Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (31)    増岡 ヒロミ
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、メルボルンでお風呂屋を経営している増岡ヒロミさんをお訪ねして、お話をうかがいました。
 
*さっそくですが、メルボルンでお風呂屋さんを開業してどのくらいになりますか? 
丁度5年です。1999年の七夕様の日に開業しました。
*まあ、七夕の日に! それはすてきですね。それで何故、お風呂屋さんを?  
よくみんなに訊かれるんですが、私がお風呂が好きだからなんですよ。まずなんといっても、肩までどっぷりお湯に浸かれるお風呂に入りたかった、ということですよね。お風呂が好きで好きで、日本ではいつも温泉めぐりなどたくさんしていたんですよ。それでこちらに来た時、食べ物に関しては、ビクトリア州には美味しいものがたくさんありますよね。だから全然問題はないのですが、やっぱりお風呂が恋しくて。それとビザの関係もありまして。オーストラリアで何かビジネスをしないと滞在できない。何をしようか、前に自分がしていたことをしようか、それとも全く新しいことをしようかと、考えて、どうせなら自分の好きなお風呂をビジネスにしよう、ということになったんです。
*ではお風呂屋さんを開業する為にメルボルンにいらしたわけではないのですね。メルボルンには何時頃いらしたのですか? 
1988年から翌年にかけてです。14、5年前ですね。娘の学校のことでこちらに来ました。
*はあ、そうなんですか? お嬢さんの教育のことで。
ええ、私自身、大学を出てからイギリスへ行って勉強したり仕事をしたりしました。それでこれからの世の中は国際人にならなければならない、と思いました。娘が生まれた時に、小学校は日本で教育をするけれど、それ以後はどこか海外で教育を受けさせる、と主人と話し合って決めていました。私は日本では、外人宿舎、後に外人ハウスという名称で知られましたが、そのパイオニアなのです。東京の中野で経営していましたが、娘の留学先を探していた時に、お客さんで友達になった人から、メルボルンは静かな落ち着いた都市で、しかも住みやすい国際的なところだから、一度行ってみたら、と勧められたのです。それでビクトリア州のコブラムという町に初めて行って、もう、びっくりしてしまいました。特に田舎というわけではなくて大きな町なのに、土曜日の朝起きてみたら、霧がかかっていて、散歩に出たら、あたりがとっても静かで1台の車も走っていないんですよ。うわっ、こんなところがあるんだ! とすごく感動して、オーストラリアのメルボルンを終の棲家にすることに決めました。私はオーストラリアに来る前に25カ国ぐらい歩いていたのですが、こんなに気持ちの上で入れ込んだ国って、なかったんですよね。もう、ああ、ここだ!と思って娘と二人で移住してきました。
*静かなことに、そんなに感動したということは、東京での生活がさぞ忙しかったのでしょうね。それでご主人は日本にいらしたままで?

ええ、主人は仕事のこともありまして、すぐには行けないけれども、後からゆっくり行く、ということで、とりあえず娘の留学先を決めて私も一緒にオーストラリアに来たのです。ところが2年経った時に、主人がポックリ亡くなってしまったのです。一度もこちらの土を踏まずに。

*まあ、そうだったのですか!それは、本当に残念なことで。
それで私も日本に帰る理由がなくなってしまって。もうこうなったらここに腰を据えて、と思ったのです。メルボルンに対して情熱がありましたから。

*そうすると、お風呂屋さんを開業する前はメルボルンで何かされていたのですか?

娘の付き添い、が理由でしたから。でも日本食レストランのお手伝いをしたり、勉強したり、リサーチをしたり、旅をしたりいろいろなことをしていました。
*では、その間の生活費などは、亡くなったご主人がサポートされていたのですか?

