていたようでした。この頃、日本の円は変動相場ではなく固定されていて、米ドルに対しては1ドル360円、オーストラリアドルでは1ドル400円でした。それにもかかわらず高いということは、それまで日本が、いかに安いオモチャのような製品ばかり海外に売っていたか、わかるというものでした。
 オーストラリアでは値段が高すぎて、この時はマーケットを開拓することができませんでした。しかし、オーストラリアをかわきりにほとんど世界中に出かけていきました。フィンランドはラップランドの近くから、アジアではビルマへも行きました。一年の内、半年近く家庭を留守にしていました。この間、子育てと両親の面倒は、妻に任せきりでした。その意味では、私も非常に日本的なビジネスマンでした。
 仕事もやりがいがあり、夢中で働いているうちに気がついてみると60代になっていました。その間に子供たちも成人し結婚しました。
 日本は高度成長を果たし一流国の仲間入りをしました。世界状況もずいぶん変わりました。
 それまでバイリンガルの検眼医として、次々と新しい職場にチャレンジしてきましたが、リタイヤーする時期ではないか、と思うようになりました。リタイヤーの地をどこにするか妻と相談しました。終の棲家というわけではありませんが、ちょうど娘が国際結婚をしてメルボルンにいましたので、しばらくメルボルンに住んでみることにしました。
 戦後50年ほど日本で暮らしました。育ったアメリカで暮らした倍以上の年月です。血も国籍も日本人ですが、メンタリティーの上で、どうしても日本人にはなりきれないものをいつも感じていました。
 日本人に批判的なアメリカ人に会うと一所懸命日本の弁護をしますが、反対にアメリカに批判的な日本人にはアメリカの弁護をしてしまいます。完全にどちらかに所属するのは無理なのでしょう。無理に帰属意識を持たなくても、ハーフ・アンド・ハーフで互いに理解しあっていけば良いのではないかと思います。 
 戦中戦後とこれまで無我夢中で生きてきたので、ゆっくり自分の人生を振り返ったこともありませんでした。
 あなたはいい機会を与えてくれました。おかげで両親のこと、アメリカでの幼少年、青年時代をはっきりと思い出すことができました。

「では、ダイニングルームで打ち上げのランチを食べましょうか」
そう言って松浦さんは立ち上がった。私はテープレコーダーのスイッチを切って、松浦さんに続いて書斎を出た。
 初めて松浦家を訪ねてから2ヶ月経っていた。
 ダイニングルームのテーブルには大皿に鮨が盛ってあった。サーモンの握りと海苔巻き。海苔巻きはサーモンとアボカドが巻いてあった。海苔の黒、ご飯の白、サーモンのオレンジ、アボカドの緑が色鮮やかだった。
「この海苔巻き、ここではカリフォルニア・ロールと呼んでいますね。ハーフ・アンド・ハーフ以上の絶妙な取り合わせ、なんともいえない美味さだ」そう言って、松浦さんは立ったまま海苔巻きを一つ摘み口に放り込んで目を細めた。



エピローグ


別れ

 
 松浦さんはご自分の生涯の体験を話し終わって数週間後に、軽い心臓発作に襲われた。軽かったので直ぐに退院され、その後の暮らしぶりも前とあまり変わりなく見えた。しかし、外国で病気になるのは大変なことだ。いくら本人が言葉を完璧に理解していても、身近で看病する周りの者も言葉の理解が必要だからだ。あいにくメルボルンに住んでいた娘さん家族は、ご主人の転勤でメルボルンから引っ越していた。奥様のご心配はいかばかりだったことか、と察してあまりある。松浦さんご夫妻は心臓発作を機に日本に帰られた。それからしばらくして彼はアルツハイマーを併発し、その後、病院を兼ねた施設に入られた。病院では英語を話されることの方が多かった、と聞いた。アルツハイマーが進行するうちに2度目の心臓発作の後、この世を去った。日本が高度成長を成し遂げた後、バルブ期に入り、そのバルブがはじけ、20世紀が終わろうとしていた時だった。
 松浦さんが亡くなられたと知った時、周りに人が居なかったので、私は大声を出して泣いた。トミー松浦の生涯を父親か叔父のように身近に感じていたからだ。しかし出会いがあれば必ず別れがある。自分で選べる場合もあるが、たいがいの場合、別れは突然暴力的にやってくる。受け入れる以外どうすることもできない。
 松浦さんご自身とご両親の20時間ちかくにわたる11本のテープに入った話は、10年以上私の机の引き出しにしまわれたままだった。そのことに私はずっと負い目を感じていた。松浦さんは熱心にご自身の体験を話された。あたかも自分がアルツハイマーを病み、記憶を消失し、この世を去るのを予期していたかのように。
 彼は自分の体験を時代の証言として残しておきたかったのだろうと思う。
 ずいぶんと時間がかかってしまったが書き終わって、やっと約束を果たした、という思いがある。

