Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (21)        永江純孝 
                                
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、2003年春の叙勲を受けられた永江純孝さん。今年82歳になられますが、かくしゃくとしてメルボルンで剣道の指導を続けられています。日曜日の午前中、「ヤーッ!ヤーッ!」と、勇ましい掛け声が通りまで聞こえてくる謙志館にお訪ねして、お話を伺いました。
 
*この度は叙勲おめでとうございます。まず叙勲についてうかがいたいのですが。

私が受けた叙勲は海外で日本に貢献した人を対象に選ばれたものです。分野や国も様々で、学者、政治家、社会活動家、事業家など、アメリカ、ブラジル、オーストラリア、日本からで私も含めて5人でした。日本からは国連親善大使をされていた黒柳徹子さんでした。

*永江さんの場合は剣道をオーストラリアに広めたということですか?

剣道だけではないのです。剣道については、日本のスポーツを海外に広めたということで、昨年外務大臣表彰を頂いています。今回は剣道もありますが合弁会社の事業をしたり、豪日協会とか、学校の先生とか、他にもいろいろしていますので、それらを含めてのことのようです。

*では、永江さんとオーストラリアの関わりは、いつから始まったのですか?

最初にオーストラリアに来たのは1975年でした。当時、雪印乳業とオーストラリアの会社、マレーゴーバンとの合弁会社ができたのです。その会社の副会長として駐在することになりました。それまで、マレーゴウバンはチェーダチーズを作ってイギリスに輸出をしていました。ところがヨーロッパにEECができて、イギリスはオーストラリアからチーズを輸入しなくなりました。大きなマーケットを失ったマレーゴーバンは困って、輸出先を探していました。一方、雪印の方は、チーズを海外から輸入していましたが、ヨーロッパの牛乳が減って、チーズが値上がりしてしまい、困っていました。そこに三菱さんが間に入って、オーストラリアで輸出先を失って困っているマレーゴーバンという会社があるから、そこからチーズを買ったらどうか、と言うサジェストがあって、それが合弁会社のきっかけでした。それで雪印の会長の佐藤さんから「お前行ってこい」と。ついでに「剣道も広めて来い」といわれたのです。と言うのは、当時、佐藤さんは全日本剣道連盟の副会長をされていました。それで、彼から「合弁会社の仕事で行くのではあるが、剣道も普及しなさい」、という命令があってオーストラリアに来たわけです。

*その頃のオーストラリアと今のオーストラリアは、随分変わっているでしょうね。

それはもう大違いです。その頃はまだ第二次世界大戦の影響が残っていました。ですから日本人に対して反感を持っている人がほとんどでした。また困ったことに合弁会社が小さな田舎町にあったのですが、その町は在郷軍人が開拓した町だったのです。来たばかりの時は、家内のビザはまだ取れていなかったので、私ひとりでしたから、食事などもホテルやレストランでするしかなかったのですが、ホテルのカウンターランチというのがありますでしょ。席が空いているから、座っていいか、と聞くと一応は「いいよ」とはいうのですね。それで僕が席に着くと、周りで食べていた人たちは、ナイフとフォークと皿を持って、他に移ってしまうのです。「日本人と一緒に飯は食わんぞ」ということですね。仕事が終わってから、工場の人たちと「パブに行こうよ」ということになって、パブに一緒に行っても、僕だけ入れてくれないのです。「お前は日本人だろう。お前の国の軍隊は俺たちを殺そうとした」とか、「我々を捕虜にして酷い目に合わせた」とか、もう散々文句をいわれました。

*それでは永江さんが日本人だということは、町の人は知っていたわけですね。

そう、僕の一挙一動、全部知られていました。だから悪いことは全然出来ませんでした。

*でも、パブに行って、永江さんだけ入れてもらえなくて、一緒に行った他の人はどうしたのですか。

僕に悪いと思って、彼らも困ったんでしょう。話をつけてくれて、それからは入れるようになりましたけどね。町で行き会った全然知らない人に、ちょっと来い、と呼び止められて、「だいたいお前と同じくらいの年齢の奴に酷い目にあわされた」と、文句を言われたこともありましたよ。

 
*まあ、それは、大変な所にいらしたのですね。

その当時に比べれば、今のオーストラリアは天国ですね。みんなとてもフレンドリーで友好的ですからね。

*当時のそういう状況で事業をするというのは、これまた至難の技ですね。

大変だったですね。みんな、なかなか言うことを聞きませんしね。僕はテクニカルディレクターという役もあったのですが、日本人の言うことなんか、聞こうとしませんでした。彼らは日本へ輸出するチーズを作る機械を準備していましたが、オランダの装置であまりにもデリケートに設計されていました。この機械はここをこう直さなければダメだ、と僕がいくらいっても聞きませんでした。

*では、そういう状況で永江さんはどうされたのですか?  

