Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (33)    Mr John Hawley                                 
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は、アーティストでありミュージシャンでもある John Hawley さんをスタジオにお訪ねしました。
 
*ジョンさんはアーティストでありミュージシャンでもあるとうかがいましたが、どちらかに比重を置いていらっしゃいますか?
うーん、そうですね。はっきりどちら、といえませんね。ミュージックは私の心の糧、支えになっています。毎日、音楽に接していないと心が落ち着きません。だからピアノは毎日弾いています。
*どのようなタイプのミュージックですか?
そうですね。何といって説明すればいいか。強いていえばオーストラリアンミュージックとでも言えばいいでしょうか。もう11年も同じグループで演奏をつづけているのですが。ジャズでもないし、カントリーでもないし、ポップでもないし、ラテンでもないし、自分たちで創り出したミュージックで、うん、やはりオーストラリアンミュージックとしかいいようがないですね。
*楽器は何をお使いですか? 
ピアノとサキソフォンとドラムです。
*ミュージックとの関わりは何時頃から?

両親がシンフォニーオーケストラのチェロリストでした。だから生まれた時から音楽的な環境にありました。物心つくころから何かの楽器がいつもそばにあって、いつも何かの楽器を弾いていました。音楽は私の生活、身体の一部のようなものになっています。

*ではすんなりとご両親の音楽の世界に入っていかれたわけですか?
いいえ、そうとはいえないですね。父は私にチェロを教えようとしました。私もある程度まで上手に弾けるようにはなったのですが、やはりよくある父親と息子の対立関係に、私たち親子もなってしまいました。私は父親が強制するクラッシック音楽の練習法などを拒否しはじめて、一時期、音楽そのものを拒否しましたが、他のジャズなどを通してまた音楽に戻っていき、自分なりの音楽を見つけていきました。それと同時に絵を習い始めました。母は絵を描くのがとても上手でした。コンサートの待ち時間などで、オーケストラのミュージシャンたちを描いたりしていました。母の描いた絵をみんな喜んでくれていました。母の影響もあったのでしょう。絵に興味をもち始めました。

*絵を習い始めたのは何時頃のことですか?

16歳のときにアートスクールに行って、本格的に習い始めました。ギリシャの彫刻のデッサンから始まって、デッサン、ペインティング、イタリアの代表的な絵画をコピーして描くこと、ポートレートなど、7年間、絵の勉強を続けました。その後は、アートの教師もしました。
*スタイルからいうと、どのような絵を描かれるのですか?

アートスクールではクラッシック絵画のトレーニングをたくさん受けました。特にヨーロッパのクラシック絵画、イタリアのルネッサンスの時代の絵が好きでした。それらの絵を真似ているだけで、過去の芸術の世界に触れているように感じていました。けれど1950年代にメキシコ、イタリア、アメリカなどからのニューウエーヴの抽象画の展覧会がメルボルンで開かれました。ほとんどの画家たちはこのニューウエーヴの影響を受けて、アブストラクトに移っていきました。雑誌などではアメリカからの新しい画法が大々的にとりあげられ、私たちは強い影響をうけました。私もクラシックからアブストラクトの画法に移って行きました。その期間、私はアートスクールで教えていたのですが、オーストラリア独特の風景、アボリジニーの人たちを風景に取り入れた絵を主に学校で教えていました。 

*では一貫してアートに関わってこられたのですか?生活のためにアートと関係のない仕事をした、ということはありましたか?                                        
14歳で学校を卒業して2年間ほどは、いろいろなアルバイトをしました。病院で下働きをしたり、工場で働いたり、郊外の焼き物の釜の火をみる仕事をしたり、いろいろなことをした後、両親の勧めでアートスクールに行ったのです。若いときの反抗期も含めて、自分の将来を手探りしていた、苦しい時代をなんとか無事に切り抜けたわけです。アートスクールを卒業してからは絵を描くのと同時に学校などいろいろなところで教えました。アダルトスクールではレクチャーもしました。教えることは、私の生活の保障にもなりました。現在はあまり教えていませんけれど。
*お若い時に海外にでかけられたことはありましか?
1960年から1967年にかけて海外に出ていました。たくさんの国々を旅行して最後の2年間はイスラエルにいました。
*イスラエルに2年間滞在されたのは何か理由があったのですか?
亡くなった妻との出会いがあったのです。イスラエルに着いた最初の1週間目に彼女に出会いました。彼女は私の絵にとても理解を示してくれて、励ましてくれました。1967年に私がオーストラリアに先に戻ってきて、そのすぐ後に彼女がきてくれました。二人でギャラリーを開いて、私はポートレートや普通の絵をたくさん描き、展覧会を頻繁にしました。彼女は非常に有能でダイナミックな女性でした。私が画家としてやっていくことを助けてくれました。
*16歳でアートスクールにいらしてからずっとアートに関わっていらしたわけですが、その間にミュージックも続けてらしたのですか?
ええ、ずっとギターを弾いていました。けれど私の情感を表現するのに、ギターでは限りがあるように思えてきて、ピアノに移りました。ピアノの方が自分を表現するのに合っているように思います。
*アートとミュージックをされていて、二つの分野がお互いに影響するということはありますか?
ミュージックは私のアートを助けてくれている、と思います。ミュージックは私に自由を与えてくれます。私の感情、イマジネーションを、時間的、空間的に解き放ってくれます。
*アートの方は1次元的な平面としてのワクがあるけれど、ミュージックは3次元的な自由がある、ということですか?
そういうことかもしれませんね。私の絵は、インスピレーションで描くことが多いですが、いき詰まったときにピアノに向かうと感情が開放されて、自分がすごく自由になります。
*ご自分が好きで得意な絵画と音楽という二つの芸術分野を続けてこられて、すごくうらやましい気がしますが、今までずっと順調で、スランプにおちいったりとか、困難なことはなかったですか?
好きなことをして生活ができるなんて幸せだ、という見方がありますが、易しい生き方ではないと思います。何にもないところから自分で何かを創り出していかなくてはならないのですから。職業としての仕事をする、というのとも違うし、専門職でもないし、孤独な作業ですから。それに普通の職業のような保障もないですから。
*そういう点では非常に厳しいものがありますね。これまで展覧会はオーストラリア以外でもされてこられましたか?
ええ、日本でもしましたよ。ドイツ、ロンドン、太平洋諸島、イスラエル、アメリカなどです。
*ずいぶん国際的ですね。そのなかで特に印象深いというか、強く印象に残っているのがありますか?

