Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (42)    福島尚彦                                 
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は スインバン大学で28年間日本語を教えていらした福島尚彦さんにお話を伺いました。
 
*オーストラリアにはいついらしたのですか?

1966年です。

*そんなに前に!では、パイオニアですね。

そうなりますかね。最初はブリスベンだったのですが、確かに日本人は少なかったですね。その当時、ブリスベンに日本人のボスみたいな人がいたんですが、その人に、「福島さんはブリスベンで26人目の日本人です」と言われました。

*日本人のボス?

ある商社の支店長をしておられたんですけど、新着日本人の世話役に任じておられた方です。他の商社や在外公館の駐在員だけでなく、我々のような大学関係者に対しても親身になって世話を焼いてくれました。御夫婦で、しょっちゅうお宅に招待してご馳走してくれたり、生活の知恵みたいなことも教えてくれたり。例えば、古いパンに塩とビールを混ぜ、その中に人参とか菜っ葉をいれて漬物を作る方法とか。世話役兼目付役。一度学生達と夜のブリスベンの街を飲み歩いたのをたまたま車で通りかかった奥さんに目撃されてしまったんですけど、翌日呼び出しがありました。行ってみると、「何ですか、福島さん、それでも大学の先生なんですか! 酔っ払って、シャツのボタンを全部はずして、裸足で街中を歩きまわっているなんて! 同じ日本人として恥ずかしかったです!」と油を絞られました。そのブリスベンに3年居て、それからメルボルンに移ってきました。

*それではオーストラリアにいらしたきっかけを聞かせていただけますか?

人間が思い切った行動を起す時、その理由はたった一つではない、と誰かがいってますが、僕の場合もいろいろありました。そのひとつは、大学卒業を目前にして何を一生の仕事としたらいいのかわからなかった、ということがあります。学生運動に頭を突っ込んでいたこともあって、どこに就職しても体制側に寝返ってしまうことになるという強迫観念みたいなものもありました。

*学生運動は活発にされていたのですか?

それほどでもなかったですけど、集会やデモなどに参加していました。いろいろなものに対する鬱憤とか反発がそうさせていたのだと思います。デモといえば、あのころ僕はゲタを履いていましたけど、デモにもゲタ履きで行きました。国会にデモをかけた時、棍棒で打ちかかってきた機動隊員のすねをゲタで蹴り上げました。デモのリーダーには決して機動隊の挑発に乗ってはいけないと言われていたんですが、やっぱり乗っちゃったんです。職務妨害で逮捕されそうになりました。写真も撮られています。ゲタを脱ぎ捨てて裸足で逃げました。私服が後をつけてくるような気がしたので、手ぬぐいで頬被りして顔を隠し、露地から露地を伝って逃げました。地下鉄をわざと何回も乗りかえながら、裸足で大学の寮に辿り着いたのは夜中でした。

*それで、大学を卒業しても、直ぐに就職して、ということにはならなかったわけですね。さっと方向転換できない誠実な方なんですね。日本人の中には、まあ、日本人とは限らないのでしょうが、例えば、戦前はすごい軍国愛国主義で鬼畜米英だった人が、敗戦後はすぐに掌を返すようにして、民主主義、親米派になったりとか。学生運動をして反体制を唱えていた人が、卒業したらさっと背広にネクタイで体制側に入っていくとか、よくありますよね。

誠実な人間ではないんですが、すっと割り切って、ヘンシーンって言う風にはいかなかったですね。今でも、当時僕が考えていたことが間違っていたとは思いませんが、学生運動に参加しながらも、過激な内ゲバなんかには近づかなかったですし、いわば日和見のへっぴり腰。で、まあ、卒業が近づいて、自分の価値観をあまり変えなくてもできる仕事って何かなあ、教師ぐらいかなあ、と思うようになっていました。父親が教師だったことも影響しているかもしれません。

*オーストラリアに来る前に、日本で教師をされていたのですか?

いえ、塾で教えたことはありますが、正式に就職はしませんでした。今でいうフリーター生活ですね。で、先ほどのオーストラリアに来ることにしたもうひとつの理由につながるのですが、もともと英語が好きだったので、大学入学と同時に運輸省の観光ガイドの国家試験を受けたんです。幸いに一発で受かったんで、すぐにガイドの仕事を始めました。貧乏学生でしたからね。ガイドはいい収入になったんです。

