Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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この国の成り立ち (30)  最終回

        
                
      1901年 1月1日          前田晶子

 

一つのオーストラリアへの動きには、次のような理由もありました。

イギリス政府は、1840年頃の早い時期からオーストラリアの独立を考えていました。主に防衛の意味からでした。国として軍隊を整え、自分たちで外敵から防いで欲しかったのです。フランス、ドイツ、ロシアの軍艦が実際に南太平洋に乗り出してきて、オーストラリア周辺を偵察していました。イギリスの6つの植民地でしかないオーストラリアは強国の脅威にさらされていまいた。  

ゴールドラッシュに集まる移民、特に中国人の扱いに困っていたニューサウスウエールズ、ビクトリアは、早くオーストラリアを一つの国にして移民局を作りたがっていました。  

オーストラリア大陸を流れる最長の川、マレー川はニューサウスウエールズ、ビクトリア、南オーストラリアにまたがっています。それぞれの植民地が交通、運送手段、灌漑にと使っていました。一つの国になれば統一されて大変便利になります。  

さらに、初めてイギリスから船が着いた日から100年経ったお祝いの式典が1888年各地で行われましたが、これも人々の気持ちの中にオーストラリア国として祝ったほうがいいのではという思いを起こさせました。  

6つの植民地の首相たちは、連邦政府樹立に関する会合をひんぱんに開くようになりました。1898年には国民投票が行われましたが、クィーンズランド、西オ-ストラリアは拒否しました。ニューサウスウエールズではわずかな差で賛成派が多く、ビクトリアとタスマニアでは5:1の大差で、南オーストラリアでは2:1で賛成派が多いという結果になりました。翌年1899年第2回目の国民投票が行われました。西オーストラリアはまたも拒否しました。参加したクィーンズランドはわずかな差で賛成に、ニューサウスウエールズは前回と同様わずかな差で賛成に、ビクトリアとタスマニアは15:1でさらに賛成派が増え、南オーストラリアは3:1で賛成となりました。1900年最後まで渋っていた西オーストラリアも国民投票を行い、2:1で賛成となり、これですべての植民地が賛成多数となって連邦政府樹立へ踏み切ることができました。  

1901年 1月1日 オーストラリア連邦政府が誕生しました。国旗は、イギリスのユニオンジャックを左上角に、南十字星でオーストラリアの位置を示しています。大きな星は連邦政府を表しています。公募によって決まりました。国の紋章は、1912年に決まり、オーストラリア独特の動物のカンガルーとエミュー、そして、オーストラリアの木ワトルでかたどられました。国の色は、最初は紺と金でしたが、そのうち緑と金に変わりました。金はワトルの花の色、緑は牧草を表しています。国花は早春の花、ゴールデンワトルになりました。国歌は、イギリスの国歌、「ゴッド セイブ ザ キング」をそのまま使っていましたが、1974年に、「アドバンス オーストラリア フェアー」になりました。首都は、ライバル都市、シドニーとメルボルンの中間に新たに作られることになり、キャンベラと名づけられました。  

アーサー フィリップ率いる11隻の船団がシドニー湾に錨を下ろしてから113年経っていました。独立国家オーストラリアは、依然母国イギリスと深い関係を保ちながら、20世紀を歩き出しました。


・主な参考図書
Dreamtime To Nation   by    Lawrence  Eshuys  Guest MacmillanAustralia)         
Investigating Our Past  by    Sheena Coupe (Longman Cheshire
A Country Grows Up  by  J.J.Grady   (Cassell Australia)


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