Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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インタビュー (17)     Loura Maiden  ローラ・メイデン
                                
  
この欄では、有名、無名、国籍を問わず、ユーカリ編集部で「この人」を、と思った人を紹介していきます。 今月のこの人は、メルボルンで学校の先生をしているローラ・メイデンさんをお訪ねして、お話を聞かせていただきました。
 
*ローラさんは、お生まれはどちらですか?
私はビクトリア州の北部、マリー川上流にあるスワンヒルという町の病院で生まれました。両親はスワンヒルのもっと北のソルトレイクに近いシーレイクという小さな田舎町に住んでいました。そこには病院がなかったので、母は出産のためにスワンヒルの病院に行って私を生みました。

*ご両親ともオーストラリア人ですか?
そうです。私の祖祖父、祖祖母は第1次世界大戦以前に、ドイツから移民してきました。 3代続いてオーストラリア人、というのも現在ではめずらしくなっています。母方はドイツ系とスコットランド、父方はスコットランドとイギリス系が混ざっていると聞いています。

*お父様は第2次世界大戦直後に日本にいらしたとか?
父が第2次世界大戦に参加した時は、とても若くまだ17才か18才だったので、戦闘には参加できなかったはずです。だから占領軍の一員として広島へ行ったのだと思います。

*占領軍はアメリカが首都東京と周辺、イギリスは四国、オーストラリアは原爆が投下された広島。オーストラリアは分の悪い所をあてがわれたわけですね。広島に進駐したオーストラリア兵の中には、白血病で亡くなった方がかなりいると聞いていますが、ローラさんのお父様も若くして亡くなられたのでしたね?
ええ、27才でした。父は20才でオーストラリアに戻ってきて、その後母と結婚して私が生まれたわけですが、私が物心ついた頃には、父はもういませんでした。父の死因はガンでした。母から聞いたところによると、父がいた部隊では、後にガンで亡くなった人がかなりいる、ということなので原爆の放射能の影響ということもありえるかもしれませんが、証明はされていませんし、私ははっきりわかりません。

 
*お父様の思い出はありますか? 
ほとんどないのですが、子供の頃、家に日本のモノが沢山ありました。珍しい扇子だとか、お人形、絹のハンカチのようなもの、エキゾチックな置物や掛け軸など。だから私が最初にふれた外国の香りは、日本だったのです。後に母は再婚したので、あまり父の話はしないようになってしまいましたが、大人になってから、父のことをもっと知りたいと思うようになりました。母や叔母、叔父たちに父のことをもっと聞いておきたいと思っています。
 
*現在、ローラさんは既婚者で二人のお子さんがあり、学校の先生もされていますね。妻と母と教師の3役を、どのようにこなしていらっしゃいますか?  
私は長女が4歳になるまでは、フルタイムで教師をしていました。二番目の子供が生まれてから、しばらく職場を離れました。それに夫が、シドニー、ニューヨークと転勤になったので、その間の5年ほどは休職していました。
 
*オーストラリアでは、5年間も休職できるのですか?
もちろん無給ですが。でも、その間に前の職場が確保されている、というわけではありません。どこかに空きがあれば、休職した当時と同じ資格で教職につけるということです。子供たちが小学校に行くようになってから、初めのうちはパートタイムで仕事を始め、子供たちがもう少し大きくなってからフルタイムで働き始めました。でも、三役を上手くこなしたかどうか、自信はありません。上の子は21才の誕生日を迎えたばかりですが、子供の時、私が家にいないで淋しかった、と言っていますから。

*ご主人はどんな仕事をされる方ですか?
夫はジャーナリストで、経済関係が専門です。時間が不規則で夜や休日に働くこともあるので、夫の助けはあまり期待できません。ですから子供が小さいときは大変でした。でも学校の先生というのは割合早く帰宅できるし、休みも子供たちと同じなので、その点では働きやすいですね。