*外国人を対象にしたツアーガイドだったのですね。

そうです。英語圏から来る人たちの観光案内です。団体客を日光、箱根、京都、奈良といったところをバスで案内したり、個人客の場合は、日本の北から南まで長期に、時には1ヶ月近くかけてゆっくり案内することもありました。僕は旅行が好きですし、もう大学なんか行っているよりずっと面白いですよね。趣味と実益をバッチリ兼ねていますから。初めて飛行機というものに乗ったのもガイド商売のお陰でした。その頃、学生の一番割のいいアルバイトは大学受験の模擬試験の採点だったのですが、朝から晩まで1日中採点して1000円でした。普通のアルバイトは1日500円から700円といったところでしたからね。観光ガイドの仕事は最初から日給1300円でした。少しずつ昇給して、半年後には1800円になりました。バイトといっても遊んで歩いているようなものでしょ、好きな英語をネイティヴとおしゃべりしながら。ま、時には意地悪な客に当たって睡眠不足、食事も喉を通らず、ふらふらになって帰ってきて体重を量ったら10キロ減っていたということもありましたが。一仕事して帰ってくると、大学で代返していてくれたり、ノートを取ってくれたりしていたクラスメートたちを招待して、飲めや歌えのドンチャン騒ぎで稼ぎを全部はき出し、また次の旅に出るという生活を続けていました。

*ではけっこう楽しそうな学生生活ではないですか。それでも鬱憤があったのですか?

思想的なものというか、哲学的なものというか、自分は何のために生きているのか、といった、そういう面での鬱憤が主なんですが...同時に、日本社会に対する不満、将来に対する不安、日本という国のおかれている政治状況、社会制度、経済、学問、芸術、人間関係などに対する鬱憤。日本は国を挙げてアメリカ人の価値観やライフスタイルを猿まねし、アメリカさんの言いなりになっているだけじゃないか、という認識から来る鬱憤もあったと思います。

*私生活の面ではかなり満足していた?

好きなことをやってましたからね。遊び暮らしてましたからね。勉強そっちのけで。卒業後も相変わらず非常勤のガイド稼業を続けていましたが、学生時代の4年間で、団体客を含めて1000人近く案内しましたか。で、ガイドをしていて発見したことがあるんです。それは同じ英語圏の人でも、出身国によってずいぶん人間が違うもんだなあ、ということなんです。一般的に言って、アメリカ人は最高のものを求めたがります。そのための出費は惜しみません。ガイドにも完璧な仕事を要求します。イギリス人は日本の文化に通暁している人が多かったのですが、自国に対する誇りが強く、それが鼻につきました。ガイドに対しても見下したような態度をとります。南アフリカ人やカナダ人はあまり案内するチャンスがなかったので、一般化できませんが、常に驚かされたのはオーストラリア人でした。まず、彼らは初対面から“Hello, mate!” ときます。ガイドに対する態度も旅先で出会った友人といったところなんですねえ。初対面から、とにかく一緒に楽しくやろうよ、といった態度なんです。例えば、京都を案内するとするでしょ。僕は、少なくとも、金閣寺、竜安寺、西芳寺、できれば、清水寺、平安神宮、八坂神社といったところも見せたいわけですよ。ところが金閣寺を見て、石庭を見て、次は苔で有名な、と説明を始めると、「あ、もういい、お寺や神社はもういい。それより、もうどっかで、飲もうよ」と、こう来るんですね。ガイドには金を払ってるんだからしっかり案内させなきゃ、なんてことは思い浮かばないんでしょうね。ニュージーランド人も似たり寄ったりでした。アメリカ人、特に社会的に地位の高い人間とか金持ちとかは、日本人の精神年齢はやっぱり12歳だ、といった目で見ます。ところが、オーストラリア人は、地位の高低、金のあるなしにかかわらず、そんな偏見がちっともないんですね。「30年かかったんですよ、日本旅行のお金貯めるのに」というビルの清掃員をしていたというおばあちゃんも、国際酪農会議出席のために来たという大農場主で市会議員をしているというVIPも、みな同じなんです。相手によって態度を変えたりしないし、気どらないし、ざっくばらんで冗談好き。うーむ、こういうタイプの人間たちを製造する国ってどんな国なんだろう。行ってみたいなあ、と、まあ、それがオーストラリアに行こうと決めた一番大きな理由だったんです。でも、海外旅行なんて夢のまた夢だった頃です。ドルの海外持ち出し制限というのもあって、確か米ドルで500ドルが限度でした。

