Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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12 オーストラリアン人物録

Ned Kelly                      スピアーズ洋子

オーストラリア開拓時代から現在までの間で、知名度の高い人物を5人あげるとなると、Ned Kelly の名前が必ず入っているはずです。Ned Kelly はアウトロー、山賊ですが、彼を主人公にした物語が作られ、絵が描かれ、映画が創られたりしています。山賊で犯罪者として処刑された Ned Kelly が、オーストラリア社会で、何故ヒーローとなって語り継がれていくのか興味のあるところです。2,3冊の本を参考に、彼の生い立ち、生涯のあらましを追ってみました。

オーストラリア植民当初の開墾は、英国から送られてきた囚人たちの強制労働によるところが大きかったことは、周知のことですが、 Ned Kelly もこの歴史にかかわりのあった一人です。父親はアイルランドで大飢餓(食糧不足が続いた上に、ジャガイモの凶作のため人口の約半分が餓死したといわれる。)が起こる5年前の1842年にアイルランドから流刑囚としてタスマニアに送られました。母親もアイルランド生まれ。

   Ned Kelly は1855年にビクトリア州の Wallan という町で生まれました。後に兄弟や友だちとケリー・ギャングと呼ばれた盗賊団をつくり、その首領となったわけですが、反イギリス、反プロテスタント、特にイギリス領主に対する強い憎しみを親から引き継ぎ、その生い立ちからくる反権力意識が非常に強かった、ということです。後に彼の反権力意識が、権力側の最前線であるポリスマンへと向かっていくのは、当然の成り行きといえるでしょう。

Ned Kelly が11才の時に、家族は同じビクトリア州の Eleven Mile Creek に引っ越しました。新しい土地に引っ越しても、貧しい一家に生活の資金があったわけではなく、生きていく為に野うさぎなどの動物を捕まえたり、ヤビーというエビカニの1種を獲って生活の糧にするような少年時代を過ごします。その間に、bushranger の手下になって、同じ境遇のアイルランドからの流刑囚の息子たちと知り合い、ケリー・ギャングの仲間が形成され、盗みなどの法を犯すようになっていきました。

Ned Kelly が初めて大きな警察沙汰を起したのは22才の時でした。兄弟の Don Kelly を馬を盗んだ疑いで逮捕しようとした警察官と小競り合いになり、警察官の腹部を射撃。Kelly 兄弟に逮捕状が出され、2人は他の仲間2人と bush に逃げ込み、これを機に本物の bushranger となりました。

その間、彼は母親に対する警察官のひどい仕打ちを伝え聞き、警察官への怒り復習の念をつのらせたということです。翌年の1878年、 Ned Kelley 一味を逮捕すべく4人の警察官が bush に入りました。これを迎えた一味は3人を射殺。逃げ戻った1人が一部始終を報告。うわさはビクトリア州から豪州内に広まり、Ned Kelly をめぐって世論が二つに分かれました。

上流階級の人たちは彼を、罪のない警察官を殺した冷血漢の無法者とみなし、彼と似た境遇の人々や労働者はその立場に同情。彼を権力に立ち向かった伝説のヒーローに祭りあげていきました。Ned Kelly の自己弁護は、我々のような流刑囚の子やアイルランドの貧しい移民の子が、酷い扱いをされて法を犯すのにはそれなりの理由がある。4人の警察官は、bush にいる我々を狂犬でも殺すように銃を持って殺しに来た。だから反対に我々に殺されたのだ、というものでした。

彼はこの頃、自分をロビンフッドに見立てたこともあったようです。警察宛に、自分に対する捜査を止め、干渉をするな。貧しい未亡人には10ポンドを与え、孤児のための基金をつくれ。これは私の命令だ、という手紙を書いています。しかし実際は同情的な村人からのわずかな差し入れで日々をしのいでいました。Bush で外部から隔絶された生活をしているうちに、誇大妄想を描くようになり猜疑心が強くなっていったようです。