*ご主人はどのくらい家事や育児を手伝ってくれますか?
朝がゆっくりなので、子供を学校へ連れて行ってくれました。平日は、その他の助けは全く期待できません。でも週末や休暇中は、料理をしてくれます。料理が好きでけっこう上手なのです。自分で買い物にも行って、沢山作ってくれます。月曜日の分とかも。残りを冷凍したりもします。家事、育児を五分五分と言うわけにはいきませんが、忙しい仕事のわりにはよくやってくれ、家庭を大事にしてくれていると思います。数年前、二度目のニューヨーク転勤の話があったのですが、丁度子供たちがティーンエイジになって、進学など、一番難しい年頃でした。働き盛りの経済記者にとって、ニューヨーク支局というのは、とても魅力のある職場ですが、いく晩も話し合って、辞退することにしました。私もニューヨークの生活は刺激があって好きですが、やはり子供は大切です。ニューヨーク支局の仕事は、他にやりたい人が沢山いて、夫でなくてもできますが、子供たちの親は私たちだけで、人に代わってもらうことはできませんから。

 
*では次に、ご自身のお仕事についてうかがいたいのですが。どのような学校で教えていらっしゃるのですか?
メルボルンの北西にあるハイスクール(オーストラリアでは中学・高校一貫制度)で、両親は労働者、移民してきた人たちや難民がほとんどです。一クラスは25人に限定されています。クラスは多民族で構成されていてとても国際的です。着いたばかりの移民や難民の子供たちがいます。彼らは英語が解からないので、まず、英語を教える特別なコースで英語を学ばせてから、クラスに編入させます。普通のオーストラリアの学校とすごく異なる点は、英語が母国語でない生徒が半数以上を占めているということです。問題のある生徒も少なくありません。特に難民の子供たちには様々な問題があります。今のところは、アフガニスタン、イラン、イラクのカーディッシュ(クルト人)の難民たちが多いですが、その前は、旧ユーゴスラビアからの難民が大半で、その前は、カンボジア、ベトナムでした。

*世界情勢の反映ですね。

ええ、新聞を読まなくても、クラスの難民の生徒の国籍と数をみれば世界のどこで紛争が起こっているか、わかるくらいです。彼らは母国で、酷い体験をしてきています。目の前で肉親が殺されたりするのを目撃しているわけですから。看護婦やカウンセラーがいて、彼らの心理的なサポートをしています。できるだけのことはしようとしています。朝食プログラムというのがあって、週に3日だけですが、家庭の事情で朝食を食べないで学校に来る子のために、朝食を提供するなど、福祉的な支援もいろいろしています。

 
*1クラスは25人といわれましたが、ではクラス内の国籍、人種的な構成はどうなっていますか?
まあ、約半数弱がアングロサクソン系の労働者階級の子供たち。あとは、イタリヤ、ギリシャなどからの普通の移民と、難民ということで、1クラスに数カ国から10カ国ぐらいの子供たちが混ざっています。教壇からみると、ヨーロッパ系、中近東系、アジア・東南アジア系、アフリカ系、太平洋や大西洋の島民系と、本当に様々です。でも、これだけバックグラウンドが違うにもかかわらず、クラスの生徒たちは、お互いに、けっこううまくやっています。

 

