Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (29)        鈴木菊江
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月は、ネパールに20年間暮らした後、オーストラリアに移住された鈴木菊江さんに、お話をうかがいました。
 
*オーストラリアに来られてどのくらいになりますか? 
1年と10ヶ月です。
*では、まだいらして間もないのですね。 
そうなんです。だからまだ様子がよく解からなくて、トラム(市電)に乗っても物珍しくて、ちがう路線に乗るたびにあちこち眺めています。
*そういえば、わたしもメルボルンに来たばかりの時はそうでした。では、オーストラリアにいらした動機、理由をうかがってもいいですか? 
一番の理由は子供の教育、将来を考えてのことです。なぜオーストラリアを選んだか、というと義理の弟がシドニーに住んでいますので、それも理由の一つです。
*オーストラリアに来る前はネパールに住んでいらしたのですね。
そうなんですよ。20年間、住みました。
*20年間! では、ぜひネパールのお話を聞かせてください。そもそも、なぜネパールに?

1981年に2週間、ヒマラヤを見にいきました。

*お一人で?
ええ、一人で行きました。その時、偶然に日本語を話すネパール人の男性に出会いました。その時の出会いが縁で、彼と結婚してネパールに住むことになったのです。

*素晴らしい!当時ご主人はすでに日本語がお上手だったのですか。

ええ、私は英語がほとんどできなかったものですから、たいへん頼もしく感じて頼りにしました。
*ご主人はどこで日本語を学ばれたのでしょう。

日本で仕事をしていたことがあるのです。1970年の大阪万博の時に政府から派遣されて、ネパールパビリオンの仕事をしたそうです。

*それから約10年後に、ヒマラヤの麓で運命の出会いがあったわけですね。その時、何か感じるものはありましたか、将来ネパールに住むことになるだろう、というような。
いいえ、ぜんぜんなかったですね。ただ文通とかして連絡は取り合っていました。
*文通? それは日数がかかりますね。 
そうなんですよ。その頃のネパールでは、国際電話をかけるのは大変なことだったのです。線が少ないから、かかりづらいし、運良く繋がったとしても雑音がひどくて、ザーザーという音ばかりで声なんか聞こえなくて、ほとんど役に立たなかったですね。文通の他に、時々、休暇中に私がネパールに行ったり、夫も日本に何回か来ました。
*出会いから結婚まで、かなり時が必要でしたか?
そうですね。結婚式という改まったものはしなかったのですが、一緒にスリランカやバングラデッシュを旅行したり、トレッキングなどにも行ったりして、お互いに理解する時期をもちました。そうね、2,3年じゃないですか。
*法的に問題などはなかったですか?
日本とネパールの両サイドで結婚の手続きをしなければならなくて、まず私がネパールに住んで書類を申請したのですが、滞在証明とかなんとかで、かなり待たされました。日本側では全然問題はなかったです。
*ではお二人の新生活はネパールから始まったのですね。日常生活の上で習慣や食べ物の違いとかで、困るようなことはなかったですか?
ネパールは発展途上国だから、医療や衛生面が良くないのではないか、という先入観があって、もう予防接種など全て日本で済ませて行ったのですね。医療の面も不安でしたから、出産は日本でしました。でも、予防接種など政府できちんとやっていました。私の場合、上の息子の時も娘の時も、日本に帰って実家で出産したんですが、ネパールには私たちと同じようなカップルが何組かいて、問題なく出産して子育てをしていました。だからそんなに心配することもなかったのですが。私の場合は母に色々面倒をみてもらって、楽をさせてもらいました。
*ネパールでは日本女性とネパール男性の国際結婚というのはかなりあるのですか?
多いですね。私がネパールで暮らし始めた頃でも、すでに日本女性は10人くらいはいたでしょうかね。今はずっと増えているそうです。ネパール男性というのは優しくて女性に人気があるのです。それに日本女性もネパールではもてるんです。だからカップルがどんどん増えているようです。
*そうなんですか。ネパールの男性ってそんなに優しいのですか。その優しいというのは、どういう優しさなんでしょう?
優しいですよ、とっても。日本の男性というのは、以心伝心で、わかるだろう、みたいなところがありますよね。ところがネパールの男性は言葉や態度できちっと表してくれます。そういうところが受けるのか、ネパールの大使館には国際結婚の申請が増えている、と聞きました。ネパールに限らず、日本女性はどんどん海外に進出していますよね。
*ネパールでは日本女性との国際結婚が多い、との事ですが、では他の国の女性とはどうなのですか?
それもけっこうありますね。というのは、ネパールには観光客も多いですし、それにNGOなど、いろいろな国際的な援助組織から人材が派遣されています。だから国際的な出会いの機会も多いのです。
*海外からの女性がネパール男性と出会うだけでなく、ネパール女性が海外の男性と出会う機会もあるわけですね。
そうです。私が知っているだけでも、3人の日本人男性がネパール女性と結婚してネパールに住んでいました。
*国際結婚のチャンスの多い所なのですね。そうすると、海外から来た人がネパール人と結婚した場合、経済的な基盤はどうなのでしょう。ネパールで生活していけるのですか?