あとがき


明治維新後の日本と世界、太平洋戦争について、自分の知識があまりにも乏しいと思い知らされたのは、国際結婚をしてオーストラリアに住むようになってからだった。日本を外側から見、太平洋戦争を反対側から見ると様子はだいぶ違ってくる。日本での終戦記念日8月15日は、連合国側のオーストラリアにとっては日本を降伏させた勝利の記念日だ。この日の新聞ラジオでは必ずと言っていいほど、アジア各地の日本の捕虜収容所から開放されたオーストラリア人捕虜の姿が報道され、日本軍の残虐性が強調されてきた。骨の上に皮がついているだけの、あばら骨が一本一本数えられるほど痩せた長身のオーストラリア兵たちが汚れたふんどしをしめ、食器の空き缶を手に食事の行列に立っている写真などである。
 私がオーストラリアに来た1970年代の後半、オーストラリアの反日感情は薄れつつあったが、まだ確かに残っていた。それ以前は、日本人だからという理由でパブに入るのを断られ、プライベイトのゴルフ会の入会を断られた人がいた、と聞く。なぜこれほどまでに、と疑問を抱くのと同時に、太平洋戦争についてもっと学ばなければと思っていたが、外国での結婚生活、子育て、仕事と日々の生活に追われていた。そんな時にトミー松浦に出会った。彼との出会いは、私に日系人と太平洋戦争について学ぶ機会を与えてくれた。読書傾向も変って太平洋戦争に関わる本を読みあさるようになり、メルボルンで放映される第2次世界大戦関係のテレビのドキュメンタリー番組は欠かさずに観て録音するようになった。「お母さんは、どうしてそんなに戦争のことに興味をもつの? 変わってるね」と息子に言われたこともあった。松浦さんとの出会いがなかったら、太平洋戦争は、私にとって歴史の大きな一コマ以上の意味を持たなかったかもしれない。
  松浦さんの話を聞きテープ起こしをしてから執筆にとりかかるまで10年以上、完成させるまでにさらに数年もかかってしまって彼には申し訳ないと思っている。
尚、このストーリーを完成するに当たり、メルボルン在住の細野祥子さんから色々とアドバイスをいただいた。編集、校正、一部事実確認などに関してもたいへんお世話になった。ご協力いただいたことに、あらためて感謝の意を記します。
また、このストーリーに関する感想、ご意見などがありましたら、yokospeirs@hotmail.com
宛てにお送りいただければ幸いです。
 

参考文献及び図書



あめりか物語 永井荷風 岩波文庫
ポーツマスの旗 吉村昭 新潮文庫
イサム・ノグチ ドウス昌代 講談社文庫
漂泊者のアリア 古川薫 文芸春秋社
昭和史 半藤一利 平凡社
昭和史七つの謎 保坂正康 講談社
香港読本 山口文憲 福武文庫
上海時代 松本重治 中公文庫
太平洋戦争 児島譲 中公文庫
太平洋戦争 家永三郎 岩波現代文庫
私の中の日本軍 山本七平 文春文庫
レイテ戦記 大岡昇平 中公文庫
野火 大岡昇平 角川文庫
大岡昇平集(俘虜記) 現代文学大系 筑摩書房
ルソン戦―死の谷 阿利莫二 岩波新書
日本兵 霜多正二 東邦出版社
昭和2万日の記録6太平洋戦争 講談社
女たちの太平洋戦争 朝日新聞社編
典範令と日本の戦争 丸山静雄 新日本出版
二つの祖国 山崎豊子 新潮文庫
マリコ 柳田邦男 新潮社
日米交換船 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創 新潮社
期待と回想 鶴見俊輔 晶文社
アメリカ素描 司馬遼太郎 読売新聞社
メルボルン ナウル共和国広報部「ナウル共和国概要」
世界原色百科事典 小学館
ウィキペディア
As it happened BBC TV
World War 2 Special BBC TV
The World at War BBC TV
The Pacific War in color BBC TV
General Douglas Macarthur BBC TV
Oregon Encyclopedia – Oregon History and Culture, Portland State University
Race War: White Supremacy and the Japanese Attack on the British Empire, Gerald Home, NYU Press
Collaborators and renegades in occupied Shanghai, Bernard Wasserstein, History Today, Vol. 48, September 1998

125