またこの頃始まった鉄道の設置や電報施設などを、 bush の暮らしを脅かすものと敵視していました。ビクトリア州の北東部に警察などの権力に脅かされず、自由に安心して彼らが暮らせる共和国を作る夢もあったようです。しかし現実は、隠れ家を警察に密告したという仲間の一人を射殺。敷かれたばかりの鉄道線路を破壊し、ホテル(パブ)を占領して無銭飲食、ドンチャン騒ぎをした翌朝、包囲した警官たちと打ち合いになり、逮捕された、というものでした。

一味がホテルを占領した時、人質の客の一人が一計を企て、妻を家に送り帰させてくれと訴えました。彼はこの訴えを受け入れました。このあたりが牧歌的というか紳士的なところといえるのでしょうか。結局それが命取りとなるのですが、後に民衆に受け入れられた理由の一つなのかもしれません。その客は、彼が線路を破壊した所まで歩いていき、警官隊の乗った汽車を手前で無事に止め、警官隊は徒歩で一味が占領していたホテルに向かい、包囲しました。銃撃戦が始まって間もなく、Ned Kelly はあの有名な四角い防弾カブトと鎧を身に付けて、なぜかホテルを抜け出しました。この行為に関しても、反 Ned Kelly 派は、仲間を裏切り自分だけ助かるためだった、といい、同情派は仲間の助けを得る為に連絡を取りにいったのだ、という解釈で、ここでもまた意見が分かれました。

Ned Kelly は警官隊に包囲されたホテルをいったんは抜け出したものの、先に受けた傷の出血で気が遠くなり、仲間のいるホテルに戻ろうとしたところを警官隊に見られ、砲弾を雨あられとあびせられました。この時警官隊は Ned Kelly と確認したわけではなく、早朝の霧の中に幽霊のように現れた化け物に恐怖感から砲弾を浴びせたということでした。倒れた化け物の鎧を取ってみたら、それが Ned Kelly だったのでした。

ホテルは焼き払われ、ギャングたちは撃たれて死亡するか逮捕されて、この1件の幕は降ろされました。

逮捕された Ned Kelly はメルボルンに送られ、4ヵ月後の裁判で絞首刑が確定。その翌月1880年11月6日に the old Melbourne jail で刑が執行され、25歳の短い生涯を終えました。

後に支配層や上流社会の人たちが、Ned Kelly をただの盗賊で誇大妄想、異常心理のギャングとみなすのとは対照的に、オーストラリアの民衆は彼を権力、警察と闘った英雄にまつりあげました。それには反権力の傾向が強いオーストラリアのジャーナリズム、作家や詩人、芸術家も一役かっているようです。

キャンベラの国立美術館にある、オーストラリアを代表する画家の一人 Sidney Nolan が描いた連作の Ned Kelly は特に有名です。最後の事件も四角い鎧を付けた Ned Kelly も抽象化され、まるで童話のような詩的な叙情が感じられる一連の作品です。
 本もたくさん出版されています。そのうちの一部を次に挙げておきましょう。
Ned Kelly: Man and Myth (1968, 1980) by ColinCave

Saint Ned (1980) by Keith Dunstan
Ned Kelly, The Authentic Illustrated Story (1984) by Keith McMenomy


Banjo Paterson

19世紀後半から20世紀前半に活躍したオーストラリアの国民的な詩人。

ジャーナリストであり、法律家でもありました。ジャーナリストとしてはアフリカのボーア戦争、第一次世界大戦に参加。
 作品で一番よく知られているのは、Waltzing Matilda。 その他の代表作は、映画にもなった The Man from Snowy River、Clancy of the Overflow など。作品の底に宿る、都市生活のしがらみから解放され、オーストラリアの大自然のなかで暮らす、自由な生き方への憧れ、リリシズムは多くのオーストラリア人の共感を呼びました。Banjo Paterson により、それまで荒々しい印象ばかりが強かった Bush に詩的な光が当てられ、そこでの生活が、それまでと違った新たな角度から見直されるようになったということです。

