Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (39)    David Lams                                 
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は David Lams さんをお訪ねしてお話を伺いました。
 
*オーストラリアにいらして何年になりますか?
42年です。
*生まれた国はどちらですか?
生まれたのはイギリスです。育ったのもイギリスですが、第2次世界大戦後にアフリカに移住しました。アフリカにずっと住むつもりだったのですが、当時のアフリカは政治社会状況が非常に不安定で、危険でもあったのでオーストラリアに来ました。
*何歳の時にアフリカにいらしたのですか? 
アフリカへ行ったのは23歳の時で、第2次世界大戦が終わって10年経っていました。
*なぜアフリカに?

アフリカに行く前、イギリスでは空軍のオフィサーでした。給料も良かったし空を飛んでいるのは楽しいし、食べるものにも飲み物にも不自由のない結構な生活でした。けれど僕はいつまでも空軍で、空を飛び回っているつもりはありませんでした。しかし空軍の外の世界、終戦からまだ10年しか経っていないイギリスの社会は、23歳の若者にとって魅力のあるものではありませんでした。いい仕事は少なくて給料は安いし、青年がチャレンジできるビジネスのチャンスもあまりなかったのです。しかし、アフリカに行ったら、起業をする機会があって、しかも自分がボスになって金儲けができる、チャレンジのチャンスがいっぱいある、ということでアフリカへ行きました。しかし現実は期待していたものとはずいぶん異なりました。

*アフリカのどの辺りにいらしたのですか?

当時は北ローデシアと呼ばれていました。その後独立して、ザンビヤ、マラウイ、ザイールの3国に分かれました。現地に行ってみるとアフリカは政治的に非常に不安定な状態でした。独立したばかりの若い国が多く、法律や規則はあってないも同然でした。そんな状態なので大金を儲ける事もできますが、当然リスクも非常に大きいわけです。支払いをしないで夜逃げをするような人たちもたくさんいました。

