Yukari Shuppan
オーストラリア文化一般情報

2002年~2008年にユーカリのウェブサイトに掲載された記事を項目別に収録。
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日豪教育事情 (12) 最終回


1年間連載を続けてきた日豪教育事情は、今年でひとまず終わります。お忙しい中を日豪交代で執筆いただいた筆者の方々と、ご愛読いただいた読者のみなさまに心よりお礼を申し上げます。


オーストラリア

集団意識と判断力

壷坂宣也

 日本人には『出る杭は打たれる。』という言葉があるように、集団の中であまりに強い主張をすると嫌がられることが多々あります。ましてや、年功序列の慣習がある日本において新人や若手にあたる層の人からの斬新なアイデアはすんなりと受け入れられないのがまだまだ一般的かと思います。私達は、常に集団を意識し、その集団の輪を大切にするという技術を幼い頃から、家庭と学校で訓練されています。
 昨年、近所の幼稚園を見学した際に、幼児が皆同じ時間帯に違うことをしている場面に出くわし驚きました。何人かの生徒が絵を描いている間に、別の何人かは積み木をしているといった具合です。日本では歌の時間、体操の時間、お絵かきの時間、…というように、教師主導で毎日のプログラムが進んでいくのが一般的かと思います。いくらクラスで歌で盛り上がっていようが、一人の生徒が絵に執着しようが、時間が来れば、みんなで次のプログラムに移るというのが一般的ではないでしょうか。オーストラリアにもいろいろな特色のある幼稚園があるでしょうから、私がたまたま見学した幼稚園をすべての幼稚園の代表として位置付けるのは良くないかもしれませんが、日本で幼稚園から本格的に集団意識の訓練を始めているという事実を発見するには十分な経験でした。
 また、もう一つの例があります。先日、日本に一時帰国した際に、実家の近所の小学校の運動会を見学し、私ははっとしました。小学一年生の生徒が入場行進で寸分の乱れも無しに歩調を合わせ、全校生徒の準備体操では、音楽に合わせて、上級生と同じ決められた動作をきちんとこなしていく姿は素晴らしいの一言だったのですが、それらは、私の目からは、学校が『どれだけ、その学校の生徒を集団行動に順応できるように訓練ができたか。』ということを発表する場のように見えました。おそらくほとんどの生徒が準備体操をしているという意識はなく、『決められたプログラムの中で訓練された通り、間違いなしにそれをこなそう。』といった意識で一生懸命に取り組んでいたのではないかと想像します。教師の方も本当に生徒のけがを防ぐために準備体操をする必要があると思うなら、全校生徒の準備体操の代わりに各学年の種目が行われる少し前にそれらは行われるべきであるし、全校生徒の準備体操を生徒の身体を目覚めさせるための体操として位置付けるなら、それとは別に各種目に適したウォーミングアップがあるべきだと思いました。また、それとは別に、勝利を収めた組の生徒が「バンザーイ。バンザーイ。」と言って、二度両手を挙げる動作を全員が同時に行うのも妙なものだと思いました。子供達には勝利を歓喜するための様々な表現方法があるはずです。ただ、そんな当然のことを誰にも気付かせないところに日本の集団意識の落とし穴があるのではないでしょうか。
 私の勤務校の校内陸上競技大会にはウォーミングアップは各個人に任されており、やる気のある生徒は食事や水分の補給の時間や量を気にしながらウォーミングアップにも三十分ほどかけます。体操着という決まったものがありませんから、生徒によっては本格的なユニフォームスタイルにスパイクを履いて走る者もいれば、裸足で走る者もいます。チームの勝利に貢献しようと努力すると共に、結局は出場している個人全員が個人のレベルでもスポーツを楽しんでいるといった感じです。原則は全員参加と言いながらも走るのが嫌いな生徒は学校を休んだり、友達が走るのを応援したりチームや教師のサポートをしたりしながら行事の成功に貢献します。全ては個人の判断に任されています。
 オーストラリアでは社会の中でも学校の中でも協調性は求められるものの、それは、他人に迷惑をかけないとか、協力して活動するといったごく基本的なレベルのことで、日本の集団の中で求められるようなものとは異なるように思います。日本の社会が集団の枠の中に個人が存在しているとすれば、オーストラリアの社会は個人が集団を作っている、といった感じがします。ここで、大きな違いは個人の判断力にあります。 
 私の勤務校には毎年数人の日本人留学生が来て、私は彼らの世話をすることが多いのですが、彼らの判断のスピードの遅さに日本人の外国生活における弱点を見ることがよくあります。例えば、選択科目の中でどの科目を選択したいか、ホームステイの家庭でうまく行っているか、何か問題はあるか、…というごく簡単な質問をした際でもなかなか答えが返ってこないことがあります。また、時にはその判断を他人に委ねようとする傾向も見られます。私が日本語で尋ねているのですから、英語の問題ではありません。オーストラリアの生徒でも特に下の学年の恥ずかしがり屋の生徒は回答する際にしどろもどろすることがありますが、自分の意見はある程度はっきりとしていますし、考えて結論を導いたり、判断をしたりするスピードは日本人のそれに比べて格段に速いです。日本的な集団の中にいれば集団の中心になる人物以外は自身で考え、判断する機会が殆ど無いというのが主な理由かと思います。家庭では親に、学校では先生やクラブの先輩や友達に、…、いつも誰かに依存して、集団の流れに乗っていて、自分自身で判断する機会を自ら放棄しているのです。
 日本の社会が年々国際化し、ビジネス集団の一員としてでなく、一対一の人間同士として外国人に接する機会が増えるに従い、この問題は表面化してくるのではないかと思います。日本は日本特有の輪の文化を残しながら、一方で、今、判断力や決断力のある人間を育てる必要に迫られているのではないかと思います。

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