私、日本では外人ハウスを経営したり、英語を教えたり、通訳などもしていましたので、娘を留学させて、私も暮らしていける、それなりの資金は用意してありました。娘が中学1年から入学できるように、ちゃんと間に合うように計画して日本を出ました。

*素晴らしいお母様で。
でも、娘は迷惑だった、って言っていました。
*いや、そのうちに、お母様に感謝する時がきっときますよ。
今娘は日本にいて、ダンスを教えたり、歌を歌ったり、いろいろとやっています。でも、小さい頃は、何故、自分が外国で、こんな思いをしなければならないのか、とママが憎らしかった、といっていました。でも今は、本当にママに感謝している、と言ってくれました。
*お嬢さんは日本に帰ってしまったのですか? 一時的ではなくて。
さあ、どうなんでしょうね。こればっかりは、どうともいえないですね。日本では小学校を出てすぐこちらに来てしまいましたからね。日本って、どういうところなんだか解からなくて。生まれて子供時代を過ごした日本が恋しくて。それでこちらの学校を出てから、どうしても日本へ行きたいといって、日本へ行ったら帰ってこない、という状態が続いているんです。今年で25才になるんですけど。
*そうなのですか。でもお嬢さんはバイリンガルでこちらの永住権があるのでしょうから、日本にも住めるし、オーストラリアでも、世界のどこでもやっていける、という選択の余地があるわけですよね。それは良いことではないですか?
そうですね。子供はなかなか親の思う通りにはならないですね。大学1年を終えて退学して日本に行ったきりなんですよ。このお店を開く7,8ヶ月前には、もう日本へ行っていました。でも、開店する時は、日本から戻ってきて手伝ってくれました。
*そうでしたか。それで開店にこぎつけるまでどうでしたか? ご苦労などはありましたか?
楽しかったですよ。メルボルンでお風呂屋さんを開く限りは、理想に近いもの、日本人として恥ずかしくないものを造りたい、と思っていました。私はお風呂が大好きで、お風呂のことは少しはわかっていましたから、お風呂については何も知らないアーキテクトと、一つ一つ意見を交換し、相談しながら造りましたので、本当に良いものができたと、満足しています。今から6年ほど前ですが、いろいろリサーチをしたり、場所探しをしていた時期というのは、思い返してみると、夢中で毎日を過ごしていました。ワクワクして本当に充実していました。
*それで開店当時はいかがでしたか?
ユニークなもの、ということで新聞がとりあげてくれたのが最初で、テレビ、雑誌などもとりあげてくれて、もう、本当に順調にやってこれました。最初の1ヶ月ですね。ちょっと心配だったのは。その後はもうお客さんの数は延びるばかりでした。おかげさまで、ありがたいこどだと、思っています。
*ちなみに1日何人くらいの人がみえますか? それと日本人が多いのですか? それともオーストラリア人?
そうですね、多い時で50人から60人くらい。少ない時で20人くらいかしら。9割以上がオーストラリア人で、レジャー感覚でみえる方が多いですね。有名な方もいらっしゃいますし、大変きつい仕事をされている方も多いですよ。ロイヤーだとか教授だとか。そういう方は静かにじっとお風呂に入って、出てからは、マッサージを受けたり、静かに本を読んでいます。日本人の方では、他の国に住んでいる人が、たまたまメルボルンに来た時に寄ってくださったり、他の州に住んでいる人がメルボルンに来た時に寄ってくださいます。日本のテレビでも紹介されたので、日本からみえた観光客の方がよってくださることもあります。
*そうですか。私は日本的感覚でお客様は年配の方が多いのかと思っていましたが、そうではなくて、バリバリ仕事をしている人が多いのですね。
ええ、忙しく仕事をしている方がメディテーションの感じで、リラックスするためにみえるようですよ。
*それで、ビジネスはこれまでずっと順調だったわけですね。
困ったことや嫌なことは、忘れるようにしています。いいことだけ憶えておくようにしてるんですよ。かえって自分以外の人が、こんなことあったじゃない、大変だったじゃない、といってくれるのですが、私は、そうだっけ、忘れたわ、と答えています。憶えていなくてもいいことは、憶えていない方がいいんですよ。
*それができるというのは素晴らしい能力ですよ。いつも前向きで。ところで先ほど、メルボルンに来る前に25カ国ほど歩いてきた、とおっしゃいましたが、初めて日本を出られたのはいつですか?
大学1年の時です。父が亡くなって、母の付き添いでハワイへ行ったのが最初でした。
*それは何時頃のことで?