*旧北ローデシアには何年いらして、どんな仕事をされたのですか?
3年いました。最初は雇われて仕事をしたのですが、直ぐに止めてビジネスを譲り受けて、自分で仕事を始めました。
*どんな仕事ですか?
オークショナー(競売)の仕事です。
*オークション? どのようなモノを扱われたのですか?
家、車、工場の機械や部品、本など、色々なものを扱いました。
*まあ、それは面白そうですね。
ええ、かなりエキサイティングでしたよ。それにいいビジネスでした。売りたい人と買いたい人がいて、その仲介をしてコミッションをもらうわけですから、オクショナーは本来ならば損をすることはないわけです。私はその町で唯一のオークションのビジネスを買って、それを引き継いで商売をしていたので、競争相手もありませんでした。流動性の激しい町で、人が入ってきては出て行く、というところでした。国に帰るから、外国に行くから家を買ってほしい、家具を買ってほしい、という要望があると、広告を出してオークションをします。現地の人たちを雇って仕事をすれば、家屋の掃除や品物の手入れ、運搬など低いコストでできました。
*ビジネスの相手は外国人、つまり白人だったのですか?
両方でした。人種的な差別ではなくて、あったのは経済的な差でした。ほとんどのアフリカ人たちは貧しくて、下町に住んでいました。裕福な白人たちは郊外の高級住宅地に住んでいる、という違いでした。とにかく当時のアフリカは人の動きが激しいところでした。チャンスを求めてやってきて、チャンスに恵まれなくて去っていく人、一儲けして去っていく人、様々でした。
*それでビジネスの方はどうだったのですか?
上手く行きました。大儲けをしたこともありますが、大損をしたこともあります。
*どのような場合に損をするのですか?
例えばお客が大きな買い物をして、支払いをチェックでするとします。このチェックを受け入れても大丈夫かどうか、銀行に電話を入れて確認します。その時はOKだったのですが、いざ現金化する段階で、すでに全額引き出されていて、当人は国外逃亡、というようなことがありました。特に地続きで多くの国に囲まれているような状況では、簡単に国外に逃げ出すことができますから。
*オークションで珍しいもの、ヘンテコなものを扱ったことはありますか?
北ローデシアはコパーの採掘が主産業の一つでしたから、炭鉱がいくつかあり、採掘に使う機械を保管する倉庫がかなりありました。そこの電話交換につかう豆電球、48000個を競売して欲しい、という注文を受けたことがあります。ご存知ですか? 昔の電話交換機には豆電球が沢山使われていたんですよ。しかし48000個はいりません。どうしてそんなに沢山の豆電球があったかというと、たぶん100個ぐらい必要だったのでしょう。しかし間違えて100箱注文した、というようなことでしょう。本も競売しましたが、本屋さんのように1冊づつは売りません。1箱づつ競売にかけます。ある日、1箱の本を競売で売ったのですが、私が持っている本と同じものが多かったんですね。この人は本の趣味が私と同じだな、それにしても似すぎているな、と思っていました。後でわかったのですが、妻が家の中を整理して私の本を処分してしまったのです。私が大事にしていた本を妻が勝手に処分してしまったのですよ。それを知らずに私のところで競売にかけて売ってしまったのです。後で買った人のところにいって、倍額払うから買い戻したい、と交渉したのですがダメでした。
*それで、何がアフリカを出る理由になったのですか?
北ローデシアで私がオークションのビジネスを買って仕事を始めた頃は、政治的な不安定が理由で去っていく人は、まだいませんでした。しかし、しばらくして北ローデシアの北部にあったベルギー領コンゴが独立しました。独立をはさんで黒人と白人の間で戦闘があり、民間の白人が殺され、アフリカ人同士がまた殺しあう、という殺戮が続いて騒乱状態にありました。コンゴから北ローデシアに大量の難民が流れ込んできました。独立があのような混乱を招くのであれば、この国に住んでいては将来の見込みがたちません。その頃、二人目の子供が生まれたばかりでした。もし、それまで長く住んでいて、タバコの農場などをもっていたりしたのであれば、土地に執着があったかもしれませんが、私の場合、ビジネスを売って国を出ることは簡単でした。しかし、どこへ行けばいいのでしょう。その頃の北ローデシアは住み良い所でした。高原で昼間は暑くても、夜は涼しく、湿気が少なくて素晴らしい気候でした。アフリカの住人たちもいい人たちでした。ここを出てどこへ行ったらいいのか・・・。ヨーロッパに戻る気はありませんでした。気候は寒いし、私にとってヨーロッパは保守的で魅力のない所でした。それでアフリカからオーストラリアに来ることにしました。
*なぜオーストラリアにしたのですか?
英語を話す者として、英語圏に行く、というのは自然な選択でしょう。本当は中国に行きたかったのです。少年の頃から中国に行きたいという夢がありました。異なる文化で世界でも古い文化を持った遠くの国、中国に憧れていたのですが、妻と2人の幼子を抱えた身では無理なことでした。英語圏ではカナダ、アメリカ、オーストラリアがありますが、その中で未知な部分が多いオーストラリアに行くことにしたのです。
*それはいつのことですか?
1963年でした。オーストラリアでもまた自分でビジネスをするつもりでした。オーシャングローブに仮住まいをみつけて、車を買い、どんなビジネスが売りに出ているか調べて回りました。そしたらあまり儲かりそうもないビジネスでも値段が高いのです。それでこの国は、人を雇ってビジネスをするよりも、雇われて働く方が有利な国だとわかりました。それでビジネスを始める考えをやめて、どうせ働くならと、その地域で一番大きな会社にアプローチすることにしました。当時、ジーロングにはフォードの大きな工場がありました。フォード社に採用されてメルボルン支社で仕事をすることになりました。それでメルボルンに引っ越してきました。当時、働くには良い会社でした。映画などで見る車の会社は、みんな忙しそうに立ち働いていますが、メルボルンのフォードは非常にのんびりしていました。あんまりすることもなくてパブでゆっくりランチを取る、といったような状況でした。1960年代のオーストラリアは、貿易面では高い関税をかけて国内の経済をがっちり保護していました。ということは働く者にとっては有利ですが、国際競争がなくて、国内の産業、経済が非常に非能率的というこになります。
*労働者の意識が高く、組合が強かったからですか?
それもありますが、保守政権が続いていて、当時は高い関税を課して国内経済を保護する、という政策が良し、とされていて、国民にも支持されていたのですね。
*車の関税も高かったのでしょうね。