*そうですね。あの頃は外国へ行く、というのは大変なことでしたね。しかも米ドル360円。豪ドルは450円くらいでしたでしょう。

そうです。だから外国人観光客にとっては日本は安く旅行できる国だったんですね。日本人にとってはその反対です。やっぱりオーストラリア行きは無理かなあと、考えていた時でした。朝日新聞に、キャンベラの国立大学で日本語教師を求めるという広告が出たんです。「これだ!」って思いました。というのも、僕は、ガイドの仕事が暇な時は、イギリス大使館で日本語を教えていたんですけど、日本語を、日本の文化や習慣に関連付けて外国人に教えることに自信のようなものができていましたし、日本人としての自尊心を満足させる部分もありますしね。それで、早速応募したんですがダメでした。後から聞いたところでは、日本から300人ぐらいの応募があったそうで、採用された人は大学の教授か助教授だったらしいです。僕みたいな大学出たてはお呼びじゃなかったわけです。ところが不採用通知があった2 週間後に「キャンベラはダメだったけれど、ブリスベンに来る気はないか」という電報が届いたんです。我々応募者を日本で面接した教授からでした。自分はキャンベラの国立大学を辞め、クインズランド大学に移り、そこで学部長として日本語学部を創設することになった。ついては、チューターとしてブリスベンに来る気はないか、という打診の電報だったのです。勿論即座に「行く」と電報を打ちました。

*当時新卒の初任給はどのくらいだったのですか?

クインズランド大学のチューターの給料は月額約10万円でした。日本の場合は大卒の初任給が5万円ぐらいの時ですから倍ですよね。ということで、1966年5月、僕のオーストラリア生活はブリスベンでスタートしたわけです。

*そうですか。それからもう40年経つわけですね。40年前のオーストラリアってどんなところでしたか? 特に日本人にとって。

日本を出る前にオーストラリアについて多少勉強したんですけれど、外国というのは、調べてわかる部分と調べてもわからない部分とがありますよね。調べてもわからなかった部分で、オーストラリアに来てみて初めて解かったことのひとつに、オーストラリア人の中にはまだまだ太平洋戦争時代を通じて醸成された日本に対する遺恨が強く残っているということがあります。捕虜生活を体験した軍人とか不当に身内を殺されたオーストラリア人の心の中に残っている恨みや憎しみです。前にお話したブリスベンの日本人の世話役夫妻もそのことを十分意識しており、我々のような無知蒙昧、はねっかえり戦後派の行動に、はらはらしていたのだと思います。

*実際に日本兵と戦ったり捕虜になった人たちも、その頃はまだ40代、50代ですよね。

そうですね。僕もいろいろな出来事に遭遇しました。一例を披露しますと、僕は子どもの時から父親の焼酎を盗み飲みして育った呑み助ですが、ブリスベンでも授業が終わると毎日のようにパブに通っていました。オーストラリアのパブは、建物の外観も屋内もいい雰囲気のあるのがたくさんあって、ビールもうまいですよね。パブに飲みに来る人たちと話をするのも楽しいものです。

*そういう時は一人で行くのですか?それとも同僚と?

同僚か学生を誘っていくことの方が多かったんですが、その時はたまたま一人でした。カウンターで飲んでいると隣にかなりメートルが上がった男がやって来まして、「おい、お前日本人か?」と聞くんです。「そうだ」と言うと「ちょっと来い。見せたいものがある」と言います。僕のほうもかなり酔っていましたし、元々好奇心が強いほうですから、何か面白いものでも見せてくれるのかな、と思ってついて行ったら、トイレに入って行くんですよ。そしてズボンを下ろし始めたんです。えっ! 僕、そういう趣味はないし、これは変なことになったな、でも見せるってんだから、見るしかないかと思っていたら、見せてくれたのは太腿部にある傷跡だったのです。自分は捕虜で武器を持っていなかったにもかかわらず、日本兵が銃剣で刺した。どう思うかと聞くんです。「そうか。それはひどい。でも、僕は、戦争の時はほんの子どもだったし、日本の外で起こっていたことについてはほとんど知らない。だから、もっと話を聞きたい」と、男をうながしてカウンターに戻り話を聞きました。ビールのおごりおごられを繰りかえしているうちに相手の気持ちも落ち着いたようでした。

僕がオーストラリア生活を始めるちょっと前までは、日本人駐在員は外に出るときは拳銃を忍ばせて歩いていたそうです。いつ過激派に襲われるかわからないといった、遺恨充満状態だったんでしょうね。

*戦争が終わってまだ20年しか経っていない頃ですものね。

そのころからですね、日豪経済が最重要課題になってきたのは。それと並行して、お互い戦争時代のことは語らない、という暗黙の了解みたいなものもできてきたんでしょうね。日本語ブームも後押しします。大学の学生だけでなく、オーストラリアのビジネスマンたちが競って日本語を勉強するようになりました。週末とかクリスマス休暇中の日本語促成コースなどはすぐ満員になりました。ほとんどがドロップアウトしましたけどね。僕はそのブームの担い手としてのパイオニアだったわけです。

*ブリスベンのクイーンズランド大学では日本語を勉強する学生は何人ぐらいいたのですか?

そうですね、日本語専攻の学生は毎年100人ぐらい取っていたと思います。それを5、6人のチューターで教えていました。

*全部日本人ですか?