当時のマレーゴーバンの社長と大喧嘩をしました。「なら、俺はもう日本へ帰る」といって荷物をたたんで帰ろうとしていました。そしたら向こうから電話をかけてきました。この人はなかなか曲者のおっさんでして、急に猫なで声をだして「あなたの言うことは解かった」と言い出しましてね。親会社のマレーゴーバンは、設備の合理化に資金を使い、合弁事業まで手が廻らないから、「雪印に再度資金導入ができるように、頼んできてくれ」と、いうのです。金がなければ機械の改造もできないので、では、ということで日本に帰りました。社長に事情を説明して、「申し訳ありませんが、お願いします」と頼み込みました。すると「じゃあ、永江君、金は出すけれども、もし、それでもダメな場合、君はどうするつもりだね」といわれたので、僕は「切腹します」といいました。僕はそれまでいろいろな機械のトラブルを解決して経験を積んできていますから、自分の意見でやれば大丈夫、という確信はありました。オーストラリアに戻って、雪印から出費してもらった金で機械を改造して、その年の末には、もう1500トンのチーズを生産しました。その時のマレーゴーバンの社長がマクガイヤーという人で、もう亡くなりましたが、オーストラリアのチーズ業界では名の知れた人でした。彼とはそれ以来、すっかり仲良くなって、彼は僕に「お前、もう日本に帰るな」、といいだすようになりました。
 
*話は少し前に戻りますが、戦争中、永江さんはやはりオーストラリアと戦ったのですか? 
 

いいえ、僕は北大で乳製品の研究をしていました。ご存知かな、カゼインという乳製品なんですが。これが強力な糊になるのです。ベニヤ板の接着剤になるのです。ゼロ戦とかいろいろな戦闘機に使うベニヤ板の接着剤にこれを使うわけです。戦争中はその関係の工場で働いていたものですから、戦争には全く行ってないのです。でも、僕と同じ世代の人はだいぶ戦争に行って死んでいます。北大の剣道部の仲間で、剣道部の主将だった人は沖縄から特攻隊でいって亡くなっています。ですから僕なんかは本当に珍しい例ですね。戦争に行かなかった、という。ただ、オーストラリア人にしてみれば戦争で戦った同じ年代の日本人に見えるのでしょうね。
 

*いつ頃からオーストラリアで剣道を教え始めたのですか?

オーストラリアに来た翌年ですかね。それまでは機械の改造など工場を直すことで頭がいっぱいで、剣道どころじゃなかったですから。ただ、メルボルンには会議があって毎月来ていました。たまたまある時、メルボルンで剣道をしているところがあるけど、見てみないか、といわれて道場へ行ってみました。そしたらデタラメな剣道をやっていました。「これはいかん。これは違うよ。この場合はこんな風にするものではない、こうしなければ」と口を挟んだのがきっかけでした。「そんなら、お前が来て教えろ」ということになったわけです。

*その道場ではオーストラリア人だけで剣道をしていたわけですね。どこで習ったのでしょう。

進駐軍として日本に駐留していた時とか、ロータリークラブの交換留学とかで日本へ行って、その時見よう見まねで覚えてきた、という人たちがメルボルンに帰ってきて、教えていたのです。

*ということは、オーストラリア人にとっても剣道というものに、何か魅かれるものがあったのでしょうか?

そうでしょうね。ああいう環境でもやっていた、ということは。

*それはやはり、礼を重んじる日本の精神文化とか、そういうものに魅かれる、ということなのでしょうか?

よく解かりませんね、今でも。道場の生徒は100人ほどで、ほとんどがオーストラリア人ですが、彼らがなぜ剣道をするのか、僕には今だ解からないです。ただ、空手とか合気道、柔道は簡単に始められます。費用がかかりませんから。それに比べると、剣道は道具や稽古着などを揃えないといけないので、お金がかかります。それで普及が少ない、ということもあるのですが。稽古着や道具は高いので、クラブに備えてあって、もってない人には貸しているのですが、興味を持ち始めた人は高いお金を出して、自分で買っていますよ。こちらの若い人は自立してますでしょ。いつまでも親のせわになってないですから、かなりの出費だと思いますけどね。自分で働いてお金を貯めて買っていますよ。それと空手や合気道から剣道に移ってくる人がいます。何故かと聞くと、精神的に物足りなくなってきた、という人もいますね。それと、やっているとだんだん面白くなってくるようです。ある程度までくると、もう止めないですね。