当時、車はほとんどオーストラリアで造られていました。といってもアッセンブリーですが。フォード、クライスラー、ジェネラルモーターズ、フォルクスワーゲンに、その他にも幾つかの小さな会社がありました。輸入車の関税は47.5%もかけられていました。そんな状態ですから国内生産の車の質は低かったですよ。新車を買っても1週間以内にどこかが悪くなって、それを直してもらうのに、長い長い順番待ちのリストがありました。今では新車なら5万キロは修理なしで走るのが当たり前になっているでしょう。ですから健全な競争のない保護主義というのは、非常に能率、仕事の質が落ちることになるのですね。

*ずっとフォードで働いてこられたのですか?
4年ほどフォードで働いて、それから他の会社に移ってシドニーにいきました。シドニーでの暮らしも良かったですよ。そして、またフォードに採用されてメルボルンに戻ってきました。仕事の内容もポジションも前とは異なるものでした。1979年には台湾のフォードに派遣されました。
*台湾には家族でいかれたのですか?
そうです。ただ前の妻とは離婚していました。先妻との子供たちはティーンエイジになっていて、母親とオーストラリアに残る方を選びました。私は再婚して幼児が1人いましたので、3人で台湾にいきました。台湾での仕事はやりがいがありました。昔望んでいた中国文化の社会で仕事ができたわけです。台湾のフォード社は非常に良い経営状態でした。興味深いことには、台湾のフォードの工場はトヨタが建てたもので、1973年にトヨタがフォードに売却したのです。トヨタが他社に工場を売るなんて、珍しいことですよね。1979年にフォードはプロダクションラインを増加する方針を決めたので、私が3年間台湾に行くことになったわけです。とても充実した3年間でした。台湾滞在中に子供が生まれて、家族が1人増えました。その子は台湾での影響を強く受けていて、中国語を話し、読み書きもできるのですよ。
*でも台湾で生まれたのなら、台湾を去るときには3才にもなっていなかったわけですよね。それでもそんなに影響をうけたのでしょうか。

ああ、オーストラリアに戻って6年後に、また台湾へ派遣されて3年間滞在しました。そして、16歳のときに今度は1人で台湾にマンダリンを学びに行って1年間滞在しました。台湾にはメルボルン大学のマンダリン科の非常に良いカレッジがあるので、そこに行ったのです。

*2度目の台湾はいかがでしたか?
とても上手く行きました。当時、フォードは台湾で最大の車の会社でビジネスも順調でした。1970年代というのは日本の車の質が非常に向上した年代でした。それで次の1980年代は、世界の車の会社が、大衆車の質の向上のノウハウを日本の車会社から学ぼうとした時代だったのですね。中でもトヨタのアッセンブリシステムは抜きん出ていることで世界に知られていました。日本のシステムは車に限らず、他の生産品でも質の点で世界基準の先端をいっていました。台湾で車を生産するのは非常に興味深いことでした。台湾の人々は教育の水準が高く、勤勉で誇りたかい人々です。外国人の我々が提供できることは、技術や経営に関する経験でした。台湾政府は臨機応変で賢いやり方をしていました。自国の将来と現在の能力を、常に考えていました。例えば、車の部品を日本から輸入する場合でも、そのものが台湾では生産出来ない、ということを証明しなければなりませんでした。経済に関してのポリシーがすぐれていたので、台湾の産業、経済はどんどん強くなっていきました。今では何でも作れるようになったでしょう。質も非常に向上しています。日本での労働賃金が上がり、円がどんどん高くなってきたので、日本の会社は工場を台湾、中国に移しました。また日本の会社が中国に工場を作る場合は、過去の日中間の歴史上のわだかまりから生じる摩擦をさけるために、トップの人がまず台湾に来て、台湾の中国人に技術などのノウハウを教えて、彼らが中国本土へ行って、それを教える、というやり方をしていました。それによって台湾が日本から技術を学んだだけでなく、台湾もハイテク技術開発に投資をしていました。だから台湾はもう安物の大量生産国ではないでしょう。日本のテクノロジーと日本の会社の資本で、世界の大半のラップトップ(ノートパソコン)は台湾で造られているでしょう。
*台湾にいらした当時は蒋介石政権でしたか?