最初は学部長以外は全員日本人でした。講師の3分の一の給料で講師の3倍の仕事をさせるためには日本人をチューターとして採るのが一番だというのが新任学部長の戦略だったのです。しかし、じきに日本に長く住んでいたロシア人やユーゴスラビア人が加わりました。日本語を教える日本人というのは、僕もそうでしたが、かたくなな人間が多いのか、日本語を外国人に教えているうちにかたくなになってしまうのか、日本語の純粋性を重んじるあまり、オーストラリア的な教授法、言ってみれば、かなりいいかげんな教え方に反発しがちなんですね。しかし、日本人はその辺の是非を学部会議などで堂々と主張するための英語力と胆力に欠けます。だから日本人ほど日本語ができなくても、英語力がネイティヴに近いスタッフがどうしても必要になってきます。

*それでブリスベンにはどのくらいいらしたのですか?

3年です。

*戦争中の日本人に対する怨恨がまだそうとう残っていたような頃でしたら、日本食料品店などなかったでしょうし、その3年はいろいろと大変だったでしょうね。

日本食料品店はありませんでしたが、リトル・トウキョウという日本レストランが1軒ありました。でも高い割には美味しくなかったので、1度か2度ぐらいしか行きませんでした。それよりもせっかくオーストラリアに来たんだから肉を食べよう、と思ってせっせと肉を食べました。みんなと一緒に行く時はいつもイタリア系レストランでした。ママルイジという、下町にある、普通の家を改造したそのレストランは安くて旨くて、食べ放題だったんですよ。我々チューターも学生たちも食欲旺盛な20代でしたからね。

*それでブリスベンに3年というのは、3年契約だったのですか?

そうです。ところがですね、実は2年目にクビになったのです。

*えっ!それはまたどうして?

僕が学部長の言うことを聞かなかったからです。「あなたみたいに上司の言うことを聞かない人は不要ですから解雇します。2週間あげますから荷物をまとめて日本へ帰りなさい」といわれたんです。日本人なら上司の命令には絶対服従するはずだ。いわんや自分は教授で学部長、相手は学生に毛が生えた程度のチューター。自分の言うことに従いこそすれ反対はしないはずだと信じていた人でしてね。自分の方針を一方的に押し付けてきます。彼女としては、新しく自分が立ち上げたクインズランド大学日本語学部がいかに画期的な教授法で効果を挙げているかということを外部に宣伝したいわけです。特にキャンベラを見返してやりたいという気持ちが強かったようです。古文を教えろ、ときたときには猛反対しました。クインズランド大学日本語学部では創立数年で既に学生が日本の古文を読んでいる、ということを世に喧伝したかったのです。

*えっ!古文?そんなむちゃな!

まず更級日記を教えなさい、って言うんですよ。冗談じゃないですよ。2年や3年たったって、学生は漢字だってせいぜい教育漢字の半分ぐらいしか知りません。現代語の中級程度の教科書だってまともに読めません。敬語の基本システムさえまだ把握できてないのに、古文なんて始めから終わりまでチンプンカンプンなのは目に見えてます。ご指定のあった更級日記だって、平安時代の社会背景、人間関係を把握させることから始めなきゃいけないわけだし、「学生を苦しめるだけです」って反対したんですよ。そしたら「あなたが原文を現代語に訳し、それに英訳を付けた教材を作りなさい。それを学生に配って、それを原文とつき合わせて読ませればいいのです」と言われました。というようなことがたくさんあって、ま、チューターの中では、まがりなりにも英語で彼女に反抗できたのは僕ぐらいでしたから、「首だ、帰れ!」となったんですね。「あなたなんかが辞めても、日本語を教えたい、という人がたくさんいますからすぐ後任が見つかります。退職金が出たので給料は要らない。1年でも2年でもいいからクインズランド大学で日本語を教えさせてほしい、という人がこんなにたくさんいるんですよ」と言って、日本から来た手紙の束を見せるんです。