 
*この道場の名前ですが、剣道の剣をとった剣志館とばかり思い込んでいたのですが、謙志館なのですね。何かわけがあるのでしょうか。

この道場の建設資金を出してくれたのが大塚謙四郎という方なのです。この方のお孫さんが当時、シドニーでレストランと不動産の事業をされていました。大塚さんはお孫さんがお気に入りだったようです。それで孫が事業をしているオーストラリアで、何か日本人のためになることに金を出そう、というつもりだったようです。日本経済のバブルの余韻がまだ残っている時でした。お孫さんの知り合いが僕の知り合いでもあって、彼から「何がいいだろう、と話しているよ」と聞いたものですから、「それなら剣道場を建てて欲しいな」と、僕は冗談のつもりでいったのです。そしたら大塚さんから飛行機の切符が送られてきて、会いたいから日本にきてくれ、ということでした。そのきっかけが面白いのですよ。当時はメルボルンと成田の直行便がたくさんあったのですね。その直行便がメルボルンと名古屋間にもできたのです。それを記念して名古屋テレビのスタッフがミス名古屋を連れてメルボルンに取材に来ました。あちこち取材して、YMCAで僕が剣道を教えているところも取材して帰りました。その番組が日本で放映されたのを大塚さんが観ておられて、「メルボルンで道場を建てて欲しい、と言っているのはこの男か、よし会ってみよう」ということになったらしいのです。ところで、僕の剣道の先生は中倉清という、当時日本の宮本武蔵といわれた方でした。その中倉清の先生が中山博道といってこの人も剣道では有名な方でした。大塚謙四郎さんは中山博道に剣道を習っていたのです。また中山博道のために渋谷に道場を建てていました。この道場は戦争中空襲で無くなりました。中山博道先生もすでに亡くなられています。大塚謙四郎さんにお会いして、いろいろ話しているうちに、話題がそういうことに移っていって、すっかり意気投合してしまったのです。実は日本へ行く前に、お孫さんから「お爺さんは臍曲がりなところがあるから、永江さんが気に入ったら、いうことを聞くけれど、ダメならダメとはっきり言う人だから、その点は覚悟して行ってくれ」、といわれていたのです。だから僕もそのつもりでいたのですが、会って話しているうちに、いろいろなことが解かってきて、話がどんどん進展しました。その時、大塚さんは93歳だったのかな、かくしゃくとしてらして、竹刀を持ってきて、こうだ、ああだ、とやりだしたのです。二人とも意気投合して、「よし、永江さん、メルボルンに剣道場を作ろう」ということになったのです。当時のオーストラリアドルで400万ドルを出してくれました。

*そうだったのですか。私、謙志館に入ってきて、びっくりしました。すごい人数の様々な人種のいろいろな世代の人たちが、稽古をしていますね。

これも大塚さんのお蔭だと思いますよ。

*オーストラリアで剣道をする人は現在どのくらいいるのでしょうか?

だいぶ増えてきましたが、それでも1000人ぐらいでしょうかね。オーストラリア人は家庭生活を大事にするでしょ。だから家族のいる人は、奥さんに合気道とか、他のものを習ってもらって、子どもの面倒を交代でみながら習いにきていますよ。仕事をもっている人のために夜の稽古もあります。このクラブのメンバーは100人ぐらいですかね。オーストラリア人は始めてみて、途中で止めて、又始めたりで、出たり入ったり気軽にしてますから、正確な人数は知りませんが。

 
*今日お稽古を拝見しましたが、生徒さんはヨーロッパ系、ラテン系、中近東、中国、韓国、とさまざまなようですね。オーストラリアのような多民族国家で剣道を教える難しさと、またその反対にやりがい、と両方あると思うのですが。

難しさ、があるとすれば一つは宗教の問題です。この個室に神棚が飾ってあるでしょ。日本だったら神棚は道場に飾ってあって、始める時に礼をして、終わってからも礼をして終えるのです。ところが宗教が違うと、礼はできないのですよ。以前、私はそのことが解からなかったので、神棚を道場に飾っていました。「礼」といってお辞儀をするように、いったら、「何でお辞儀をするのか?」と聞くわけです。「あれは武道の神様で、武道の神様にお辞儀をするのだ」といったのですが、「自分は宗教が違うからお辞儀はしない」というのです。だから宗教に結びつけることはできません。この点は日本でもだいぶ変わってきましたね。体育館など使ってやっていますから。その宗教の問題が一つ。もう一つは先輩、後輩の上下関係ですね。先輩の言うことを聞け、なんてことはいえません。道場の中では先生といっていますが、一歩外へ出れば、とたんに「ハロー、メイト」になってしまうのです。僕も最初、それが嫌で気にさわりました。コンチクショウと思いましたよ。でも、しょうがないですね、これは。