蒋介石が亡くなったのは1976年か7年でしたでしょう。ですから蒋介石はすでに亡くなっていました。2度目の時は息子の時代になっていましたが、まだ軍事政権の強い名残がありました。本当の民主主義国になったのはつい最近のことです。人々は独裁政権を批判しますが、国民のための政策を実行することもできるわけで、台湾はその良い例だと思います。生活水準がすごく上がりましたし、前はひどかった汚染も少なくなりました。今の中国は十何年前の台湾の状況にすごく似ていると思います。私は産業のパワーは日本から始まって台湾、シンガポール、インドネシア、マレーシア、インドと、西へ西へと移っていると思います。

*そういわれてみればそうですね。興味深いことですね。それで2度目の台湾滞在の後は、オーストラリアに戻られたのですか?
1991年に戻りました。オーストラリア経済は不況でした。特に車関係は最悪でした。このままこの会社にいたら、窓際族にされて給料も減俸されるか、悪ければ解雇されるだろう、と思いました。55歳でしたが、早期リタイヤメントのつもりで退職することにしました。そうしたら直ぐにCSIROに仕事がみつかりました。
*政府の大きな組織ですね。こんどはどんなお仕事を?
オーストラリア・オートモビル・テクノロジーセンターを造る仕事でした。私にはサイエンスの知識の下地があって、自動車産業界の知識もありましたので。12年間に、その他にもいくつかのプロジェクトをこなして、仕事を楽しみました。その後、新しいエネルギー、ハイブリッド・エレクトリックパワーを使った車を製造しました。その車を日本を含む世界の多くの国々に公開してまわりました。目的はオーストラリアにも、こういう車を製造できるハイテクノロジーがあります、ということを宣伝して知ってもらうためでした。
*現在、車の会社は新しいエネルギーを使った車の開発に熱心、というか競争をしている状態ですか?
いいえ、私はそうは思いません。現在トヨタとホンダが開発をしていますが、トヨタが先端をいっています。他の会社は遅れをとりたくないので、開発はしていますが、特に力をいれているとは思いません。コストがかかりすぎてまだ実用には向きません。30万円から50万円の差があれば、たいがいの人は安い方を買います。現在の段階では、実用はまだまだ先のことでしょう。なぜなら多くの人は、環境保護は自分に直接関係のない問題だと思ってしまうからです。それも石油の値段次第ですが。例えばガソリンが1リットル$10になれば、状況は全く違ってきます。またはガソリンを使う人が環境汚染の費用を直接負担する、というシステムになれば、また違ってくるでしょう。
*やはりどうしても経済が優先になってしまうのですね。ところでデービッドさんは、CSIRO を一度リタイヤーされたのですね。
そうです。それで現在また同じところで働き始めました。
*どうしてですか?
自分の能力を生かして、何か役に立つことをしたい、と思ったからです。
*今度はどのようなお仕事で? 
今度の新しい仕事は、環境保護に関係がある分野なのです。「低エネルギー運輸システム」というものです。新しい科学、テクノロジーを使って、いかに運搬費用を低くできるか、という課題で、私の仕事はそのチームの組織と運営です。貢献できる良い結果を出すのは、なかなか難しい、と思いますが、ベストをつくすつもりです。
*フルタイムのお仕事ですか?
週に4日です。週に2回ジムに通うのに丁度良い日程です。
*一度リタイヤーして1,2年ゆっくりしてから、また働き出す、という方がかなりいますね。
リタイヤーの生活が退屈だ、と感じる人が多いようですが、私はそうではありませんでした。リタイヤーしていた間にたくさん旅行をしました。本を買っても読む時間がなくて、本棚に並べておいた本を読むことができました。ピアノの練習も十分にできます。だから退屈ということはなかったのですが、この仕事の話があって、興味がわいたのでまた働くことにしました。それに収入にもなりますから。