*政治的に立ち回ることができて、またそれが上手い人なのですね。

僕は、雇用契約は大学との間に結んでいるわけですし、学部長の好き嫌いで解雇される理由はないと思ったので組合に訴えました。すると組合がお膳立てしてくれて、学部長と僕が学長を挟んで話し合うという三者面談になりました。大学教員のヒエラルキーからいえば、僕のようなチューターはいわば使い捨て人間です。そして教授である学部長は雲上人、学長は神様でしょうか。これは大変なことになったと思いましたが、言いたいことを書いたノートを持って、学長の前で涙ながらに訴えました。学長にしてみれば日本語学部長というのはクインズランド大学の興亡をかけてキャンベラから呼び寄せた人材ですよね。学長の出した結論は「学部長の言い分にも一理ある。福島の日本語教育にかける熱意も十分わかった。しかし、学部長と福島は水と油みたいなものだという印象を得た。お互い妥協はできないだろう。だからといって福島にすぐ辞めろというのも肯じがたい。大学との契約は3年の初期契約満了後延長できるとなっているが、学長権限で契約延長はしないということにする。福島は日本へ帰りたくないということだから、契約満了時までにどこかに就職口を探しなさい。学部長も福島は使いづらいだろうが、それまで我慢しなさい」ということでした。両方に花を持たせたわけです。それで最後の1年間は、ありとあらゆるところに就職口を探しました。けれど僕の場合は4年の学士コースを修了しただけでBAという資格しか持ってなかったので難しかったですね。今はPhD、博士号がなければまず講師以上のポジションは無理ですが、当時でさえ修士号、MAの資格が必要でした。ニュージーランドの大学にまで応募しましたが、やっぱり最終選考でMAをもった応募者に負けました。資格なんですね。日本には何百という大学があるでしょ。無名の大学でもいいからMAをとってきた方が有利なんです、海外では。「なるほど、そうなのか」とようやくわかりました。大学生の時は日本全国遊び歩いていて、ちっとも勉強しなかったんですが、やっぱりこりゃ勉強してMAぐらいはとらなけりゃダメだな、ということがわかったんです。それで、メルボルンに来てからモナシュ大学のマスター・コースに入りました。

*メルボルンにはいつ移られたのですか?

1969年になってやっとメルボルンのスインバン大学の日本語講師に採用されました。スインバンはそれまでテクニカルカレッジだったのですが人文科学も教えることになって、社会学、心理学、語学などの科目が新設されたんです。語学ではイタリア語と日本語科。イタリア語は英語の話せないイタリア系の移民を世話するソーシャルワーカーには必要であろう、ということ。日本語はこれから日豪の経済関係がますます緊密になっていくから必要であろう、ということで、この二つの外国語学科がスタートすることになっていたわけです。3月にブリスベンから引っ越してくると日本語を選択した学生が教師の到着を待っていました。すぐ始めてほしいということで、教室に行きました。でもテープレコーダーも教材もなくて、それこそ黒板とチョークで始めました。手動式の印刷機を見つけたので、手書きの教科書を作りました。テープレコーダーもようやく一台買ってもらったので、自作自演のテープを作り、学生に予習復習をさせました。

*スインバンでそうやって日本語を教えながら、ご自身のマスターコースのためにモナシュ大学にも通われていたのでしょう。ずいぶんと大変でしたでしょうね。

13年かかりました。モナシュだらだら修士の最長記録でしょうね。よく放校にならなかったものです。指導教官も5人代わりました。今度仕事を首になったら、もうBAだけじゃ勝負にならないということは、一年間の職探しでいやというほどわかりましたから、MAを取ることは至上命令でした。でもスインバンの方にかかりっきりでしたから、モナシュの勉強はいつも後回し。その結果が13年です。あれは1971年だったかな。スインバンでジャパンウイークというのをやりました。この頃になるとハイスクールがどんどん日本語を教え始めていました。それでジャパンウイークにはメルボルン中の日本語、日本学関係の先生たちだけでなくて、領事館や商社関係の人たち、日本文化、伝統芸術などで造詣の深い専門家にも参加してもらいました。日本語のスピーチコンテストも開催しました。メルボルンで行った第1回の日本語スピーチコンテストだと思いますが、これは今でも続いています。

*あのスピーチコンテストは福島さんが始められたのですか。毎年盛大に行われていますね。

ま、協力してくれる人たちがいたからですが、言いだしっぺは僕です。高校生を招いてお芝居コンテストなんかもやりました。日本語ブームたけなわの頃ですから、1週間のジャパンウイークをやってもお客さんは集まるだろうと、思い切ってやってみましが、満員御礼。スインバンの学長には、スインバン始まって以来の来客数だと言われました。学生や家族はもとよりほんとに大勢の友人知人に手伝ってもらいましたが、言いだしっぺは僕なので、責任上、連日睡眠時間3時間ぐらいで朝から晩まで走り回りました。商社の駐在員やその家族の方たちの中には尺八や三味線の師範、日本舞踊の名取さんなんかもいたので、大学のシアターで演じてもらいました。日本舞踊の名取さんには、藤娘を踊ってもらったのですが、藤の枝がないと踊れないと言われましたので、紫色の色紙を買ってきて、藤の花びらの形に切り抜き、ユーカリの木の枝に一枚一枚糊付けして公演に間に合わせました。文字通り不眠不休でした。