*そうですね。特にオーストラリアでは、平社員が上役、社長をファーストネームで呼ぶお国柄ですからね。

その通りです。この頃では、日本式に道場の外でも、先生、先生と言わなくてもいいんじゃないかと、日本式の方が変だと、思うようになりましたね。道場の外に出てまで、先生だからって威張ってみてもしょうがないですよね。

 

*そうですか。それぞれ社会的、文化的にバックグラウンドが違いますから、難しいですね。

それとですね。日本人はいまだに外国人、西洋人に対する劣等感がありますね。その裏返しなのでしょう。外国人をちやほや、ちやほやしますね。こちらからオーストラリア人の生徒が日本へ行くと、外国人が剣道やってる、ということで大変ですわ。特に田舎などへ行くと、新聞に書かれたり、テレビに出たりの大騒ぎです。それで舞い上がってテングになって帰ってきます。そして勝手なことをやりだすのです。これも困ったことです。良い点をあげれば、彼らは非常に素直ですね。教えられたことは身につけようと努力しています。ただ教え方は理詰めでないとダメですね。日本だったら、「まず見てろ」ということから始めていきますが、ここでは、それではダメですね。ここは、こうで、敵がこう打ってくるから、こう受け止めて、すると敵の刀はこう流れるから、こうする、というように説明するとよく解かって、一所懸命覚えてマスターしようとします。その点純粋といえば純粋ですね。お行儀もいいですよ。稽古がすんだら袴(はかま)もきちんとたたみます。今日本では袴のたたみ方は教えてないです。教えると生徒は怒って帰ってしまうんです。それで剣道を続けなくなるのですね。剣道を続けさせる為に、生徒をほいほい甘やかせてしまうのです。そういうことはこちらではしません。その必要はないと思いますよ。


*剣道を日本の宗教や伝統的な習慣と切り離してとなると、剣道もスポーツのひとつになるのでしょうか?

そうです。話は元に戻りますが、いくらオーストラリアで剣道を広めろ、といわれても以前のように反日感情の強いところで、ましてや剣道は刀を使う技ですし、刀は人を切るためのものですから。僕がたった一人では、とても無理な話ですよ。オーストラリアは広さだけでもヨーロッパぐらいあるわけですから。それで考えたのは、オーストラリアには国家公認スポーツコーチ制度というのがあって、これはあらゆるスポーツにあります。そこで剣道もスポーツとして認めてもらうことでした。オーストラリア・スポーツ・コーチング・カウンセル(A.C.C.) というのがあって、ここに指導要領を提出して認めてもらえばいいわけす。そうやって剣道もスポーツとして認定されました。しかしなかなか大変でしたよ。当時認めてもらうのは、今と状況が随分違ってましたから。それから僕がしたことは、まず国家公認スポーツコーチを育てて、各州に派遣したのです。そのコーチがそれぞれの州で道場を開いて教えています。公認コーチの指導は、最近まで私がしていましたが、もう年なのでオーストラリア人に任せました。その彼が時々、公認コーチの講習会を開いています。コーチになりたい人は試験を受けて、受かればコーチになれます。
*剣道の次の世代もきちんと育っているのですね。ところで一時期、先生もなされていたのですか。
ええ、Deakin University の Toorak キャンパスで日本の戦後からの歴史、経済、政治、社会といったものを教えていました。生徒はほとんど日本人で、日本語で授業をしたので楽だったですね。今はキャンパスが移転して遠くなってしまったので止めました。 
         

*最後に永江さんのご家族のことを少しお聞きしたいのですが。

家内はビザがすぐ取れなかったので、私よりだいぶ遅れてオーストラリアにきました。1980年だったかな。当時はまだ日本食が今のように簡単に手に入りませんでしたが、パンが好きだし、洋食でも苦にならない方なので、そんなに困るということもなかったですね。娘は日本に住んでいます。家内は娘に会いに度々日本とオーストラリアを往復していますよ。私も時々、日豪間を往復しています。
      
*国際間でスポーツを通して互いの文化を理解し、尊重しあえれば素晴らしいですね。オーストラリアで剣道をする人が増えることを願っています。今日はお忙しいところ、貴重なお話をしていただきありがとうございました。

 

インタビュー: スピアーズ洋子

(c) Yukari Shuppan
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