そうなんです。それが一番の問題なんですね。そのために離婚になるケースも多いんですよ。経済的な基盤があるか、ないか、ですね。日本人との結婚の場合、二人で日本へ行くケースが多いですね。

*例えばネパールの男性が経済的な基盤を持っているとすると、どういう職業になりますか?
やっぱり政府関係になりますね。それと観光関係、観光会社、ホテル、レストランとか。インターネットもどんどん入ってきていますので、オフィス関係の仕事も少しずつ増えてはいます。小さな輸出入会社とか、それにしても限られています。
*今おっしゃったような仕事に就ける人というのは、人口の何パーセントぐらいなのですか?
そのへんのはっきりした数字は知りませんが、たしか99%は農業だと思います。
*では、ネパールは農業国、なんですね。
うーん、だけど自給自足はできてないんです。平地が少ないから、お米とかは輸入に頼ってますね。ほとんどが山岳地帯ですからね。段々畑を上へ上へと耕していくわけです。飛行機などで上から見ると、段々畑がずっと続いていて、とてもきれいなのです。でも実際に農作業をする人にとっては大変ですよね。収穫も限られていますから。
*若い人たちが農業をする十分な土地がなくて、その他の働き場所もない、ということになると、大きな問題ですね。 
そうなんです。大学を卒業して専門的な知識を身につけても、働く場所がないんです。将来が見えてこないんですよね。
*そうすると、海外に出て行かざるをえない、ということになるのですか?
ええ、最近は出稼ぎがすごく増えています。
*出稼ぎ先は、どういった国ですか?
最近は世界中に出てますね。アラブの国とか、最近ではマレーシアへの出稼ぎが増えています。どこの国でも若い人はそうかもしれませんが、ネパールでは特に外国に行きたい、という願望が強いです。それでいつもチャンスを探しているようですね。日本人と親しくなって、日本語を学んで、コネを作って日本へ行くとか。
*菊江さんの場合は、ご主人は何をされる方なのですか?
夫はネパールの大学で教えていました。
*大学教授、それは良いお仕事ですね。職場も収入も安定していますよね。専門は何ですか?
建築土木です。発展途上国というのは、道路やダム、他にもこれから色々な建物を作らなければならないので、建築土木は重要ですし、学びたいという学生は、けっこう多いのです。
*大学教授というと、社会的地位は高いでしょう?
そうともいえないですね。ビジネスをしている人か、収入の高い仕事の方が尊重されてますね。だから学校の先生なんかは職業としては、あんまり好まれないですよ、収入も少ないですから。
*ネパールの社会には階級とかはあるのですか?
インドのようなカーストはないですけれど、どう説明したらいいのかな。民族でそれぞれカーストが分かれていますね。山岳地帯のシェルパ族、インド系のブラーマン、ブラーマンは最高位のカーストです。カトマンズに昔からいるネワール族、夫はネワールの出なのですが。カーストは、上下というよりは民族別といったらいいのかな。
*では、話をご自身のことに移して、ネパールに20年近く暮らして、ホームシックになったり、落ち込んだりとかすることはなかったですか?
やっぱり、病気をした時とか、体調を悪くした時ですね。心細くなったり、日本が恋しくなりますよね。
*食べ物などはどうでしたか?