*先ほど家族、とおしゃいましたが・・・・。

あ、家族...ですか。うーむ、その頃の僕と家族の関係を客観的に見てみますと、家族は、いや、友人知人さえも、僕にとっては自分のやりたいことのために利用できる存在だった、と定義したほうがいいかもしれません。僕に振り回された家族や友人知人の中には僕のことを今でも恨んでいる人たちがいると思います。いや、います。天網恢恢、しょっちゅうバチが当たってますからね。ジャパンウイークの時も最後にバチがあたりました。一週間の締めくくりが打ち上げパーティーで、手伝ってくれた人、講演に来てくれた人などを全員招待しました。日本人駐在員の奥様方が朝から来て料理を作ってくれました。大宴会だったんですよ。最後の講演が終わり、聴衆が帰り、教室の電気を消してパーティー会場に行ってみると、「招待客は全員揃っていますよ」という受付の報告です。よし、まず乾杯だ、と思ってワインを一口飲んだとたんに目の前が真っ暗になりました。気が付くと僕は自分のオフィスで寝ていました。あわてて会場に戻ってみると、もう宴会は終わっていて、後片付けが始まっていました。学生に聞くと「先生が突然気を失ったので僕らでオフィスに運んでいって寝かせました」という答。刺身やお寿司やおはぎやおもち、赤飯漬物うどんそば...盛り沢山の山海の珍味をミスした口惜しさ。悔しかったですねえー。

*福島さんがご馳走を食べ損なった、という以外は大成功だったのですね。

そうですね、食い物の恨みは残りましたけど。で、それから何年か経って「寿司食い大会」というのをやったんです。12ドルの参加費で、にぎり鮨食べ放題。会場には市内の商工会議所のホールを借りました。参加者約300人。メルボルン中の寿司ファンが集まったという感じでした。僕も今度は気を失わずに最後の最後まで食い続けました。

*300人鮨食い大会? 食は大事な文化の一つですよね。どのような大会だったのですか?

今でこそメルボルンでは寿司を出すレストラン、または寿司まがいの食品を売る店があふれてますけど、昔は新鮮な生魚がなかなか手に入らないこともあって、おいしい握り寿司や刺身を食べる機会はめったになかったんです。よし、じゃあ、みんなで寿司を腹いっぱい食べられる機会をつくろう、ということで企画したんです。丁度その頃日本人経営の魚屋さんがサウスヤラに開店して、安心して食べられる鮮魚が手に入るようになってましたし。日本から寿司板さんが4人、手弁当で来てくれました。

*えっ! そのために日本から4人も板前さんがきたのですか?

話せば長くなるのですが、大阪万博の時にできた非営利団体で、全国家族交流協会というのが日本にありました。会員同士がお互いに自宅の一室を宿として提供し合うことによって家族交流を持ちながら全国を安く旅しようというのが趣旨でした。僕も国際会員ということでメンバーにさせてもらい、大学の有給休暇を利用して日本に一年滞在しました。その一年間に暇をみては、日本各地の会員宅にお世話になりながら旅行しました。会員の中にお寿司屋さんが何人かいて知り合いになったんです。よし、こういう人たちに一肌脱いでもらおう、と相談したら、交流協会でも乗り気になって、いい国際協力のチャンスだからやりましょう、ということになったんです。オーガナイズには半年以上かかりましたが、念願の「寿司食い放題」をやってのけた、というわけです。

*300人というのは日本人だけで?

日本人とオーストラリア人がちょうど半々ぐらいでしたか。その頃は生鮨を食べさせる日本レストランはまだ少なかったんですよ。アメリカで寿司ブームが始まっていましたが、まだオーストラリアには到達していませんでした。日本文化を紹介する意味で学生たちを時々自宅に呼んで鮨まがいのものを食べさせてはいたんですが 、“Raw fish? Oh, no!” といって、なま魚は食べようとしない学生が多かったです。「食べるものはこれしかないよ」というと、せっかく握ったお鮨のご飯の方だけ食べて、マグロやあわびの鮨ねたを皿に残して帰っちゃうんですよね。もったいない。そんな時代ですよ。だから、本職が握った鮨を腹一杯食べたいということが動機でしたが、オーストラリア人にも生鮨のうまさを知ってもらいたいという思いもありました。

*福島さんを初め来豪先駆者の方々の、それぞれの場での努力が今、花開いて実を結んでいるのでしょうね。オーストラリアの日本食ブームは凄いですよね。日本食に限らず、他の色々な面でも日豪は今かなりいい関係になってきていますよね。それでスインバンではどのくらい教えていらしたのですか?

28年です。

*では教え子が各界にたくさんいらっしゃるでしょうね。

だと思いますけど、日本と違って恩師を招待してのクラス会なんてものはやらないですからねえ。どこで何やっているのかわからないですね。ほんの数人を除いて。

*ではスインバンの後は? 