*リタイヤー中、旅行にはどのような所にいらしたのですか? 
私たちが行きたいところはヨーロッパと中近東なのです。つい最近トルコに行ってきたところです。トルコは素晴らしいところでした。エジプトには行きましたが、ヨルダン、シリア、リビア、チュニジアにはまだ行っていません。イランにも行ってみたいですね。
*なぜ中近東なのですか?
古い歴史があって、我々とは異なる文化を持った国々なので、非常に興味深くて魅力のある地域だからです。それと古代ローマにも興味があります。もちろんイタリアには古代ローマのものがありますが、トルコにいったら、むしろトルコの方に古代ローマのものが沢山残っていて、影響がたくさん見られました。
*ローマ帝国の影響はずいぶんと広範囲に渡っていましたものね。イギリスにまで及んでいたのでしょう。
そうです。わたしはイギリス生まれですから、イギリスのことなどあまり興味がなかったのですが、この間、「イギリスの城」の本を読んでいたら、古代ローマの影響が強く残されているのに驚かされました。
*話は変わりますが、デービッドさんはイギリスから始まって、アフリカ、オーストラリア、台湾でお仕事をされてこられたのですね。
短期間ですが、南米、北米でも仕事をしました。南米はブラジルのサンパウロでしたが、好きになれませんでした。
*どうしてですか?
貧富の差があまりにも大き過ぎるのです。エジプトにも大きな貧富の差がありましたが、エジプトの場合はそれほどこちらが居心地の悪い思いを感じなかったのですが、サンパウロの場合は非常に気になりました。なぜそうなのか理由ははっきりしないのですが。とにかく好きになれませんでした。
*これまで訪れた国、地域でどこが一番好きですか?
どの国も、人々は友好的で親切で興味く、それぞれに好きです。日本にも30回以上行きましたよ。台湾駐在中に出張したのがほとんどで住んだことはないのですが。初めて台湾から日本へ行ったのは1979年でした。この出張で台湾の自宅に帰って来たのが朝の1時でした。その時は一晩中、日本での珍しい興味深い体験を妻に話し続けて、眠らなかったのですよ。この時は東京には行かなくて広島と神戸だけでしたが、ものすごく興味深いものを感じました。10回くらいまでは、何べん行っても行く度に何か新しいものが見つかって、いつも興奮して帰ってきました。
*日本について何が興味深いところですか?                                     
一口ではいえないですね。日本の社会とか、会社の組織とか。例えば駅のプラットフォームに煙草の吸殻を捨てない、ということに決まると、線路にも吸殻一本落ちてないのですね。線路まで掃除して吸殻を拾ってしまうのでしょう。今まで私が訪れたどの国でも、線路まで掃除はしていなくて、たいがいゴミや吸殻が見えました。日本はそういう細かいところまで徹底させる、ということに非常に興味がもてます。あと日本の文化、日本の伝統的な家や家具、料理などなど、とてもユニークですね。それからお城、私は建築にも興味があるので、日本の城はヨーロッパとも違ってユニークで面白いと思いました。それから広島平和公園、非常に強烈な印象を受けました。18ヶ月前にはアウシュヴィッツへ行きましたが、両方とも肌寒くなるような恐怖を感じました。広島には私と同じ年格好の日本人の友達がいます。彼が話してくれたのですが、広島に原爆が落とされた時は、風邪をこじらせて臥せっていました。お母さんが朝の食事をお盆に載せて運んでくれたので、起きて食べようとしていた時に、原爆が落ちて、窓ガラスが粉々になり、食べ物の上に落ちてきました。それで少年だったかれは泣き出したのだそうです。実際に原爆が落とされた時に、そこにいた人の話は、一度聞いたら忘れられるものではありません。その人とは仕事を超えた友人としての信頼関係をたもっています。
*日本のビジネスの仕方は、ヨーロッパやアメリカとはずいぶん違うでしょう。