食べ物に関しては、私にはネパール食が合っていて、毎日おいしくネパール食を食べていました。ダールという豆スープにご飯、タルカリという野菜いためのようなもの、あと肉類としてはチキン、香辛料をたくさん使ってカレー風に料理したものですね。それから、モモといって、ぎょうざともちょっと違うのですが、水牛の肉をシュウマイのように包んで蒸したものがあります。それを売る店をモモ屋というのですが、町のあちこちにあるんですよ。みんなどこのモモ屋のがおいしい、とかひいきがあって、評判の店には行列ができてましたね。ネパールのファーストフードといったところですね。ちょっと辛口のタレを付けて食べます。とっても安いですよ。だから庶民の蛋白源になっています。蒸すので衛生面でもそれほど心配がなく、旅行者なども美味しい、美味しい、といって買って食べてます。
*二人のお子さんの子育てはどうでしたか? 今、日本では色々な問題があるようですが、ネパールでの子育てはどうでしたか? 
ネパールは大家族で住むのが普通で、年長者を大切にする風習が今も続いています。家族の中に兄弟、姉妹の他、たくさんの叔父さん叔母さん、いとこが暮らしていて、家族の絆がとても強いですよ。そんな中で育った子供たちは、社会のルールを幼い頃から自然に学んでいて、力強く逞しいです。また他人に対しては優しいです。学校や家庭で、子供同士がよくケンカはすると思いますが、陰湿ないじめや弱いものいじめなど聞いたことがありませんでした。我が家の場合は、家で働いていた女性が、とても子供たちを可愛がってくれて、自分の子供のように面倒をみてくれました。彼女のネパール式の子育てに感心したり、戸惑ったこともありましたが、彼女が居てくれたお蔭で、子育てのストレスもあまり感じることなくラッキーでした。
*休暇などはどのようにして過ごされていましたか?
子供の休みに合わせていましたが、日本へ帰るのは3年に1度ぐらいでしたね。山に行くとか、親子でトレッキングに行ったりもしましたね。アンナプルナとか、エベレスト街道も行きました。

*そういう時はどのくらいの期間いくのですか?

10日とか、2週間くらいですね。子供たちもとても喜んでいました。いい思い出ですね。

*住んでいらした所からも山々は見えたのですか?

ヒマラヤは、もう、凄くきれいに見えました。家の屋上からとてもよく見えたので、ちょっと嫌なことがあったり、落ち込んだりした時は、屋上に行ってヒマラヤ山頂を眺めました。そうして、しばらくすると気分がすっきりしてきました。
*うわーっ、それは、そうでしょう。スケールが違いますね。ヒマラヤを眺めて気分をすっきりさせるなんて、まあ、なんという贅沢な。
そうですね。今振り返ってみると、6月から9月の雨季以外は、ヒマラヤがいつでも見えた、というのは最高の贅沢だったのかもしれませんね。最近は建築ブームというか、だんだん高い建物が増えてきて、カトマンズの町からは見えにくくなってきています。もちろん町を出てしまえば、その辺を歩いていても、いつでも見えますが。

*カトマンズといえば昔はヒッピーのメッカのひとつでしたよね。

1960年代から1970年代のことですね。あの頃はイギリスやヨーロッパからバスが出ていて、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドを通って、陸づたいにネパールに入るルートがあったのでしょう。洋子さんはこのバスに乗りましたか?