スインバンを辞める3年ほど前にPhDの論文を書くためにメルボルン大学に入りました。社会言語学の領域ですが、テーマは “Lying in Japanese (日本語でのうそ)” です。でも、僕はやっぱり机にじっと座ってやる勉強が嫌いで、なかなか進みませんでした。この度も指導教官が何人も代わりました。ようやく今年の一月になって仕上がったというわけですが、フルタイムなら2、3年、パートでも4,5年で終わらなきゃ、博士論文なんか書く能力がないと思って諦めるのが常識らしいですが、僕の場合は10年かかってなんとか終えることができました。目下審査待ちです。普通この国の大学教師や研究者は、若くて体力もあり頭も明晰なうちにさっとPhDを取ってしまい、その資格を武器にいいポジションに就き、それからじっくりと研究活動を続けます。僕の場合は、教員稼業の終わり近くに、まあ自分のしてきたことの総仕上げとしてやろう、ということでPhDを始めたんです。そのためにスインバンを辞めました。ところが、さて本腰を入れようかと思っていた矢先に、日本からヘッドハンターがやってきましてね。「聞くところによると福島さんはスインバンを辞めたそうですが、今何をしているのですか」「博士論文を書いています」「来年日本にできる新しい大学に来ませんか」「論文を終わらせたら行きます」「いや、それでは遅すぎるんです。この大学は国際化が謳い文句で、心身障害者、社会的弱者の味方をする専門家を養成します。世界的な視野に立った国際人を育てるために、海外での大学教員生活が長い福島さんのような人の知識と経験が必要なんです」とおだてられ、「なに、日本の大学教授は持ちコマ数が少なくて自由時間がいっぱいありますから論文を書く時間は十分ありますよ。とにかく、人文科学系のコースやカリキュラム作りをすぐにでも始めてほしいのです」と説得されたんです。

*ある時期、日本では国際化、国際化という大合唱が起こりましたね。その時期でしたか?

1999年のことですから、まあ、遅ればせながらという時期でしょうね。これは僕が日本へ行く前にもう決まっていたことなんですが、新入生全員に週8コマの英語必修を課しました。「英語ができれば国際人になれるってわけでもないでしょう。複数の外国語の中から選ばせたらどうですか」と提案したんですが、だめでした。受験生は英語が必修だということを承知してこの大学に入ってくるわけだから問題なし、という大学準備委員会の説明でした。英語教員にはネイティブを4人揃えました。イギリス、アメリカ、カナダ、ニュージランド人を一人づつ、それにオーストラリアからは僕と、合計5人が国際化推進役です。実際に面接時に聞いてみると、英語、国際化に力を入れているということに魅力を感じてこの大学を選んだという受験生が多かったですね。

*福島さんは何を教えられたのですか?

僕は社会言語学と英語です。言語学のゼミでは我田引水、僕のPhDのテーマである「うそ」について学生たちと一緒に文献を読んだり、討論したり、近くの町の「ほら吹き大会」を聞きに行ったりしました。英語教員の中には、僕以外にも日本語がよくできるメンバーがいましたが、授業中はもちろん、教室の外でも学生たちとは英語でコミュニケートしようと申し合わせて実行していました。僕の場合は、顔が日本人ですから、Noel Fukushimaという2世っぽい名前を使って日本語がわからないふりをしました。 すぐバレましたけど。

*学生の反応はどうでしたか?

英語が嫌いな学生がいるんです。特に推薦入学という制度を利用して入ってくる学生の中に多いんです。大学準備委員会の誤算ですね。例えば、母親も看護婦で、子供のときから自分も大きくなったら看護婦になりたい、と思い続けてきたという学生。こういう学生は本当に性格もいいんです。だからこそ出身高校から推薦されて入ってくるわけですが、なぜか英語嫌いが多いんです。嫌いだから勉強しない、勉強しないから落第点を取る。必修科目ですから落とすと進級できないんです。ちょっと気の毒ですよね。

*看護師や社会福祉士に英語がそんなに必要なんですかね。

地方ではほとんど必要ないですね。ただ中央に出て行って、例えば東京とか横浜、大阪みたいな大都市で働くとか、研究者になるとかの場合は役に立ちますね。でもそういうケースは卒業生の1割か2割ですよね。その大学のある地方都市では、韓国語、中国語、ロシア語の能力の方が利用価値があるんです。学長には、最初の卒業生を出すまでは居てくださいよ、と言われてましたので、4年たって、第1回卒業生を出し、英語コースも一応いい形に落ち着いてきたところで帰ってきました。PhDの論文は終わりませんでした。クラスの持ち時間は週6コマで確かに楽だったんですけれど、なにしろ会議が多くて参りました。年を追うごとに試験問題作成委員とか大学院準備委員とかの役職が増えて、気がつくと14もの委員会に名を連ねていました。毎日のように会議です。教授会などは時には夜中の2時3時まで続きました。夜食つきです。まあ、新設大学ですから、決めなければならないことが次々と出てくる、ということはわかるんですが。

*それで日本からはいつ戻っていらしたのですか?