イスラエルには強い思い出があります。妻に出会ったところでもありますし。イスラエルには2年間滞在して5回展覧会をしました。1965年から67年にかけてですが。

*あの頃はイスラエルという国が希望に輝いていた頃ですね。一時期、理想主義の若者たちが未来に理想と希望を託した国、でもあったのではないですか? 世界の各地からキブツにはせ参じる若者がいたころですよね。もしかしてジョンさんもその一人だったのですか?
正直にいいますと、私は理想主義でもなんでもなくて、ヒッピーの一人としてギターを抱えて世界を漂流していたにすぎませんでした。イスラエルも訪れてみた国の一つだったのですが、最初の週に妻となった人との出会いがあって、イスラエルは特別な国になりました。その頃イスラエルはあらゆる芸術活動が盛んで、刺激的なところでした。彼女は私の絵をみとめてくれて、激励してくれました。私も創作意欲にもえて、どんどんと描き5回も展覧会を開きました。
*絵は売れましたか?
ええ、買ってくれる人がたくさんいて、2年間で、アバンギャルドの画家として少しは知られるようになりました。
*ハワイで開催した展覧会ではアンソニー・クイーンの作品もあったとか?

あれはオーストラリアに戻ってきてからです。妻と一緒にセント・キルダにギャラリーを開いていた頃です。ある富豪のオーストラリアの実業家が私の絵をとても気に入ってくれて、彼と2年間の契約を結びました。その契約の条件の中に海外で展覧会を開く、というのがあって、ハワイのマウイ島で展覧会をひらきました。その時にアンソニー・クイーンも作品を展示していたのです。マウイ島にはしばらく滞在しました。

*その頃はどのような絵を描かれていたのですか?
当時、私は花や鳥の絵をしきりに描いていました。写実ではなくて、イマジーネーションにもとづいたとてもカラフルなものでした。それがハワイの自然とあって、展覧会は大成功でした。
*その他にも印象的な展覧会はありますか?

9月11日のすぐ後のニューヨークの展覧会は非常に印象的でした。9月11日の悲劇をテーマにした展覧会への出展に招待されて作品を送りました。作品は郵送して、その後、展示されているのを見るためにニューヨークへ行きました。5番街とかグリニッジビレッジとかも行って、非常に興味深かったです。あの大事件の後、仕事を失った人もかなりいて、まるでディプレッションのような印象を受けました。あの悲劇がニューヨークの人々にもたらした傷の深さは、遠くオーストラリアにいる我々は、真に理解していない、できない、と思いました。当然のことですが、人々が大きな不安を抱えているのがまざまざと感じられました。

*イラク戦争以来、不安はますます広く深くなっているようですね。ところで話は全く変わりますが、ジョンさんには義理の日本人のお嬢さんがいらっしゃるとか。

息子が日本女性と結婚しましたから。

*ご両親と同じく国際結婚ですね。どのような出会いがあったのかご存知ですか?

ええ、息子の話によると、フリンダース・ストリート駅の前の交差点だそうです。目が合って、自然にお互いに微笑んだのがきっかけだそうです。息子がメルボルンを案内することになって、それから付き合いが始まって、ロマンスが芽生えたようです。

*結婚の前に息子さんからの相談はありましたか?
ええ、良いことだ、といって賛成しました。彼女は人柄もよくとても有能なシェフなのですよ。しばらく同居していたのですが、3ヶ月ほど前に近くに家をみつけて引っ越していきました。
*ご自身はアートとミュージックを現在も両方続けていらっしゃるのですか?
ええ、アートの方は週に1回教えていますし、つい最近かなり大きな展覧会をして、作品はセント・キルダのギャラリーに展示してあります。ミュージックもつい先日CDを出しました。近くの教会でチャリティーのコンサートを開きましたが、これも盛況でした。これからはミュージックの方にもっと力を入れていきたいと思っています。
*どうぞ、これからも末永くご活躍ください。今日はお忙しいところ、お時間を頂きありがとうございました。

                                                   インタビュー:スピアーズ洋子

John Howley さんへの絵が展示されているギャラリー:
Gallery One One 2, 112 St Kilda Road, St Kilda (between St Kilda Junction & Alma Road)
Wed - Sun 12 noon - 6pm
絵画教室:毎週金曜日の夜 
The Victorian Artists Society, 430 Albert Street, East Melbourne  Tel 9662 1484
ミュージックワークショップ:毎月第二日曜日
The Victorian Artists Society, 430 Albert Street, East Melbourne   Tel 9662 1484    

 

 


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