もうずいぶん前のことです。1968年でした。

*そうですか。渡航制限が無くなって、まだそれほど経っていないときですね。1ドル360円で。でもその時はお母様の付き添いでいらしたわけですね。自分が海外に行きたい、と思って自分の意志で行ったのは、何時頃どこに?
母の付き添いで行った時は、英語も全然出来なくて、ジャルパックか、ジャルルックかのツアーで行きました。タクシーに乗っても運転手さんの言うことが全く理解できなくて、これは大変なところに来てしまった、と思いました。たった1週間の経験でしたが、それが自分の中で爆発したみたいに感じました。それから1年とちょっと経って、また母がヨーロッパ5,6カ国をまわるパッケージツアーに連れて行ってくれました。その時に、ああ、これはもう外に出て勉強しなければいけないんだ、と思いました。
*1970年代に入って直ぐですよね。その頃海外旅行をする人は少なかったですよね。お母様はずいぶん進んでいらしたのですね。
そうですね。父は私が生まれてから直ぐ、ずっと病気だったんですよ。4人子供がいて私は末っ子ですが。母はずっと大変な思いをしてきて、いつも疲れていました。父が亡くなって初めて人間らしい、生活ができるようになって、きっとすごく変わったことをしてみたかったのでしょうね。それで身辺に自由な人間は私しかいなかったので、私を連れて行ってくれたのだと思うのです。イギリス、フランス、スペイン、スイス、ドイツ、イタリア、リヒテンシュタインに行きました。
*それはすごいインパクトのある経験だったでしょうね。
ええ、それは大変でした。買い物なんかする気はまったくなくて、早く起きてみんなが集合する前に街にでて、散歩をしたり、イタリアでは、言葉はできないながらも、チャオッー、と挨拶したりしました。そしてこれはもう、大学を卒業して早く海外にでなければ、と決心しました。
*大学では何を勉強されたのですか? 語学ですか? 
いいえ、法学部なんです。私は生粋の学習院生なんですよ。初等科から大学までの。世間で言う受験勉強は全くなしで、楽々と過ごして法科にはいったのですが、法律の勉強は止めて、早く仕事をしたいと思っていました。それで大学を卒業して6ヶ月あまり日本一周の旅をして、それからイギリスへ経ちました。
*その費用などはお母様に出していただいたのですか?
自分の車を売って、その代金で行きました。兄が、行きたいんだったら自分の車を売って、それで行けばいい、後はもう自分で勝手にやればいい、といいましたので。
*それで、留学したのですか?
いいえ、最初は3ヶ月のつもりで行って、3年間居座ってしまいました。始めは日本で紹介された語学学校のカレッジに入ったのですが、クラスの8割が日本人でした。
*えっ? もうその頃から? 1972年の頃ですよね。今ならよくあることですが。
きっと日本人の間で名の知られたカレッジだったのではないですか。休み時間などいつでも日本語で、英語を話す機会なんてないんですよ。これではいけない、こんなことをしていては英語なんか勉強できない、と思いました。それでカレッジでの英語の勉強はあきらめて、別の方法を考えました。私はいろいろな資格や免許をもっていました。子供の頃から習い事もたくさんしていましたので。華道の免許もその一つで、これはイギリスで他のものよりは使えるのではないか、と思いました。それで有名な花屋さんに飛び込みまして、帰国するまでの3年間雇ってもらいました。ホテルのフォイヤーとか劇場、レストラン、結婚式、お葬式などの会場の花を活けました。洋式の活け花ですけれど。それでなんとかイギリスで生活の場をみつけることができたわけです。その頃はビザもわりとゆうずうがきいて、今みたいにきびしくなかったですよね。
*そうですね。イギリスの国自体が非常に落ち込んでいて、残照の国なんて悪口を言われていた時で、経済的な魅力がないから出稼ぎ労働者も少なくて。ロンドンでも留学生や外国人の数が今よりずっと少なかったですね。もちろん他に比べれば、非常にコスモポリタンな都市ではありましたけれど。でも、さっさと、語学学校を止めて、いきなり有名な花屋さんに飛び込んで雇ってもらうなんて、さすが!やっぱりどこか目の付け所が違いますね。それでイギリスにいた間にヨーロッパ旅行などはしましたか?
活け花をする間にレストランでアルバイトもして、ヨーロッパを旅行しました。イタリア、スペインにはよく行きました。ドイツには友だちが博士号を取る為に行っていたので、ドイツにも行きましたし、スイスにはスキーに行きました。ロンドンでシェアーハウス(一軒の家を何人かで共同で借りる)をしていたフランス人の銀行家と友だちになって、彼はゲイの人でしたが、パリにいるお母さんを紹介してくれて、パリにもよく遊びに行きました。
*そういえば、あの頃はヨーロッパではゲイはまだ公認されてなかったのですよね。だからフランス、ドイツ、北欧などからゲイの人がかなりロンドンに来ていましたね。ロンドンでは連れ立って歩いても平気だったでしょう。
ええ、映画なんかも規制がなくてかなり自由に見せていましたね。3年間ロンドンで働いて、ヨーロッパも旅行して、英語も話せるようになったので、もうここまでやったら、日本に帰ってビジネスを始めてもいいかな、と考えて帰国しました。
*素晴らしい青春時代を過ごされたのですね。それで帰国後、日本でどのようなビジネスを考えていらしたのですか?
外国人のための宿舎を開きたかったのです。その経営のためにはどうしても英語が必要でしたから。帰ったらすぐとりかかるつもりでしたが、結婚したので2年ほど遅れました。その間英語を教えたり通訳をしたりしながら、お金を貯めて、宿舎の準備をしました。ちょうど子供が生まれた時ですから、今から25年前ですね。
では子育てをしながら外国人宿舎を経営して、海外にもいらしていたのですか?
ええ、カーレースの通訳をしていたものですから。
*海外のレースにもいらしたわけですか?