2003年です。

*久しぶりの日本で、若い学生たちと過ごした4年間はいかがでしたか? 楽しかったですか?

楽しかったですね。オーストラリア的な mateship でやってましたし。ただ僕は、どうせ長居するつもりはないんだし、気に食わなかったらいつでも首にしてくれ、と開き直って、短期間にやれそうなことをじゃんじゃんやったので、僕がいなくなってほっとしている人たちも多いと思います。給料を含めて教員に対する待遇がとてもよかったし、建てたばかりの大学も教員官舎も広くてきれいで便利。設計者は黒川紀章です。設備も最高、こちらの要求するものは何でも揃えてくれました。じゃんじゃんやったことのひとつに、2年目の学生に選択科目として取らせた「夏休み海外英語研修」があります。学生をメルボルンに連れてきて4週間モナシュ大学に通わせました。費用が30万以上かかるので経済的に余裕がある学生しか参加できないのですが、3年間で135名参加しました。学生はオーストラリア人家庭に一人ずつホームステイして大学に通うんですが、最初のカルチャーショックをうまくクリアすれば、みんなオーストラリア大好き人間になってしまいます。辞職する時にコアラ・ファンドを作って置いてきました。

*コアラ・ファンド?

ええ、オーストラリア英語研修旅行に参加させるための奨学金です。学生の中にはいわゆる苦学生がいます。アルバイトで生活を支えている学生ですね。がんばって英語研修旅行のための費用をアルバイトで半分貯めたという応募者の中から毎年、と言っても、数年で基金は底を尽きますが、二人選んで、費用の残り半分をプレゼントするという基金です。日本の友人の協力と僕の退職金とワイフのへそくりで作りました。応募者の選考は、僕の後任のオーストラリア人教員に学生会代表、学部代表教員を加えた3名。選考基準はオーストラリアに並々ならぬ興味を持っているということです。だれがこの基金を作ったかということは謎というのが申し送り事項です。かっこいい置き土産でしょ。

*そうですか。素敵なプレゼントを残してきましたね。コアラ・ファンドという名前もいいですしね。ではこのインタビューの初めに戻って、「オーストラリア人は、相手によって態度を変えたりしないし、気どらないし、ざっくばらんで冗談好き...こういう人間をつくりだす国へ行って見てみたいと思った」、とおっしゃいましたが、40年住んでみて、初めの印象はどうでしたか?

変わりませんね、一般論としては。ただ、オーストラリアにも結構いやな奴がいるという、ごく当たり前のことがわかりました。日本人よりももっとあくが強くて自己本位な人間、我利我利亡者にも遭遇しました。でも大多数のオーストラリア人は僕が最初に感じていたとおりでした。民度という言葉がありますが、オーストラリア人は、人を見てことばを選ぶということはしないし、損得勘定で行動しない、ボランティア活動には熱心だし、いろいろひっくるめてオーストラリア人の民度は高いと思います。

*確かにそうですね。物質面は別として、気持ちの上でゆとりのある暮らし方ができる、ということがあるからかもしれませんね。それで、メルボルンに戻っていらしたのは論文を完成させるため、ということですか?

ヘッドハンターの言とは反対に、日本にいると論文書きをする時間がほとんどありませんでしたからね。遊ぶ時間は結構あったんですが。論文は進みませんでしたが、日本人のつくうその具体例をいろいろ見たり聞いたり実行したりしました。論文は、日本人がうそをつくときは日本語をどう使うか、ということが中心課題なんですが、社会言語学的な方法論を下敷きにして、日本人がつくうその歴史的宗教的な側面とか、心理的、社会的な背景を分析しました。僕はうそを肯定的に見るという立場をとりました。うそをつくことで人間関係をスムーズに保てたり、物事がすんなり運ぶということもありますし、うそをつくことで逆に真実が伝わるということもあるでしょう。

*そうですね。確かにうそには生活の潤滑油的な効用もありますね。面白くてユニークなテーマですね。PhDを取得されたら、また教鞭をとられるのですか?

いや、もうフルタイムの教員は勤まらないでしょうね、体力的にも。でも何もしないでいるとフクシマ・ファンドが死ぬ前に尽きてしまいますから、少しは稼がなきゃと思っています、パートで。うそじゃありません。

*福島先生のうその講義がどこかで始まったら、ぜひ聴講したいですね、面白そうだから。それでは今日はいろいろと興味深いお話を聞かせていただきありがとうございました。

インタビュー:スピアーズ洋子


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