*いいえ、残念ながらチャンスをのがしました。現在の世界状況からは考えられないルートですよね。アフガニスタンのカブール、ネパールのカトマンズのマーケットなどは、イギリスやヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアの若者の間で評判でしたね。

当時、カトマンズでは、ヒッピーたちがマリファナなどを、安く手に入れて吸ったりなどしていたらしいですが、快楽主義というのですか、その社会的弊害も大きくなって後に禁止されました。法律ができて、旅行者といえども罰せられるようになったので、今はとってもクリーンな感じです。
*ネパールの国政というのはどうなっているのですか?
ずっと王政でした。それがベルリンの壁がくずれましたね。あの波紋が世界に広がっていきましたが、ネパールにも伝わってきたのです。あれをきっかけに、ネパールでも民衆の間にデモクラシー運動が始まったのです。かなり大きく発展して、軍隊が出動したりして、民衆の被害も大きかったようです。それで王様が身を引いた、ということです。それで民主主義、選挙制度の国になりました。共産党が政権をとったことも1年くらいありました。政権は、ころころとよく代わっていましたね。でもずっと一応は民主政権だったのですよ。ところが、2001年の6月にあの王宮事件が起きましたでしょう。
*王族が王位継承者の王子によって皆殺しにされた事件ですね。オーストラリアでも大きなニュースでした。
本当にあれにはびっくりしましたね。あの事件の後、1年半くらい経ってからだったかしら、今度は弟がキングになって、それから急に王政が復活してしまったのです。
*そのへんのところが、何だかよく解からないですね。皇室がみんな殺されてしまったのかと思っていましたが。
キングの弟はあの場にいなくて、弟の息子はいたのですが、災難をまぬがれていたのです。その彼らが後に実権を握ったということになるのですが。民主政権といっても、王室がかなりの実権を持っていて、軍隊なども王室についていますからね。
*外からでは実情はなかなかわかりにくいですね。北の方からの若い反乱分子の脅威もあったようですね。
マオイスト(毛沢東共産革命を支持する一派)のことですね。マオイストは主に西部の貧しい山岳地帯の青年達で構成されていて、自分たちの食料も足りないような地域で、観光客も来ない、政府の援助もあまり無い、というネパール社会から取り残されたところなのです。そういうところの青年たちが、マオイストとなって武装して勢力を持ち始め、脅威になってきていたようです。王宮事件の時もそうでしたが、外出禁止令がでましたが、国内にいた私たちは何が起こったのか、よく分からなかったですね。ネパールのテレビやラジオ放送からは、ニュースは流れてこないし、幸いBBC とか CNN のニュースが見られましたので。日本のインターネットでも、何が起こったのか知ることができました。
*ではBBC、 CNN などを受信していなかったら、外出禁止令が出ても何が起きたのか、わからないわけですね。
日本の大使館とか日本人クラブなどからも情報は配信されてきました。連絡網がちゃんとできていて、そちらからも情報は流されるのです。外出禁止令がでていますから、しばらく外に出ないでください、とか。
*そういう場合の情報は、どのように配信されるのですか?
電話かメールです。そういう場合でも、外に出さえしなければ巻き込まれることはほとんどなくて、まあ、それほど心配することもないのですけど。でも、やっぱり外出禁止令、となると、いったい何が起きているのか、ということでストレスはありましたね。
*そうすると、オーストラリアに来られた理由は、国政の不安定ということが大きいですか?