ええ、マツダの専属で通訳をしていたものですから、国内、海外の大レース、耐久レ-ス24時間レースをほとんど全部こなしていたので色々な国へ行きました。1年に10回以上海外に出ていました。

*まあ、素晴らしい! ル・マンとかのレースにもいらしたわけですね。
面白かったですよ。全然違う世界ですから。それに旅が好きですし、外へ出て行くことが大好きですから。仕事が楽しかったですね。
*それは結婚する前のことですか?
いえ、結婚してからです。
*それでは、ご主人はすごく理解のある方だったのですね。
いえ、理解というよりも、仕方が無かったというか、あきらめていたんではないですか。
*ご主人は日本の方ですか? 
ええ、下町の祭り好きな、ちゃきちゃきの江戸っ子でした。
*まあ、そうなんですか! 珍しいですね、日本の男性にしては、本当に。
そうかもしれませんね。朝目が覚めたときに、今日は私が何を言い出すか、楽しみだった、と度々言われました。
*それで、車が好きだったのですか? メカニックなことなども詳しかったのですか?
いいえ、全然。無から始めました。ただただ私の明るい笑顔と英語力だけでいい、ということで。スピードに命を懸けている男たちの中の紅一点だったわけですが、彼らにしてみれば、命がけのレースを終えて、戻ってきた時に、何にも知らない私が、無邪気な笑顔で迎えてくれるのが一番なのだ、そうです。
*うーん、かえって何も知らない方がいいのかな? 
ええ、そう言われました。レースに出る時に「行ってらっしゃい!」って、笑顔で送ってくれるのが、いいんだって。「帰ったら中華でも食べような!」って言って。大物のレーサーがレースに出て行くときに言っていたのを、今でも良く憶えているんですよ。なんにもほかの事は考えずに、「いってらっしゃい!」って、手を振って、向こうも「帰ったら遊ぼうな!」という感じでしたね。面白いエピソードがあるんですけれど、通訳を始めた頃、私、時計を持っていませんでした。一方、レースをする人たちは1秒どころかその何分の1を競っているわけですね。ある時、「ヒロミさん、今何時?」って訊かれたので、「2時頃じゃないかしら」と答えました。そしたら「ヒロミさん、僕たち何分の1秒を命がけで競っているんだよ。頼むから正確な時刻を教えてくれよ」といわれました。当時私は「ドライバーズ・マザー」と呼ばれていたんですけれど、彼らが、お金を集めて、私に素晴らしい時計をプレゼントしてくれました。そのくらい私は無頓着なんですね。ルーズではないんですけど。
*通訳は日本人のドライバーとローカルの人との?
主にメカニックの人たちですね。初めは本当に何もしらなかったんですけれど、必要な単語を勉強しました。マツダの丸秘のミーティングなどに私がいても、彼らは安心していました。何も解かっていない私から秘密が漏れる心配はまずないと。そういうことで笑い話がよくありましたね。
*そのお仕事は何年ぐらい続けたのですか?
足掛け6年、丸5年です。毎年10回ぐらいは海外に出ていました。
では、その間、お嬢さんのめんどうはどなたが?
主人がめんどうをみてくれました。娘と二人仲良く。母なし家庭で。
*まあ、そうなのですか。
夫は床屋だったものですから、ずっと家で仕事をしていましたので、その点助かりました。どこへ行くにも父娘が一緒で。娘は夫に育ててもらったようなものですね。
*まあ、そうでしたか。日本にもそういう男性がいらっしゃるんですね。
文句は一切言われなかったですね。
*夫婦の立場が普通と逆という感じで。ご立派な方ですね。でもカー・レースーというのはメカニックなものとレーサーの感性、知力、持久力などが総合されたすごく男性的な世界ですよね、それも飛び切りの。そういう人たちの中で妻が仕事をする、ということに対して、ご主人は不安を感じられなかったのかしら。また反対に、ヒロミさんはそんなに家を留守にして、夫が浮気をしないか、なんていう心配はなっかたのですか?