Dame Nellie Melba

Dame Nellie Melba は、1880年代の終わりから1910年代にかけて約20年間、世界的に活躍したオーストラリアが誇るオペラ歌手。

1861年にメルボルンの近郊 Richmond で生まれました。母親はピアノ、オルガン、ハープをたしなみ、父親もバスの喉を聞かせる音楽一家に生まれました。メルボルンの女学校 Presbyterian Ladies College (略してPLC と呼ばれている名門女子高)でピアノとオルガンを学んだ後、イタリアのテナー歌手の勧めで声楽に転向。結婚をして一男を得た後ロンドンに渡りましたが、失意の末パリに向かい、パリで成功をおさめました。以来、ヨーロッパを中心にアメリカ、オーストラリアと世界を舞台に活躍。1911年にオーストラリアに Melba-Williamson opera company を設立。後輩の音楽家養成にも貢献しました。現在コンサートによく使われているメルボルン大学の Melba Hall は彼女の名前にちなんで名付けられました。

慣用句で doing a Melba というと、さよなら公演を何度も繰り返すこと。

Melba toast は彼女が好きだった薄切りのトーストのことだそうです。

Howard Walter Florey

ペニシリンの発見者というと、イギリスの科学者 Alexander Fleming の名前を挙げる人が多いようです。確かに青カビが抗生物質としての働きをすることを初めにみつけたのは Alexander Fleming ですが、彼は発見をそのまま放置していました。それを人体に用い実用可能、大量生産できるようにしたのは、アデレード出身のオーストラリアの生物学者  Howard Florey とDr Ernst Chain の功績でした。

おりしも時は第二次世界大戦の末期、ペニシリンの大量生産により、何百万という傷ついた兵隊や民間人の命が救われました。それにより2人は1945年にノーベル生理学賞を得ています。功名心の薄い人で、賞にも関心がなく、特許を申請すると、特許料を払えない貧しい会社や国が利用しにくくなり、多くの人が利用できなくなるから、という理由で自分の名前で申請しなかったりで、いろいろな功績が他に渡ってしまった、ということです。

1898年、アデレードの靴屋の息子に生まれ、アデレードのSt Peter’s College に学び、Oxford University の奨学金を得て、1920年代に英国と米国の大学で学びました。イギリスとオーストラリアの大学で教授、名誉教授を歴任、イギリスではナイトの称号を送られています。1968年に他界。オーストラリア人が真に尊敬し誇りにする人物の一人です。

Sir Edward Dunlop

外科医であった Sir Edward Dunlop は、第二次世界大戦においてオーストラリア人にとっての英雄でした。

1942年にオーストラリア軍の外科医としてジャワ島に派遣され、日本軍の捕虜となり、オーストラリアで悪名高いタイとビルマの国境、かの泰緬鉄道建設現場に送られました。捕虜たちは栄養失調、コレラ、マラリヤなどの病気の蔓延する最悪の状況で強制労働をさせられ、死亡していきました。そのような苛酷な状況の中、Edward Dunlop は身の危険もかえりみず、日本軍人と対立しながら、捕虜たちをかばい、力づけ、多くの命を救ったということです。

後、戦時中に受けた辛苦にもかかわらず、オーストラリア(特にオーストラリア側が日本に対する恨みを乗り越える必要性を説いて。)と日本の関係の改善に力添えをしました。戦後は統一前の南ベトナムで外科医をし、発展途上国を援助するコロンボ計画にも加わるなど、オーストラリアとアジアの関係に尽力しました。

1980年代の後半、海上自衛隊の練習艦隊がメルボルンに入港した時は、艦上パーティに招待されて出席されています。さぞや感無量であったことでしょう。

国民的英雄には似つかわしくない “Weary(疲れた)” という、ニックネームで親しまれていたEdward Dunlop は1993年に83歳で永眠しました。国葬が営まれ、死を悼む市民の長い葬列が何時間も続きました。

Wilfred Graham Burchett

 ビクトリア州のギプスランド出身。15歳で学校を離れ、独学の後に 国際的なジャーナリストになりました。従軍記者でもあった Burchet は、日本が降伏した直後に、アメリカ進駐軍よりも一足先に原爆投下の広島に入り、その惨状を世界に知らせました。

「ノー・モア・ヒロシマ」を世界に訴える Burchett の記事は最大級のスクープでした。当時、アメリカ進駐軍が否定していた、人体への放射能の影響も世界に向けて報告されました。