いいえ、移住した時がたまたま不安定な時でした。やっぱり最初に言ったように、一番の理由は子供たちの教育です。ネパールで子供たちを大学に入れても、卒業した後の彼らの将来が見えてこないのですよ。ネパールに住んでいる私たちと同じようなカップルの一番の悩みは、やはり子供の教育です。ネパールからアメリカなど海外の大学に留学させるとなると、莫大な費用がかかるのです。スカラーシップなどもらえれば別ですけれど、数が限られていますから、ほとんど可能性はゼロと思って、そうすると自費になりますが、ネパールのルピーをドルに換えての送金では、もう大変な金額になって無理ですよね。
*日本の大学に行くにしても、通貨は円だから、やっぱり莫大な金額になりますね。
日本の場合は経済だけでなく、言葉の問題があって、日本は全然考えていませんでした。子供たちは日本語ができませんから。無理なんです。
*英語の方は問題ないのですか? お子さんたちはインターナショナル・スクールに行っていたのですか?
いいえ、ローカル・スクールですが、ネパールでは英語の授業が多いので、言葉の問題は全然ありません。数学とか化学など、理数系は教科書も英語の教科書を使っていて、授業も英語です。だから留学先となるとやはり英語圏に、ということになりますね。
*そんなに英語教育がされているということは、ネパールは英国の植民地だったのかしら?
いいえ、ネパールは植民地になっていません。英国はインドに続いてネパールも侵略して植民地にするつもりだったらしいですが、できなかったのです。インドとネパールの国境にはタライ平原という奥深いジャングルがずーっと続いています。侵攻してみたものの、そこで熱帯気候のジャングルと病気にやられたこと、それにグルカ兵というグルカ出身の非常にたくましくて勇敢な兵隊に行く手を阻まれてあきらめたのです。グルカ兵ってご存知ですか? 心身共に強健、強靭、勇敢なことで世界的にも有名なのですよ。今でもたくさん傭兵になっていて、イギリスの傭兵にはグルカ兵がたくさん雇われています。
*そうなのですか。私はアジアで植民地にならなかったのは、日本とタイ国だけだと思っていたのですが、ネパールもなってなかったのですね。そういえばブータンも植民地になってないですね。そうするとアジアで植民地をまぬがれたのは4カ国になるのかな。では話をもとに戻して、英語圏ということと、義理の弟さんがシドニーにいらっしゃる、ということで移住先にオーストラリアを選ばれたわけですね。移住権は簡単にとれましたか?
ええとですね。申請をしたのが10年前で途中で夫がカナダへ行ったりして、ちょっと手続きの途絶えた時期があったりして、結局、許可が下りたのは7年前ですね。でも、ネパールの方の生活があったもので、3年ほど前にまず夫が先に来て、次に息子、私と娘はぎりぎりまで頑張って、マイグラントビザの期限が切れる2週間前にオーストラリアに入国しました。
*マイグラントビザというのは期限があって、その期限内に移住しないと解消されてしまうのですよね。では、早くオーストラリアに行きたいとか、そういう気持ちはなかったのですね。
そうですね。オーストラリアで何をしたい、という気持ちは特になかったですね。移住の目的は子供の教育ですから。
*オーストラリアに移住した時息子さんは何歳でしたか?
15歳でハイスクールの10年生、日本では高校1年生ですね。
*高校1年のクラスにいきなり入って、言葉の問題は全くなかったのですか?
入学する前には、ESL(English as Second Language 英語が母国語でない生徒の為に英語を特別に教えるクラス)に1年入れた方が良い、と夫に助言があったようですが、入学したらその必要はない、といわれたとのことです。ネパールの学校での英語で十分だったのでしょう。
*オーストラリアでご主人は何をされていらっしゃいますか?
メルボルン大学の研究員です。彼は勉強が好きなんですよ。論文を書いたり、いろいろと忙しくしています。
*研究員というのは大学からお給料が出るのですか?
いいえ、それはないです。だから、パートタイムで教えたり、教授のサポートをしたりとか、アルバイト的な仕事をしています。
*それでは、メルボルンで1年10ヶ月暮らしてみての感想はいかがですか? 物価とか住み心地とか。