*母国同士が紛争の相手国だったりする場合でも大丈夫なのですか?
ええ、クロアチアとサーブ出身の生徒や、イラクとイラクのカーディッシュ(クルド人)出身の生徒が同じクラスになることもありますが、そのために問題が起きることはありません。彼らはここで新しい生活をスタートすることに一生懸命で、過去にはこだわっていない様にみえます。内面はどうか分かりませんが、少なくとも表面には出しません。子供たちはオーストラリア人どうしでもケンカをしたり、悪口をいったり、はやしたりするように、彼ら同士が人種的なことをケンカなどで言っているかも知れませんが、表立って問題になることはありません。
*海外から来た子供たちがオーストラリアの学校生活に順応するのに、どのくらいかかりますか? もちろん個人差があるでしょうが?
だいたい1年ぐらいでしょう。 自分一人だけがみんなと違う、という状況ではなく、みんながそれぞれ異なるバックグラウンドを背負っているので、かえって順応しやすいのかもしれません。ただ、酷い体験をしてトラウマを持っている子の場合は、それなりに期間が必要です。専門的な相談相手になる人もいますし、先生方もクラスメートも、その生徒が体験せざるをえなかった過去を、理解するように勤めています。完全に理解するのは難しいでしょうが、少なくとも解かろうという努力はしています。
*順応するのにかかる期間というのは英語の習得期間に比例しますか?
 一概に、そうとはいえません。英語の方は、6ヶ月くらいでだいたい分かるようになる子もいます。オーストラリアの生活に順応できても、何年たっても英語で基本的な間違いをする子もいます。間違いは母国語と強く関連していて、中国系の子は、文章の時制、現在、過去、特に完了形で非常に苦労するようです。中国語では英語のような時制の表し方はないようですね。まあ、英語力とか文化の違いとか、いろいろ問題があるにもかかわらず、みんな一緒になって勉強やスポーツをしています。学校内の生徒たちをみていて、私はオーストラリアが推進してきた多民族多文化主義に、楽観的な希望をもっています。
*その学校はオーストラリアの平均的な学校ではないですよね。
その通りです。かなり特殊な学校です。たまたま、移民や難民が多く住んでいるという地域的な事情で、小さな地域に人種や国籍の違う人たちがたくさん集まっていますが、普通はアングロサクソン系が大半を占めています。         
*ハイスクールということですが、進学率はどのくらいですか? 
非常に低いです。中流家庭の子供たちに比べると、多くの生徒たちは、まずスタートからハンディキャップを負っています。移民や難民の子供たちは、英語と、母国の文化の違い、というハンディがあります。それに貧しい家庭が多いのです。生徒の親の60%以上が、失業保険などの社会福祉を受けていますし、シングルマザーもたくさんいます。アングロサクソン系の保護者たちの場合、社会人として成功していないケースが多いので、子供たちに手本を示せないのです。 どのように躾けをしたらいいのか、勤勉であることや努力をすること、自分を制することなど、彼ら自身が親から教えられていないから、自分たちの子供にも教えられない、という三世代渡るハンディがあります。社会人として成功する(一人前になる)にはどんな努力をすればいいのか、知らないことが多いのです。それに彼らは移民や難民たちに比べて、現在の状態から抜け出そう、という向上心に欠けている面があります。でも全体的にみて、少しずつ、テクニカルカレッジや大学にも進学する生徒が出てきています。頭のいい勉強のできる子は、向上心も強く、努力をするようになりました。特にアジアの子供たちのなかには、よく勉強する子がでてきています。彼らは進学したり、良い仕事についたりすると、お礼を言いにきてくれます。うれしいですよ。普通の学校ではそんなことはまずないですから。       
*教師をしていてやりがいを感じますか?
フラストレーションを感じることもあります。仕事は大変なのに、他に比べてお給料はよくありませんし、社会的な地位も高くはありません。オーストラリアでは先生の社会的な地位は高くないので、社会からも生徒からもあまり尊敬されません。かえって移民や難民で来た子供たちの方が先生を尊敬してくれます。彼らの国では教師の社会的な地位がきっと高いのでしょう。社会的に尊敬されなくても、生徒が感謝してくれると、一人の人間を社会に送り出す手助けをしたのだ、という満足感はあります。        
*教師の仕事は、9時から5時で、はい終わり、というわけにはいかないのでしょう?
その通りです。いつも2,3時間分の余分な仕事があって、家に持ち帰ってしています。学校ではやれミーティングだ、なんだのと、授業の他にまとまった時間がないので、どうしても家に持ち帰らざるをえないのです。        
*二人のお子さんを育てながら大変な教師の仕事を続けてこられたわけですね。今、お子さんは何歳ですか?
娘が大学3年生、息子は高校3年生です。どうにかトンネルの向こうの出口の明かりが見えてきた感じです。子育ても終わりに近くなって、これからは夫婦の時間を沢山持つようにしたい、と思っています。一緒に映画やコンサートへ行ったり、レストランで食事をしたり、旅行もしたいと話し合っています。
*今日はお忙しいところを、いろいろお話いただき、ありがとうございました。


インタビュー: スピアーズ洋子

(c) Yukari Shuppan
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