そうです。わたしのフォードでの仕事の一つは、ビジネスの質を向上させることでした。ご存知のように日本ではビジネスの相手にプレゼントをする習慣があるでしょう。これは我々西洋人にとっては、非常に困ることなんですね。扇子だとか風呂敷といった小さな贈り物はかまいませんが、金時計などになると、これは大きな問題なのです。それで私たちはいろいろと規則をつくりました。特にアメリカの会社では厳しいルールがあります。日本ではナイトクラブなど様々な招待がよくありますが、たいがい断っていました。でもナイトクラブの方はたまに応じていました。ところがある時、分かったのですが、ナイトクラブへ行く費用の方が、他のものよりずっと高いのですね。知らずに日本のビジネスマンに高い料金を払わせてしまっていたのです。招待やプレゼントを無下に断って気を悪くされても困るし、西洋人のビジネスマンにとって、日本の習慣は大きなディレンマなのです。
*プレゼント、接待ということでは台湾も同じではないですか?
そうですね。ビジネスにおいての目的は同じですね。その仕方が違いますが。日本の方が巧妙ですね。私たちは台湾の駐在生活を満喫しました。山などの自然、それからお寺、博物館など面白く興味深い見所がたくさんあります。特に博物館にある美術、工芸品の宝物はいいものがたくさんあります。中国で共産革命が起きた時に、蒋介石が本土から運んできたものが多く、どのようにして本土から無事にその博物館におさまることができたか、一つ一つに波乱万丈なエピソードがあって興味がつきません。青年の頃の中国に行って住む、という夢は果たせませんでしたが、中国文化、社会の影響が濃厚な台湾に住むことができたので、少し違った形で夢が実現できたわけです。
*いろいろな所に滞在されて、よい体験をたくさんされてすばらしい人生ですね。
あっ、それから一つ付け加えたいことがあるのですが、私の息子はもう44歳になっていますが、日本に住んだことがあって、日本語が話せるんですよ。読み書きもできます。彼は1961年にアフリカで生まれたのですが、オーストラリアに移住して15歳の時に日本に1年間交換留学で滞在しました。彼は学校で日本語を学んでいました。交換留学生として日本へ行く前に、日本語集中コースで特別に勉強して日本へ行きました。千葉の茂原の日本人家庭にホームステイして、高校に通いました。ホームステイの家族は英語が全くわからなかったので、彼は日本語を話さなければなりませんでした。最初の3ヶ月間は毎日欠かさず、私に手紙を書いてきました。それが3ヶ月過ぎたら1通も来なくなりました。次の手紙を受け取ったのは9ヶ月後でした。3ヶ月経ったら彼は日本語に少し自信がでてきたのでしょう。学校で友だちもできて、いろいろなことができるようになり、毎日が面白くて父親に手紙を書いている時間がなくなったのでしょう。彼の日本語は非常に良い、とのことでした。1年間経ってメルボルンに帰ってきました。空港に迎えに行ったら、彼は日本の高校生が着る黒の詰襟の制服を着ていました。そして私の姿をみつけてお辞儀をしたのです。残念なことに私はその時、ビデオカメラを持っていませんでした。もし彼のあの時の姿を撮影していたら、本当に貴重な記念になったでしょう。その後、彼はオーストラリアで教育を完了し、オーストラリアの会社でずっと働いていたので、日本語を使う機会がありませんでした。けれど現在アメリカの会社で働くようになって、アジアの各地に出張するようになり、彼が高校時代に覚えた漢字が少々役立っているようです。彼が交換留学生として日本へ行ったので、私たちも日本からの留学生を受け入れて、過去およそ30年の間に、数人の日本の留学生を我が家に迎えてきました。ですから、日本との関係は親子2代に渡っているのですよ。
*そうでしたか。お話はうかがって見ないことには解からないものですね。今日は貴重なお時間を頂いて、興味深いお話を聞かせていただきありがとうございました。


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