高いですよ!ネパールに比べるとなんでも。食料品、生活用品など全ての物が。あっ、でも、電気製品とかコンピューターなどはオーストラリアの方が安いですね。
*日本からオーストラリアに来た人は、オーストラリアは何でも安い、安い、といいますけどね。もっとも日本は何年もずっとデフレで、オーストラリアは、少しインフレの傾向ですし、最近はオーストラリアドルも少し強くなったので、逆転している物もあるようですね。それでは、オーストラリア移住の最大の理由だったお子さんの教育ですが、息子さんは昨年高校を卒業して、今年から大学生になりましたか?
ええ、おかげさまで。現在はメルボルン大学で、エンジニアリングを勉強しています。一応5年のダブルディグリーのコースに入っています。電子工学ですか、そのなかでもロボットの開発に興味があって、そちらの方を勉強しているようですが、新しい学部でメルボルン大学ではまだ卒業生が出ていないそうです。
*最先端ですね。優秀な息子さんなのですね。お嬢さんの方は将来の目的とか、おありなのですか?
娘はまだ9年生なので、具体的には決まってないようですね。でも、息子だけでも希望の大学で希望の学部に入れたので、私たちの目的の半分は達成したことになります。
*オーストラリアの大学は、入学金はないし、授業料は卒業して職業に就いてから、収入から差し引かれる制度ですから、親にとっては楽ですよね。
そうですね。いい制度だな、といって家でも、とても喜んでいます。あと娘の方も大学に入ってくれれば、もう親の責任は果たしたことになります。後は自分で道を切り開いて行って欲しいと思っています。そうしたら、私たちはまたネパールに帰ることもできますし、まあ、その時はその時のことですね。
*お子さんたちは、もう親の手の掛からない年齢ですよね。ご自身のためには何かなさっていますか?
私は移民のための英語教室に通っています。毎日8時半から12時半までのフルタイムです。移民のためのクラスですから、生徒の方もアフリカ、中国、中近東、ヨーロッパ、それこそ世界中から来ています。
*今、どこの国の人が多いですか?
やっぱりイラクですね。トルコ人もけっこう多いですね。
*その教室は移民の人たちだけですか?
いいえ、難民の人たちもいますよ。イラク、ソマリア、ナイジェリア。南米からはアルゼンチンとかチリからの人もいますし、とても国際的で面白いですよ。いろいろな国の人たちの話が聞けます。やっぱりオーストラリアという国はいいですね。難民も受け入れて、英語の教育もちゃんとしてくれるわけですから。
*費用などは無料ですか?
510時間までは無料です。あと自分で続けたとしても安いですよ。年間60ドルくらいのものですから、ただみたいなものですよね。私はネパール語をきちんと勉強しなかったので、ネパール語の読み書きができないのです。なまじ夫が日本語ができたばっかりに、私はネパール語を真剣にやらなかったので。
*ではネパールでの普段の日常会話などはどうでしたか?
日常会話ぐらいでしたら問題ないです。でもネパールに20年住みながら読み書きを習得しなかったので、今度はきちっと英語を勉強しよう、と思っています。やっぱり将来のことを考えると、思ったことも言えなくて、人と挨拶以上の話ができないのでは淋しいですよね。

*そうですね。新聞、雑誌くらいは読めた方がいいでしょうね。テレビも楽しめて。それにいろいろな国から来た人たちと話をするのも、やはり英語ですものね。

そうですね。でも私は年齢的なこともあって、学ぶスピードがおそいから時々落ち込んだりします。

*そんな、まだ1年半じゃないですか。お気持ちはよく解かりますけれど。私もそうでしたから。まあ、郷に入れば郷に従えで、マイペースであせらずゆっくり勉強なさってください。今日はいろいろと興味深いお話を、たくさん聞かせていただいてありがとうございました。

インタビュー:スピアーズ洋子 

(c) Yukari Shuppan
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