第二次世界大戦前から反ナチ、反日本帝国軍隊、戦後は反アメリカと、彼のジャーナリストとしての姿勢は一貫していました。朝鮮戦争中はオーストラリア側の、北朝鮮人捕虜の取り扱いを暴き非難した記事を書いた為に、オーストラリア政府から旅券の再発行を拒否され、子供たちも同様に、15年間オーストラリアから国外追放の処置を受けました。彼は、それ以来一度もオーストラリアの土を踏むことなく、国際舞台で仕事をしました。

朝鮮戦争のすぐ後、ベトナムに渡り、北ベトナムのリーダーとなったホーチーミンにインタビュー、1955年の共産軍のハノイ占領などの記事を書きました。その後も、ベトナム戦争、カンボジア内戦、アフリカ諸国の独立闘争などを取材、著書も多数あります。

Burchett のジャーナリストとしての姿勢は、あくまでも反権力で貫かれていて、1939年にロンドンに渡って以来、ほとんど海外で仕事をしていたにもかかわらず、その意味では非常にオーストラリア的といっていいでしょう。 

Dawn Fraser

1956年のメルボルンオリンピック、1960年のローマオリンピック、1964年の東京オリンピックの女子100m自由形で金メダルを獲得。東京オリンピックではリレーでも金メダル。100mを1分以内で泳いだ世界で最初の女性。ざっくばらんで奔放な性格で、当時、オーストラリア人の絶大な人気を博していました。しかし、東京オリンピックの期間中、皇居のお堀を泳いで渡り、皇居内の国旗を失敬しようとしたのが発覚。日本側の抗議を受け入れて、オリンピック委員会は彼女に、以後のオリンピック出場禁止を命じたため、次回のメキシコオリンピックには出場できませんでした。

まだオーストラリアには、日本に対する太平洋戦争中のしこりが残っていた頃の出来事でした。彼女の行為には茶目っ気と同時に、勝者の奢りも幾分あったのでしょうか。一方日本側は、東京オリンピックを機会に戦後の荒廃から立ち上がり、先進国に加わろうとしていた時期だったので、彼女の行為は、国辱的に受け取られ、厳重な抗議となったようです。

しかし外交的な観点から見れば、なんともったいない、と思わざるを得ません。日本側はプライドをもって厳重な抗議をしつつも、オリンピック委員会が出場禁止を決めた時、「いや、そこまではしないで欲しい。彼女のオリンピック出場禁止は日本側の望む所ではない。」と言っていたら、当時まだ反日感情が残っていたオーストラリア側の日本に対する姿勢も、かなり違っていたことでしょう。もしかしてオリンピック委員会も、日本側のそのような反応を期待して、わざと厳しい処置をしたのかもしれないではありませんか。ともあれ、このできごとにより、反権力意識が強く、反日感情が残っていたオーストラリア人の間で、彼女の人気はますます高まりました。

1988年には選ばれてNSW州政府のメンバーにもなっています。

2000年のシドニーオリンピックには、会場内で過去のゴールドメダリストたちと共にオリンピックトーチのリレーに加わり、トーチを運びました。

Sir Robert Menzies

オーストラリアで最も長く首相を務めた政治家。1939年に初めて首相になりましたが、第二次世界大戦初期の戦争への対処の仕方などで信任を失い、戦争中はその座を John Curtin 首相にゆずりました。

1944年にLiberal party を再結成し、その党首となって、1949年に返り咲き、以後、政権の座をかためました。対立した党が割れて強力な指導者がいなかったこと、当時、世界的に広まりつつあった共産党勢力への怖れなどが、反共色の強い政党に幸いし、17年間、政権を握りました。その間にオーストラリアの経済的安定を図り、コロンボ計画には積極的に加わって、アジアとオーストラリアの関係も強めました。またANZUS (オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ3カ国の太平洋防衛協定)を結ぶなど、オーストラリアの国際的な地位の安定にもつとめました。しかし、余りにも強い英国への傾倒、白豪主義などが時代に合わなくなり、新しい世代の支持を失い、17年にわたった政権の座を降りることになりました。

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