あっはは。そういう心配はなかったですね。お互いに。夫はそういう人ではなかったですね。お酒と祭りと友だちが大好きな、本当にちゃきちゃきの江戸っ子でしたから、ミスマッチだってよくいわれましたけど。粗野なところもありましたけれど、彼のそういう男らしさに、私は惚れ込んでいたんですよ。

*日本では通訳だけでなく他の仕事もされていたのですよね。
ええ、通訳の方は断続的で、日頃は近所のお母さんや子供たちの英語教室、それから外国人宿舎を5軒運営していました。
*それは、お一人でされていたのですか?
ええ、オートバイに乗って5軒の間を飛び回っていました。1週間ずつ借りられて、個室があって、あとキッチンとシャワーを共同で使うシステムになっています。初めの2,3年はちょっと大変でしたけれど、その後は一人出るとあと他の人が待っている、という具合で空きがまったくなかったです。こういうシステムは日本で初めてだったものですから、新聞などにも度々とりあげられましたし。
*先駆者だったわけですね。投宿者は世界中からですか? 
43カ国の方々をお世話しました。今でも当時の書類はちゃんと保管しているのですよ。メルボルンに来たきっかけというのも、当時のテナントの一人が勧めてくれたからなんです。
*お嬢さんが生まれた時に、小学校を卒業したら海外で教育を、と決めていらしたのですね。
ええ、娘と私が先に来て、あとから夫が来ることになっていたのです。夫はボランティアで消防活動をずっと続けていましたが、二人がいるとそっちのことが気になるけれども、いなければ安心して活動に専念できる、といって出してくれました。
*そのお嬢さんもオーストラリアでの教育を終えて、現在日本に帰っていて、その間にヒロミさんはメルボルンではこれまたユニークなお風呂屋さんを開業しちゃったわけですね。
私は決まりが嫌いで、人まねや人と同じことをするのが絶対に嫌なんですよ。以前メルボルンで日本料理店のお手伝いをしていた時も、私はいろんなことをしてみたい性質なので、キッチンに入って餃子を作る手伝いをしたのですね。その時、板前さんにいわれました。「みんなはこっち向きに並べているのに、お母さんは(私、いつもみんなにお母さんて呼ばれるんです。通訳していた時もそうでしたが。)どうして反対向きに並べるんだ」って。まさにその通りで、一時が万事そうなんですね。
*日本人としては本当に珍しいですね。突然変異みたいな方ですね。
いつも何か新しいことを考えてチャレンジしていくのが好きなんですね。私の日本人の会計士の方も、「ちょっと、落ち着くと、またすぐ何か始まるんだから」って、いい加減にしなさい、みたいな調子でおっしゃるんですよ。きっと私の悪いクセなんでしょう。学校を卒業する時、言われたんですよ。「頼むからうちの学校の出だって言わないでくれ」って。「あなたは院内に咲いた雑草で、摘み取らないで良かったけれども、あまり知られたくない」って。
*どうして、そんな。素晴らしい特殊な才能ではないですか。進化論にだって突然変異説というのもあるのに。
父はすごく厳しくてスパルタ教育の人でしたから。それに学校も、規則、秩序、規律ということばかりでしたから、その2者から解放された時に爆発したように、自分の世界が広がっていったんではないかしら。
*そういう環境にありながらも、反撥して押しのけていく、という力が強かったのでしょうね。
でも、いまだに家庭や学校で躾けられたきちんとした部分は、自分の中に芯としてかっちりとありますね。人様に恥ずかしいようなことはしない、ということを初めとして。ただ自分の人生は自分で決めて行く、ということですよね。
*それではヒロミさんが、お嬢さんを育てる時はどうでしたか?
それが、親ばかですね。好きなことをさせています。自由奔放我がまま勝手、ということではないんですよ。娘は小さい頃からダンスが大好きで、アイススケートのフィギュアスケートから始まって、ダンス系のものをずっと続けてきました。こちらに来てからも、直ぐに大きなダンスの学校に入りました。学校でもいい人材をみつけた、と言ってくれて、2年以内で学校のスターになりました。16歳の時に初めてコモンウエールズの大会に出場して優勝しました。
*10年と少し前のことですよね。もしかして、それテレビのニュースで観た様な気がします。へえー、ビクトリア州代表で日本人が出場して優勝したんだ!ということがとても印象的でした。名前までは憶えていませんけれど。
バレーはもちろん、タップとかダンスはぜんぶこなして、あとジャズをめざしています。歌が歌いたくて、ものすごく歌が好きな子なんですよね。でも、ちょっと失敗しましたね、育て方を。私は、好きなことをやればいい、と思って好きなことをやりたい放題させたものですから、もうそれしかできない子になってしまいました。
*でも才能があって、好きなことを続けていける、というのは素晴らしいことではないですか。
そうですね。今は日本でライブをやったりして楽しく過ごしているようですけど。でも他のことがぜんぜんダメなんですよ。経済的なこととか。お腹が空いても、お金が無かったら食べないで済ます、というぐあいで、計算が全く出来ない。だからもうちょっと、普通のこともできるように育てるべきだった、と心配なのですが。娘はそのうち帰るから、もうちょっと待ってね、といっています。日本へ行って5年になるのですが、だんだんそのキツサも解かってきたようで。時々仕送りもしているんですよ。彼女が夢を追っている間、少しでも助けてやりたい、と思って。でも東京にいる母に文句をいわれます。こんな育て方をして、何とかしなさい、と。
*でもせっかくの才能なのですから、伸ばして行った方がいいですよね。止めることはいつだって出来ますから。ところで、今ヒロミさんがこうしていらっしゃるのも、お母様に連れて行ってもらった、最初のハワイ旅行がきっかけなのではないですか?
それはありますが、母よりはむしろ父かもしれませんね。父は英語が流暢に話せたのですよ。16歳で家を出て、独学で英語を勉強して、密航してでもスイスに行きたかったんだそうです。でも20歳で結婚して4人の子供が次々に生まれて。無理をして4人の子供を学習院に入れて立派な教育の機会を与えてくれました。戦後直ぐに、米軍の払い下げのアルミを買い込んで、それを使って仕事をしていたのですが、米軍の兵隊さんとのコミュニケーションなどぜんぜん不自由なかった、ということです。
*お父様は自分で起業されて独自でやってこられた方なのですね。ではお父様から受け継がれた血、気質というものもあるんでしょうね。
そうですね。4人の中で私だけが父の血を受け継いでいる、とよくいわれます。でも父にはけなされることはあっても、ほめられることはなかったですからね、生きていたら何と言われるか。今でも父に叱られている夢をみるのですよ。だから娘は、ほめながら育てたのですが。
*お父様も、娘が海外で立派に暮らしていることを知ったら、「よくやっている」と喜んでくださると思いますよ。
そうだといいんですけど。
*今日はお忙しいところお時間をさいて、いろいろと興味深く楽しいお話をしていただきありがとうございました。

インタビュー スピアーズ洋子

コンタクト
お風呂屋
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